【無料で一気読み!】遠藤正二朗 完全新作連載小説「秘密結社をつくろう!」 ─無料配信版2─
【New!】「ひみつく」初の単行本が発売されました!(2024/07/18)
▼まずは無料版で前半の話を読んでみたい方はこちらから!
【無料版】第7話 ─バッタの力を借りてみよう!─Chapter5
これで三度目になる。道場のよく磨かれた板の上で、得体の知れない相手と対するのは。ライダースジャケットを瓜原に預け、Yシャツにデニムのジーンズ姿のマサカズは、今回はこの喜劇を如何なる形で決着させようかと考えを巡らせていた。目の前にいる胴着に袴姿の老人は、対したときから薄笑いを浮かべていて、態度に余裕が感じられる。おそらくだが、己の勝利を確信しているのだろう。きのうまでの土砂降りは今朝になってすっかり止み、道場の窓からは柔らかい陽光が差し込んでいた。どうにもモヤモヤとする。マサカズはその心地の悪さがどこからきているのか、なんとなくだがわかっていた。
こうなってしまったきっかけは、庭石の火葬から三日前まで遡る。その日の仕事を終え、地元の小岩駅まで帰ってきたマサカズは行きつけのラーメン店でワンタン麺を注文した。そろそろ引越をしてもいいかもしれない。アルバイト時代から月収は三倍増しているので、もう少し代々木の事務所に近く、例えば伊達が暮らす飯田橋辺りなどどうだろうか。マサカズはラーメン屋での夕飯を終え、そのようなことをなんとなく考えながら自宅アパートの近くの路地を歩いていた。すると、横に並んだ三つの大きな肉体の塊に突然出くわしたので、思わず足を止めてしまった。塊は、三人の大男だった。いずれもが地に伏し土下座をし、額をアスファルトに擦りつけていた。街灯に照らされていた彼らをよく見ると、右は入れ墨だらけで、中央は黒い短髪で、左は禿頭であり、マサカズにとってどれも見覚えのある頭部だったので、彼は怪訝そうな声で「えー?」と漏らした。
「山田クン! 一生の頼みだ! 聞いてくれないか!」
中央の短髪、真山がそう嘆願してきた。マサカズは真山の前にしゃがみ込んだ。
「あなたたちとのあれこれは、隣にいるタヌキ拳法とのことで終わりでしょ。だって、おたくの業界じゃ、このひと神様なんでしょ。最強なんでしょ?」
禿頭を睨み付け、マサカズは怒気交じりにそう抗議した。
「更にだ! この神をも越える超武神と呼ばれるお方が、山田クンの存在を知ってしまったのだ! だから、キミは戦わなければならん!」
「やです」
「超武神、海野示現様は、一度戦いたいと願った相手とは必ず戦るお方だ!」
「知りません。僕はやりません。だって、僕になんのメリットもないんですよ」
「それは違う! 超武神と手合わせするなど、武人としては僥倖としか言いようがない! 事実、ここ五年であの方と真剣勝負をしたのは、この狸王拳、尾之花紅化殿ひとりしかおらぬのだ!」
真山の左隣にいた禿頭は、「ケチョンケチョンにやられた……」と低い声で呟いた。先ほどから連呼される“超武神”という呼称は安っぽく、伝統や歴史を感じられず、いかにもこの界隈でつい先日貼られたラベルなのだろう。これ以上関わり合いたくないマサカズは、更に強く反発することにした。
「もうムチャクチャです。僕は武人とかじゃないし、お金にもならない!」
「百万円……勝っても負けても……どうだ?」
真山の申し出にマサカズは「いりません!」と即答した。すると右端の瓜原が顔を上げた。入れ墨だらけのその表情は苦悶に満ちていて、目は涙で潤んでいた。
「頼むよ山田さん! 超武神はワイらの世界では超、影響力ありまくりで、お願いを実現できなかったら、真山さんの業界での立場がググっと悪くなるんスよ! スポンサーとか剥がされたり、海外の大会でいいホテルとれなくなったり」
「格闘技界でもそういうのって、あるの? なんか、芸能界とか、政治の世界みたいなの」
マサカズの言葉に、真山は頭を上げた。
「誠にお恥ずかしい限りだ。我々の世界でなによりも勝るのは、いち個人のエゴだ。そして、武とエゴの強さは比例する」
