『Beep21』 セガハード開発者当事者が語る! 真・セガハード列伝─セガ家庭用ゲーム機初のネットワーク通信を実現したメガモデムの真相と真実 -文責 : 戸崎健司-
『Beep21』おなじみの連載
「真・セガハード列伝」は
当時のセガハード開発者自身が
当時の設計思想や今までに
世に出ていない裏話などを
語っていく企画です。
本連載のナビゲーターは
セガハード開発現場の
最前線にいた戸崎健司氏。
▼戸崎氏のプロフィールはこちらからご覧いただけます。
過去の記事では
メガドライブの幻のレーシングコントローラーや
マスターシステム、メガドライブ
ゲームギアなど、セガのブラックハードの
デザインを手がけたソルクス・デザインの
数々の初公開秘話などを3回にわたりお届けしてきました。
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今回のお題は「10年早いセガ」の代表格
とも言える「メガモデム」。
実際に普及した台数もそれほど多くなかったので
遊んだことはないけれど、名前だけは知っている…
というセガファンの方も多いのでは。
実はこれ(メガモデム)を入社間もない頃に
設計したのが「真・セガハード列伝」の
ナビゲーターでもある戸崎健司氏でした。
「メガモデム」に同梱された「ゲーム図書館」。
これも現代でいうところの「ダウンロードアプリ」
みたいなものですが、当時この「ゲーム図書館」の
ソフトの開発には、あのマーク・サーニー氏も
関わっていた、という現場のエピソードも
今回の話の中で飛び出してきます。
そして、任天堂と競い合う中、
ファミコンのホームバンキング構想に対し
佐藤秀樹氏が発した”衝撃の一言”とは?
多くの人が知るメガモデム周辺の本当の真実が
今回開発を担当していた戸崎氏自らによって
時系列に沿って克明に明かされていきます。
初公開秘話も満載の
メガモデムの真相と真実。
ぜひ最後までご覧ください。
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「おもしろそうだな!やるぞ!」で進んだセガのモノづくり
いつからか、そう言われていました。
取り組みが早すぎて、市場の理解がついてこない。だから受け入れられないまま終わってしまう。そういうことが多いからでしょう。
とにかくセガは、面白そうで、それが作れそうだったら、世の中に産み落としてしまう。新しいエンターテインメントを先取りするのがセガらしさ。面白いことに前のめりだけど、売れるかどうか、商売になるかどうかは深く考えてない。そういうところもセガらしさでした。
後々、徐々に市場性、採算性も考えるようになりましたが、メガドライブの時代は、ハードウェア開発部門のトップである佐藤秀樹さんが「おもしろそうだな!やるぞ!」と号令を掛けると、モノづくりが進んでいきました。営業の意見などはそっちのけで。
今回紹介するメガドライブ用通信モデム「メガモデム」は、その一つだったと思います。
実際「メガモデム」の対応ソフトは少ないです。
セガのタイトルでは、「サイバーボール(セガ/1990年7月28日発売)」「アドバンスド大戦略 ドイツ電撃作戦 (セガ/1991年6月17日発売)」が対応していたようです。
同梱ソフトの「ゲーム図書館」は、ゲームサーバーに接続して新しいシナリオやデータをダウンロードして遊ぶもので、セガが開発したものです。
改めてソフトの発売日とメガモデムの発売日を比べると、メガモデム発売前にサンソフトの「TEL・TELまあじゃん」が発売されているのが妙な感じです。なにかしらの事情があると思いますが、今となっては定かではありません。
メガモデムは初めて設計図を引いた製品だった
機構設計チームに所属していた私が、はじめて量産製品の機構設計を行ったのがメガモデムでした。それまでは、先輩が設計した製品の図面を修正したり、少量限定で生産されるような店頭デモ什器の設計を行っていました。まだ設計経験が少ない私は先輩(白岩さん)とペアを組み、上長の松宮課長の指導の元、メガモデムのケースの下半分側(ボトムケース側)の設計を行いました。
