【エッセイ】子供の名づけと願い
もうすぐ第一子が生まれることもあって、最近子供の名前についてよく考えている。
そこで、図書館でお名前辞典を借りてきた。
お名前辞典をひらくと、
音から名づける。
漢字から名づける。
字画から名づける。
イメージから名づける。
などなど、、、
いろんな角度からの名づけについて書かれている。
イメージからというのは、季節や文学に関わる名前だったり、
「穏やか」「活発さ」「優しい」などの名前から与える印象からの名前だったりする。
よく、名前は子供への最初のプレゼントである、なんていうけれど、
どう成長してほしいか、願いを込めてつけるものだと僕も思う。
その願いが幹にあって、
さて苗字と合わせて読みやすいか。
やれ漢字のバランスは良いか。
字画は良いか、なんてことから、
漢字を変えてみたり、
読みを変えてみたり、
終わりを変えてみたり(「〜こ」を「〜み」に変えるみたいな)、
そんな感じで、いくつか候補ができてくる。
ある時、両親と名前の話になった。
「あんたのことだから、そんな変わった名前をつけないでしょうから」
なんて言われた。
うん、変わった名前をつけるつもりはない。
いわゆるキラキラネームのことだ。
これは偏見があると承知の上ではあるのだが、
虐待のニュースで報じられる子供の名前がキラキラネームであることが多いように感じる。(おそらく、印象に残っているだけだと思う)
「こんな凝った名前を子供につけたのに、どうして」
なんて母が言っているのを聞いた。
名前と虐待の関係性について、論じるつもりはないが、
一つだけ思うことがある。
「可愛くて美味しいから、『苺』という字を使いました」という話を聞いたことがある。
自分の好きなものを名前につけるというのは、子供を自分の所有物のように捉えている節があるのではないだろうか。
そうした認識で子育てしていては、思い通りにならない子供というのは苛立ちの対象でしかないと思う。
もちろん、それがすなわち虐待につながるというわけではないが、
子供を持つ上での姿勢みたいなものが名づけに現れているような気がする。
もちろん、「苺」のように可愛らしく誰からも愛される人になってほしいということであれば、ぜひ賛成したい。
実際、多くの方がそうした願いで名前をつけているだろう。
また、「好き」と「願い」というのは、完全に切り分けらるものではない。
私も登山が好きなので、山に関連する名前はどうだろうか、なんて考える。でも、そこにどういう願いを込めるか、が大事なのだ。
「山のように穏やかで、豊かな恵みを人に分け与えられるような人になってほしいから「岳志」ってつけたんだよ。」
名前は願いであり、一種のまじないだ。
そう言い聞かされて育てられれば、良くも悪くもその子の行動に影響するだろうし、それが続けば人格として形作られる。
「お父さんは山が好きだから「岳志」とつけたんだ」では、
子供の成長に何ら影響はなさそうだ。
ましてや、
「お父さんはカレーが好きだから「辛之介」とつけたんだ」
なんてしたら、グレる原因にしかならなそうだ。
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