つまり、自分が戦いを受けなければ、真山はその実力とは関係なく空手界での立場が危うくなってしまう。マサカズはひとまずそこまで理解した。すると、三人目の禿頭が、のっそりとした挙動で顔を上げた。彼は十一月終盤であるにも関わらず、半袖のアロハシャツに短パン姿だった。
「自分も真山もお前に負けた。超武神はお前に興味を抱いた。どの程度の武人なのかを」
「なら、闇討ちでもなんでも先方から仕掛けてくりゃいいのに」
「超武神は衆人の元での仕合をご希望している」
尾之花の言葉に、マサカズはちりちり頭をひと掻きすると、ため息交じりに「はい」と答えた。
神をも越える“超武神”海野示現との戦いを引き受けることになってしまった。今回はいかなる怪物が現れるのだろうか。身長は二メートルを超え、長髪で常に悪魔のような笑みをたたえ、両手を鷲のように広げて威圧してくる人ならざる者。対戦相手をそのように想像した上でその翌日、伊達に相談してみたところ、海野示現とは齢九十を越える小柄な老人で、合気道の達人とのことだった。伊達はプロレス好きが高じて格闘技関係にもある程度の知見があったので、マサカズが超武神と戦うと知ってから、一週間も猶予がなかったものの、できうる限りの情報を集めてくれた。
確かに、目の前にいるのは皺だらけの長い白髪の老人だ。解像度の低い動画において、彼が屈強そうな門下生を次々と転ばせていくのは見たものの、大男たちがこの小さな老人に太刀打ちできない様は、どうにもやらせをしているようにしか見えず、真山たちが畏怖する“超武神”なる存在だとは素直に受け入れられなかった。
「山田クン! いったんさがりたまえ!」
壁際にいた胴着姿の真山がそう叫んだ。
「キミはいま、こう思っているだろう。“かように華奢な老体が自分の攻撃に耐えきれるはずがない”と」
「ど、どうなんでしょう」
「百聞は一見にしかず。だ! 瓜原クン! まずはキミが超武神と手合わせしてくれ! 海野様、よろしいでしょうか?」
真山に促されたジャージ姿の瓜原は即座に立ち上がり、海野は静かに小さく、どこか他人事のように素っ気なく頷いた。勝手に進行していく事態にうんざりしながらもマサカズは瓜原と居場所を入れ替わった。
スーパー銭湯の着替え場で食らった右ストレートが、老体に向け繰り出された。質量にして倍以上はあるかと思われる体格差から考えると、命中すれば軽傷では済まないだろう。しかし次の瞬間、瓜原の巨体は宙に舞い、彼は背中から床板に叩きつけられた。対する海野は薄笑いを浮かべたまま、いつの間にか左手を前に出しており、マサカズには一体なにが起きたのか皆目見当もつかなかった。瓜原は身体を起こすと海野に土下座し、「ご指導、ありがとうございました!」と叫び、壁際へと引き返していった。
「くぅぅぅ……ワイなんて子供扱いっスよ~」
頭を掻き照れ笑いを浮かべて、瓜原はマサカズにそう言った。
「山田クン! 強さとは何だ!? 強さとは決して破壊力ではない! 勝たせないことが真の強さなのだ!」
続いた一方通行な問いと答えは真山からだった。マサカズは心底うんざりし、首を傾げた。
「それって、負けないってことです?」
「なにもせず、戦わずでも不敗は誇れる。だが、常勝とは戦った結果なのだ。強さの証なのだ!」
真山の言っていることは明らかに言葉遊びだ。戦わない者を不敗と認めるのは無理がある。だが、マサカズはその反論を口にするのも億劫に感じていた。
「伝統を重ねた末、海野様が辿り着いた境地をキミは体感する! 光栄だと思いたまえ!」
勝負の行方を見守る雷轟流空手門下生たちの緊張が、気配で伝わってくる。しかし、この空気を弛緩させる術をマサカズは持っていなかった。なぜなら、今回は勝負を始めること自体が困難だったからだ。
伊達からのレクチャーで、合気道というものの概念を知ってしまった。この伝統武術は基本的には、対する者の攻撃を返すことで成立する。先制攻撃もあるのだが、狸王拳のような体力を消耗する苛烈な技はない。相手の攻撃を呼吸と体裁きで対応し、無力化することを是としている。だが、鍵の攻撃力は人間の領域を遙かに超えているので、超武神といえども対処は不可能であり、下手をすれば大怪我を負わせる可能性もある。改めて老人と対したマサカズは、顎をゆっくりと下げた。
あれ、負けるって選択肢もありだろ?