私にとって、初めて大量生産される量産品なので、非常に慎重に、丁寧に図面を描いたのを覚えています。
このときに私は、セガゲーム機の製品デザインを委託していたソルクス・デザインと初めて関わりました。
▼参考
もともとインダストリアルデザインが好きで、デザイン雑誌やカースタイリングを愛読していました。だから、デザインプロセスに最初から関われたことは、とても嬉しかったです。ソルクス・デザインさんのような”本物のインダストリアルデザイナー”と仕事をした経験は、後の人生にとても大きな影響がありました。
メガドライブの後部に接続される、これぐらいの基板面積の製品。
外部端子はここにモジュラージャックが付く。
LEDやスイッチ、ボタンはない、など、デザインに必要な情報を提示すると、数週間後にスケッチ案が3点あがってきました。まだ誰も見たことがない、これから世の中に産み落とされる製品のデザインです。それを初めて見るときはいつもとても興奮します。同時に、これを自分が具現化するのかと、身が引き締まる思いにもなります。
3つの案の中から、順当に一番かっこいい案が採用されました。ソルクスからはデザイン図面が提示され、それに基づいて設計を進めます。設計プロセスにおいて、基板側からの要望や、金型側の要望で、デザインには調整が入ります。最初のデザイン案からいろんな都合でデザインが変わっていくのは、とても残念ではありました。
設計とはバランスを見出すこと。全体のバランスの中で、こだわるところはこだわり、諦めるところは諦める。そういう仕事なんだとわかったのも、この仕事のお陰でした。
こうして、駆け出しの新人機構設計者として関わったメガモデムの仕事ですが、機構設計だけでは終わりませんでした。
えっ、説明書も書くの?
実はメガモデムの電気設計は、セガではありません。セガにはモデムを設計、製造した経験がなかったため、愛知県のサン電子株式会社に委託していました。サンソフトのブランド名でゲームソフトも販売していた、あのサン電子です。
当時、日本でモデムを製品化していた会社は、アスキー、エプソン、サン電子他、いくつかありました。その中でもサン電子はゲーム事業もあり、セガとは話がしやすい関係だったようです。製品外観のデザインと機構設計はセガが行い、電気設計と製造はサン電子に委託する座組でした。
セガにもメガモデムの電気担当者はいて、サン電子の連絡窓口、管理を行っていました。
設計の最中、佐藤秀樹部長(※当時は部長)のお供でサン電子に出張したことがあります。契約の話や、設計部門の視察などを行いました。このあたりから、モデムという製品について自然と詳しくなってきました。
製品として販売するには、モジュラーケーブル(電話ケーブル)や、分配器が必要だぞとか。家庭環境のモジュラージャックの場所と、ゲーム機があるテレビの前までは何メートル離れているのか。そもそもモジュラージャックになっていない回線もあって、モジュラージャック化の工事が必要になるとか。
機構設計のアシスタントとして関わったのに、電話回線への接続方法や、取り扱い上の注意点。家庭環境でよくある問題など、知識を得てしまいました。
この時代は、きちんとした仕様書を書く業務フローが確立されていませんでした。
この製品はこういう特徴があって、取り扱いにはこういうことを注意しないといけない。そういった製品の情報を記載した仕様書というものが、整備されてなかったのです。あるのは回路図や設計図のみ。それでは取扱説明書は書けません。
まともな資料がないから、営業は商品の理解が足りず、お客様相談室はどんな問い合わせが来るか想定できず、取扱説明書を書くチームは、なにを書いていいのかわからない、という状況になってしまいました。
いつの間にか取扱説明書を書くことになりました。説明書を制作するライター(同じ部にいた印刷物のデザインチームのライター)が、モデムなんてチンプンカンでわからないから、説明書が書けないとさじを投げたのです。