そう、真山に対しては攻撃を要求されたから仕方がなかった。狸王拳は葉月との思い出に浸っているうちに、相手が勝手に消耗しきって終わっていた。先の二戦は一応勝利したと言ってもいいのだが、たとえば今回は鍵を使わず、スポーツジムで囓った打撃を仕掛け、先ほどの瓜原のように床に打ち付けられる、というのはどうだろう。そうすればこの馬鹿げた場面も終わってくれる。そう、負けてしまえばいい。そもそも“武人”ではないのだから、三戦目にして負けたところでなにも失うものはない。
だが、その正しい結論に対して、マサカズはその場に正座するという矛盾した行動をとった。真山や門下生たちは彼の奇行とも言うべき座り込みに、大きくどよめいた。
「ごめんなさい。僕、なにしてるんでしょうね。自分でもちょっとわかりません」
「戦わずに済むのなら、それはとても優しい世界だ」
老人は薄笑いを崩さず、やや鼻にかかった声でそう言うと、マサカズの向かいに胡座をかいた。
「初対面で失礼だと思うのですが、僕はあなたが嫌いです」
「ほう」
失敬だと思われる物言いに対しても神を越えた神は、天空から統べるべき者のように余裕を纏ったままだった。
「にわかですけど、合気道って暴力を制する武術なんでしょ? なのにあなたは真山さんを脅迫してこの戦いをセッティングさせた。なにが余裕ぶっこいて“優しい世界だ”ですよ。ただのクソジジイって感じです。ムカつきます。もちろん、こんなこと言えるのも僕が絶対に負けないって自信があるからなんですけど」
ペラペラとよく喋る。マサカズは自分に呆れてしまっていたが、モヤモヤとした気持ちを言葉にできたので心地はよかった。
「あ、そう言えばルールってどうなってるんでしたっけ? 転んだら負け? 相撲みたいに。なら、僕に勝ち目はないかも」
バスジャックの際にわかったのだが、鍵の力を以てしても重力自体には逆らえず、振動などがあった場合転倒は避けられない。もちろん、それで怪我をすることはないのだが、スポーツとしてのルールがそれを負けとするのなら、敗北もあり得る。
そこまで考えてみて、マサカズはようやくわかった。自分は負けたくないのだ。負けてもかまわないはずなのに。いや、勝てる条件を満たしている以上、負けてはならないのだ。ここで手を抜いて負けてしまえば、今後別のことでも負けてもいいといった、諦めの選択肢に心が傾いてしまう。鍵を手に入れる前は条件をクリアできること自体が稀だったので、ほとんどのケースで“負ける”の一択だった。しかし、今は違う。雨の中落ちていく七浦葵が、喉を詰まらせ吐瀉物まみれで果てていく兄が、それぞれの死の光景が浮かんだ。諦めてしまうことで、もう、あのような失敗は繰り返したくない。そう、選挙演説の警護で自分に気づける異変があれば、迷いなく鍵の力でそれを制して命を護る。その判断を研ぎ澄ますためにも、勝てる勝負を落とすことはできない。あのとき、躊躇がなかったホッパーは正しかったのかもしれない。彼も総合格闘技の世界で、これまでに何度も勝つための選択を迷いなく下してきたはずだ。ならば、自分も。マサカズは三度目の経験で初めて、闘志というものが内から沸いてくるのがわかった。
そして、ルールに対して超武神からの返答はなかった。彼の顔からはいつの間にか笑みは消え、歯ぎしりの鈍い音が響き、胸に皺だらけの右手を当て、わなわなと震えていた。
「だ、大丈夫ですか? 僕、言い過ぎですかね?」
老人は返答もせず、震えながら立ち上がると突然、血と泡を吹き出してマサカズの前に倒れ込んだ。どうやら意識を失っている様である。
「ふ、触れずにして、超武神を制した……だと!?」
「ワイもビックリですわ~!」
真山と瓜原の呑気なやりとりに、マサカズは鋭い眼光を向けた。
「超武神、血と泡を吹いてます! 危険です! 救急車を呼んでください!」
マサカズの叫びに、ポニーテールに髪をまとめた道場生の少女がスマートフォンを取り出した。マサカズは立ち上がると、うつ伏せになっている老いた上体を抱き起こした。
「山田クン! キミの勝利だ!」
興奮した様子で真山がやってきた。それに続き、タオルを手にした瓜原が超武神の口を拭った。
「生きてるっスね。超武神。負けたけど」
マサカズは瓜原を睨みつけた。
「あのさ、いちいちおかしくない? こんなの勝負でもなんでもない。僕はなにもしちゃいない。この超武神は、なんか……持病とかで倒れただけだ」