一般家庭では、電話回線につながっている電話機をはずすなんて、常識外の行為です。電話機を勝手にはずしていいのか。電話機をはずしてゲーム機をつなげるなんて、その間に電話がかかってきたらどうなるの?ゲーム中に電話したくなったらどうするの?そういったことは、誰も理解できていませんでした。
よくわからない製品だから、誰も説明書が書けない。お前が書け。お前なら書けるだろう。そう言われてしまいました。
でも、私は説明書を書いたことがない素人。書けるはずがありません。私だって、機構図面を引いただけ。製品としての何を説明書に記載しないといけないのか、全然わかっていませんでした。
でも、周りを見渡すと、やっぱりどう考えても私しか書けそうな人がいません。そうなるともうやるしかありません。
PC用モデムを何台か買って説明書をコピーし、専門書を買い、まずは知識を仕入れました。
当時、部署にPCは数台しかありませんでした。取扱説明書を書くためのPCが、私にはありません。しょうがないので、なんの疑問もなく自腹でワープロを買いました。接続図などのイラストも描きました。
※このとき買ったワープロがソニーのPRODUCE。2インチFDDモデルでした。メガドライブ用FDDに採用予定だったソニーの2インチFDDが、搭載されているモデルです。ただの偶然ですが。
実は販売前に、全国5箇所のセガの営業所がある都市から、通信接続を試すフィールドテストを行いました。札幌、仙台、大阪などからです。そのときに製品サンプル、接続テストソフトとともに、私が書いた取扱説明書が配布されました。
えっ? 私がリーダー…なの?
このころ、気づけば設計部門の人も、営業も製造部門の人も、私になんでも聞きに来るようになりました。私をハブに情報が動き、プロジェクトのリーダーのような立場で動いていました。いや、リーダーなのかなんなのか、よくわかりません。権限もないし、プロデュースもしていません。予算管理などもしていません。
よくわからないままですが、関係部門が私にあれこれ聞きにくるし、私が動かないと各部門の仕事が進められない状況になっていました。メガモデムに関して一番詳しい人になっていました。「俺は何やってるんだろう?」と思いながら、でも下っ端なので何も言えず、とにかく奮闘していました。
そういえばこの製品に直接は関係ない、ハードウェア開発部の矢木(博)部長が突然やってきて「通信品質の測定はしたのか?」とえらい剣幕で突然怒られたことがありました。
一方的に責められてましたが、話の流れで私がただの機構設計のアシスタントだと話をしたところ、目をまるくしてました。てっきり勤続数年の電気担当でプロジェクトリーダーだと思っていた、ごめんなって謝られました。「なんで君がまとめてんの?」と言われたことを覚えてます。こっちが聞きたいです。
メガモデム対応ソフトとマーク・サーニーとの出会い
よくわからないまま取り仕切っているこの流れで、ソフトの開発進捗も面倒見ることになりました。ソフトの開発のことなど、まったくわからないのに...。
メガモデムの開発を行ったのはサン電子。そして第1弾ゲームの「TEL・TELまぁじゃん」「TEL・TELスタジアム」を制作していたのもサン電子でした。
一方でセガ社内でもメガモデム対応ゲームを開発していました。サーバーにアクセスするダウンロードサービス「セガ・ゲーム図書館」(メガモデムに同梱)です。「ピラミッドマジック」や「ファンタシースターⅡ テキストアドベンチャー」など好きなゲームをダウンロードして遊べるサービスでした。
そのゲームの中に、「死の迷宮」というゲームがありました。このゲームを制作していたのが、家庭用ゲームソフトの開発部門にいた、マーク・サーニーです。
今やマークは、PS4、PS5のハードウェア・アーキテクチャー開発に関わる、PlayStationの重要な役割を担う人で、コンピュータエンターテインメント業界では非常に重要な人です。
マークは13歳で大学に入学し、18歳で「マーブルマッドネス(1984年)」を開発し、天才と言われていました。もっとゲーム開発を学びたいということで日本にやってきてセガに入社しました。
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