「いや、山田クン。これはキミの勝利ということにさせてくれ」
神を越えた神。さらにそれを越えた山田正一に敗北したということなら、自分たちの面子も保たれるということだろうか。この考え方も伊達のアドバイスによるものだったが、真山の頑なな態度から察するに、それは正解だと思えた。
「まだ、上はいるんですか?」
瓜原に老体を預けたマサカズは、真山と向き合った。
「いや、もう天井だ」
「なら、終わりなんですよね。期待の新人が腕試ししたいとか、そういうのはナシですよ」
「ああ、キミは超武神を越えた。武人としての頂点を極めたのだ」
勝ってはいないが、負けずに済んだ。それがマサカズの認識だった。今回は伊達からのアドバイスや情報提供が多かったので、いくつかの心構えができた。それに感謝しながら、到着した救急隊員たちと入れ替わるように彼は道場を後にした。
【無料版】第7話 ─バッタの力を借りてみよう!─Chapter6
彼がこの自宅アパートを訪ねてきたのは、起業前の夏以来のことになる。マサカズは目の前で片膝を立てて佇む伊達から、重苦しさを伴う決意のようなものを感じていた。超武神が救急搬送された翌日、十一月末日の今日、伊達は珍しく会社を休んでいた。仕事を終え、中華料理店で夕飯を済ませ帰宅したところ、ヘルメットを抱えた彼がアパートの前で待っていた。なぜ事前の連絡がないのか、マサカズは疑問を口にしたが、明確な返答は得られず、その時点で異変は感じられた。
庭石の訃報に際して、彼は自我を壊し狼狽の極みに達していたが、早退させた次の朝には復調した様子で、従来の毅然として時にはユーモアを漂わせるいつもの伊達隼斗に戻っていた。超武神との戦いに対しても積極的に情報を集め、合気道に関する基礎知識を伝えてくれたおかげで心構えもできた。その際、伊達はとても楽しげで、ゲームの攻略をするような気分だとも言っていた。
「瓜原さんからメッセージが来たんですけど、超武神、心臓発作だったそうです。命に別状はないってことで安心です。なんか、僕とのやりとりで極度の緊張状態に陥ったって感じらしいです。瓜原は、“だからあんさんの勝利ですわ”なんて言ってますけど、何がどうなるかなんて、予想できないですよね」
取りあえず、言葉を口にしてみる。黙ったまま睨むように見つめてくる伊達に、マサカズはあくまで平静を保とうとした。
「マサカズ。突然ですまない」
ようやく、仏頂面が口を開いた。
「もう、辞めよう」
単純すぎる言葉だった。だからこそ、そこに含まれる意味はあまりにも広かった。マサカズはちりちり頭をひと掻きすると、「辞める?」と返した。
十日ほど前、庭石が首を吊って自殺した。伊達にとって知りたかったのは、その動機だった。考えられうるのは、会社の実績を獲得するため行った、料亭での脅迫に端を発している。つまり、自分が殺したようなものだ。訃報に際して真っ先に至った結論がそれだった。遺書には仕事の悩みで自ら命を絶った、と記されていた。それはつまり、ルールを越えた仲介をさせてしまったことによる、精神的な負担が想像より重かったことも考えられる。だからこそ伊達は、計算違いに後悔し、自惚れだと自戒し、遂には放心してしまった。
訃報を受けたあの日、マサカズに促されて早退し、電車で自宅マンションに帰り、ビールを三缶開けたころ、伊達はようやく冷静な洞察力を取り戻せた。しかしそれは自責の念から逃れるためにだけ使われ、それについては自覚もしていた。法務省に知り合いもいない。庭石の家族や交友関係にも接点はない。今ごろマサカズは井沢のルートを使って情報を集めてくれているのだろうが、それだけでは納得できる根拠としては不十分だ。自分が使える手立ても利用して、罪悪感から解放されなくては。庭石の火葬を雨のなか見届けたのち、伊達が真っ先に連絡したのは、庭石を紹介してくれた“オヤジ”だった。柏城にはスケジュールを調整してもらい、翌週の火曜日の夜、彼は古巣を訪ねた。
「なにしたんだ、なんて野暮は言わない。けど、なにしちまった?」
柏城法律事務所の応接室で、伊達は少しばかり不機嫌そうな恩師と対していた。委細は問わない。だが、概要は教えろ。伊達は柏城の言葉をそう受け止めた。
「取り引きです。彼において秘匿としたい事実を以てして、業務の仲介をお願いしました」
「なら、だろうな」
断定する柏城の言葉に、伊達は手にしていた湯飲みを机に落としてしまった。こぼれた緑茶が机上に広がったが、柏城は眉一つ動かさず、伊達の様子を窺っていた。
「他にも考えられませんか? 健康上の不安とか」
ハンカチで机を拭きながら、上ずり、震えた声で伊達はそう尋ねた。
「そんなので自殺はないだろ。考えてもみろ、時期的にもお前が関わってからだ。よっぽどのえげつなさだったんだろうな」
「い、いや、オヤジさん、それはあんまりですよ」
「法務官僚って強者を、お前はすっかり弱者にしちまったってことだ。お前に何か教えるのはこれで最後になるかもしれないが、いいか伊達、ずっと強者側にいたヤツってのは、弱者に転げ落ちるとすっかり心が折れちまう。ゲーム好きのお前に分かり易く言うなら、防御力よわよわってやつだ」
早口で、柏城はそうまくし立てた。伊達はハンカチを止め、柏城に潤んだ目を向けた。
「かつての弟子に、ぶん回すようなこと言っちまったが、人が死んだんだ。お前のミスで。それはしっかりと受け止めろ。命ってのは可能性だ。それをお前は奪った」
「俺は、どうすればいいんですか?」
「山田と関わるのを辞めろ。どうやらお前はあいつと知り合ってから、らしくもない道を進んでいるように見える。さっきは最後って言ったが、お前にその気があるんなら、またウチで雇ってもいい」
「でも、マサカズを気に入ってくれたから、オヤジは庭石を紹介してくれたんですよね」
「失敗したと反省している。庭石をここまで追い詰めるとは思っていなかった。それはつまり、それだけの手を打つほど、お前が山田に入れ込んでいるってことだ。そして山田は、その根拠になるほどの何かを持ち得ている。正直、お前はどうかしてる」
恩師から、突き放された。以前から柏城は歯に衣着せぬ物言いで、私見を明確にしてくる人物ではあるとは思っていたのだが、伊達にとってその言葉はあまりにも救いがなく、そもそも助けを求める相手が間違っているのだと、あらためて思い知らされた。伊達はゆっくり席を立つと、恩師に深々と頭を垂れた。今日はもう、庭石について考えるのを止めよう。それよりマサカズが明日戦う“超武神”について、マンションに帰ってからもっと調べを進めよう。合気道という武術は、調べるほど興味が次々と沸いてくる奥深さを秘めている。現実逃避を決め込んだ伊達は、法律事務所から退散していった。
自分の脅迫が原因で、庭石は自ら死を選んだ。柏城はそう断言した。しかし伊達はまだ納得ができず、混乱の中にあった。強者から弱者に転じ、心が折れたと柏城は言っていたが、庭石が法務官僚の立場であることに変わりはなく、社会的には勝ち組の側にいたままだ。食い下がってしつこく分析を聞くという手段もあったのだが、伊達はそれを選ばず、次の日の夜、相談した相手は恵比寿の生家に住む父親だった。彼は書斎のソファに父と並んで座り、それぞれの手には灰色のゲームのコントローラーが握られていた。
「知り合いの法務官僚が自殺したんだ」
「ああ、こないだニュースでやってたアレか」
「たぶん、そう」
「アレ、隼斗の知り合いだったのか」
「理由が全然わかんなくってさ」
「遺書はあったんだろ?」
「ちゃんとは読めてない」
「じゃあ、サッパリだな」
「自殺するのは弱者だ。けど、アイツは強者のままだった。理解できなくってね」
「だから平日の夜に、いきなりウチに帰ってきたのか?」
「父さんなら、なんか知見あるかなって」
二人の前に置かれた二十八インチのブラウン管テレビには、日本地図を模したマップで双六をプレイするゲームが映し出されていた。これは日本中の駅を巡って物件を購入し総資産を争う、といった内容であり、親子はすでに一時間ほど、作業をするようにプレイしていた。
「まぁ、滅多に自殺なんてする連中じゃないな。ただ、二つの要素が絡むと話は違ってくる」
父の言葉に息子は興味を抱き、人差し指で眼鏡を直した。
「まずひとつめは、その官僚が職務に対して忠実で勤勉であること。まぁ、けど官僚っていうのは大概これに当てはまる。ましてや課長職までとなったら、不真面目では務まらん」
「もう……ひとつは?」
「真面目な官僚が、不正を働かされた場合だ。筋道通り、レールに乗って職責を全うしてきたのに、何らかの外圧によってそれをねじ曲げるのに加担する。まぁ、これはバグるな。段々とわけがわからなくなっていく。自分が強者の側にいるのはルールを守ってきたからだって自覚があった場合は、一気に弱者に転がり落ちる。こりゃ、自殺に至る自責を食らってもおかしくはない」
救いを求めてきたはずなのに、父の言葉は柏城の意見や自分の想定をより強固に補足するものだった。伊達はガチガチと歯を鳴らし、その音は父の耳にも入るほどだった。
「隼斗、実はな、こないだ柏城から電話があってな。私も概ね同じ意見だ」
「な、な、な、なにが? なにが?」
囀るような早口で、伊達はそう返した。
「今の怪しげな事業から、手を引け。弱者を救う理想を掲げて起業したのに、弱者を作って死に追い込むなど、いずれはお前の心が壊れる。柏城のところに戻るか、ウチに来るかした方がいい」
「と、と、とっくに、壊れてるよ。俺は」
合気道の超武神に戦わずして勝利し、事務所に戻ってきたマサカズは、自分のアドバイスがとても参考になったと喜んでくれた。あの無邪気とも言える笑顔は友情の証であり、失いたくはない。だが、恩師と父親から、その関係を断つべきだと助言されてしまった。こうなってしまうと、考えられる選択肢はひとつしかない。ともかく、明日は会社を休み、夜、マサカズに相談をしよう。生家から出た伊達は冷たい秋の夜風に晒され、その足取りもおぼつかなかった。
そして、生家を訪ねたあくる日の夜、伊達はマサカズのアパートで彼と相対していた。
「どうやら、俺はこれが限界のようだ。ここから先は無理だ。だから、辞めよう」
伊達はそう続けたが、マサカズは黙ったままだった。
「あ、いや、お前が続けるって言うのなら、止めることはない。ただ、俺はもう辞める。もちろん、お前とは秘密を共にした友達のままだ。これが、ここ何日かかけて出した結論ってやつだ」
マサカズは胡座をかき直し、傍らにあったペットボトルのコーラをひと口飲んだ。
「お前が怒るのはわかる。勝手に起業を進めて、勝手に辞めたいって、俺はひどいことを言っている。だけど、もう限界なんだ。庭石を弱者に転がして死に追い詰めたのは、俺のせいだ。そして俺はその認識に堪えられるような強さは持ち合わせていない」
「違いますよ。庭石さんの自殺は、あの人が選んだ結論です」
ようやくマサカズが口を開いたので、片膝を立てていた伊達は思わず身を乗り出した。
「いや、庭石は俺の脅迫でルールをねじ曲げて仕事を仲介した。ヤツはそれに堪えきれずに死んだ」
「ですよね。けど、なんでそんなことしちゃったんです?」
「俺が脅迫したからだろ?」
「でもその時点で庭石さんには、もうひとつ選べる道があったはずです。娘さんの薬物の事実を受け入れて、警察に通報するっていう選択肢が。けど、そうせず僕たちへの斡旋を選んだ。僕はあの料亭のとき、少しは期待してたんですよ。僕たちの提案に対して毅然とした態度を見せる庭石さんを。そうすればあの人は出世はできないでしょうけど、強者のままだったはずです」
ようやく、救いになる言葉が与えられた。伊達はマサカズの手を取り、自分でも驚くほど早く落涙した。
「ありがとう。本当にありがとう。けどさ、俺、なんかさ、こう……もうダメっぽいんだよ」
「とにかく、いったん保留にしましょう。庭石さんから最後に発注された運搬の仕事もありますし、保司さんから新規の見守り案件だって入りそうなんですし、ホッパー君のおかげで公安とのパイプもできそうですし、僕にとって伊達さんの力は圧倒的に必要なんですから」
「あのさ、マサカズ」
「なんです?」
「お前のさ、その、格闘技対決シリーズ、まだあるのかな? アレについて事前に調べるのって、凄い気晴らしになるんだけど」
「残念ですけどあの路線はもう打ち切りです。なんせ僕、最強の武人ってことになったそうなんで。そもそもあんなの、僕は嫌です」
マサカズの淡々とした素っ気ない言葉に、伊達は手を離すとしょんぼりとうなだれた。
【無料版】第7話 ─バッタの力を借りてみよう!─Chapter7
結論を先送りにしてしまった。伊達は涙を流し、すっかり闘志を失っていた。マサカズにとって、庭石の自死からは実のところ、心にダメージはあまり受けておらず、ましてや伊達のように加害者などといった自覚も希薄だった。だからこそ、伊達の撤退に対して効果的な説得ができるはずもなく、せめてその罪悪感を薄め、ひとまず現状を維持してもらうことぐらいしかできなかった。ただし、このままではいけない。現在の伊達はあまりにも脆く、きっかけひとつですぐに逃げ出してしまう。
起業以来、ようやくここまでこれたのに。モグリの解体業、省庁からの仕事、そして格闘家との対戦に籠城事件の解決。本屋でアルバイトをしていた数ヶ月前からは想像もつかないほど、多様な経験を積むことができた。そして、今後それは更に広がっていくはずだ。伊達の心を揺さぶらないように、何を心がければいいのだろうか。そして彼の焦燥をどうにかして取り除き、以前のような野心家に戻ってもらうにはどうしたらいいのか。レモンサワーのグラスを手に、マサカズは考えを巡らせていた。
「今日はありがとうございました! せっかくのお休みだというのに、お付き合いしていただけて!」
テーブルを挟んで座っていたのは、テイラードのジャケットを着たホッパーだった。ここは上野の、スペイン料理を提供するいわゆる、バルと俗称される形式の洋風居酒屋であり、マサカズとホッパーは映画を観終えたのち、午後五時に開店したばかりのこの店で盃を交わしていた。
「あ、僕も見たかった映画だったから、ちょうどよかったよ。でもなんで僕なんかを誘ったの? 大学の友だちとかは?」
「ぜひ、社長の感想を聞きたかったのです。実を言いますと、自分はアレについては先週の封切り日に一度観ていたのです」
十二月最初の土曜日となる今日、ホッパーに誘われて一緒に観たのは、インド産のアクション映画だった。ストーリーは単純明快な勧善懲悪ものであり、植民地時代のインドを舞台に、ヒーローが圧政を敷く政府に対して叛乱を起こし、局所的ではあるものの勝利する、といった内容だった。
「面白かったよ。アクションがすごいよね。ハリウッドとかとはまたちょっと違うって言うか。あと、オッサンがかっこいい。アレは邦画にはない要素だよ」
「ま、まぁ、それはそうではあるのですが」
ウーロン茶の入ったグラスを手にしたホッパーは目を逸らし、どこか不満げな様子だった。
「それと、音楽がいいよね。インド映画って初めてだったけど、異文化って感じがすごくした」
そう言いながら、我ながら凡庸な感想だとマサカズは思った。しかし筋立ても単純で、おそらく制作者側も難しいことを考えず、娯楽作として楽しんで欲しいと思い製作された映画のはずなので、感じた内容も相応してシンプルにしかならない。ホッパーは尚も感想に対して満足していない。逸らされ続けた目からそう察したマサカズは、仕方なくレモンサワーをひと口呑んだ。
「なんか、マニアックなポイントとかあったの? 役者さんの過去作との比較とか、ロケ地の歴史背景とか。けど、インドのことなんて、まぁアメリカとか日本もそうだけどさ、僕は無知でなんにも知らない」
その言葉に、ホッパーはようやく視線をマサカズに戻した。
「ち、違います。自分が聞きたかったのは、そういうことではなくて。その、敵側のイギリスの統治と支配のあり方について、どのような感想を抱かれたのかと」
「えっと、村の娘をさらって、お母さんを殺して、主人公を不当逮捕して拷問して、最後はボスがやっつけられて……うーん、ムチャクチャシンプルに悪い連中だったな」
「事実、のちにインドは傀儡政権を打倒し独立を果たしました」
「えっと、ガンジーだっけ」
「はい。独立の重要人物のひとりです」
「よかったじゃん。悪い政権が倒されたってことでしょ?」
「しかしその結果、インドとパキスタンは分裂し、カシミール紛争などといった悲劇がこんにちまで繰り返されているのです」
「ゴメン、歴史にはあんまり……全然詳しくない」
「自分はあの映画から、そうした近代におけるインドの社会的問題を予見させるような視点が欠けていることが、大いに不満だと感じたのです。質のいいアクション映画であるが故、それは余計に問題だと思いました。現実はかように“めでたしめでたし”ではないのです!」
ホッパーのプチ演説に、マサカズはすっかり意気消沈してしまった。世間の評判からして、極めて娯楽作に徹したとされているあの映画を、彼は社会派の見地が不足していると熱弁している。それはまるで、アイスクリームにカレーの辛さを求めるような、的外れで見当違いな指摘である。しかし、それを注意したり、議論を広げたりする気力は今夜のマサカズにはなかった。実のところ映画を観ている間も上の空であり、考えていたのは伊達に対して今後どう接していけばいいのか、といった結論の出ない難問だった。そのため、映画を巡る鑑賞論などといった面倒なやりとりをする気にはなれなかった。
「す、すみません! 自分、どうやら悪い癖が出てしまったようです!」
何かを察したのか、ホッパーは突然頭を下げた。
「いや、いいんだけど、ちょっと議論するのはムリかな。特に今日は」
「どうしたのですか社長? さきほどからなにやら調子が悪いように見受けられるのですが」
真剣な眼差しをホッパーは向けてきた。そこから、自分に対しての心配より不信感を察したマサカズは、この優秀な若者にはできるだけ安心して働いて欲しいと思い、彼に気持ちを向け直した。
「あ、いや、風邪かな? もう十二月に入ったし、寒くなってきたしね。調子悪いのはそうだけど、月曜日には治してくるよ」
「それならばいいのですが。では、そろそろお開きにしますか?」
「うん、そうだね。ただ、最後にひとつ話を聞いて欲しい」
「はい! なんなりと!」
「今の会社の状況を、君には知っておいてもらいたい」
「はい! ぜひとも共有させてください!」
「庭石さんの自殺は、当然のことだけど僕たちにとって想定外だった。あの人からは演説の警護だけじゃなくって、運搬の仕事なんかも紹介してもらっていた。けど、今後はそれもなくなる。保司さんから新規で幼稚園バスの見守りの仕事も入っているけど、単価も安いし、なによりもバスに警報が付けられればいずれはなくなる仕事だ。つまり、今のウチは新しい案件の成立に向けて頑張らないといけないんだ」
「頑張りましょう! 自分も全力で協力します!」
なぜだろう。胸を叩いて前向きな意思表明をしてくるこの屈強な青年の言葉が、まったく心に響いてこない。伊達が万全のコンディションなら、ホッパーの優れた力も効果的に活用できるはずだが、自分には彼に適切な指示や指導ができる自信がない。だからこそ、彼の底抜けに迷いのない宣言を嬉しいとも鬱陶しいとも感じられなかった。マサカズは目の前にあった大皿のパエリアを小皿に移したが、それを食べる気にはなれなかった。
「会社の状況ということでしたら、自分、ひとつとても不思議に感じていることがあるのですが、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「なんだい? なんでも答えるってわけにはいかないけど」
「寺西氏のお孫さん、つまり自分の知人ですが、彼から山田社長には信じられない力があって、それを使って破格の結果を生み出しているとお聞きしました」
四人のパートタイマーたちは、鍵の秘密を知っておらず、それについてはあえて興味を示そうとしていない。だが、自分の雇用主が数字上不可思議としか言いようのない利益を上げているのは、なにか秘密があるからであるとの推察にまでは至っている、いわゆる暗黙の了解というものであり、それによって四人との関係は成立していた。だからこそ、この程度の漏洩はマサカズにとって想定済みだった。
「あるとしようか。でさ、ホッパー君はなにを知りたい?」
「自分は化学を学び、全ては理こそが支配すると信じていました。しかし山田社長にそれを逸した力があるというのなら、いち研究者として非常に強い興味があるのです! いいえ、それだけではありません。人知を超えた力があるのでしたら、それはこの社会を蝕む不正を挫くために用いるべきであり、社長がそうお考え、いや、既にそのような正義に対しての活動をしているのでしたら、自分はぜひともそれにも参加させていただきたく思っているしだいであります!」
「僕は磐田駅で君なんかよりもずっと鈍感で、テロリストを見抜けなかったんだ。凡人だよ」
「アレは大変申し訳ありませんでした。言いつけを忘れ、思わず行動に出てしまった己の未熟さを、ただ恥じ入るばかりであります!」
どうにも会話が噛み合ってくれない。それとも誤魔化し方を間違えてしまったのだろうか。マサカズは小皿に移したパエリアをようやくスプーンで口に運んだ。
「ホッパー君、見立ての通り、ウチには従業員に秘密としていることがある。そして寺西さんたちは、それはそうだって受け止めてくれている。当面は、君もそうしてくれると嬉しい」
「まだ自分は、それを知るレベルには達していないということですか」
「ホッパー君はさ、伊達さんってどう思う」
マサカズはあえて唐突な質問をしてみた。そこには深い意図はなく、閉じつつある伊達との関係性への突破口を少しでも見い出したいといった思いから発した問いかけだった。ホッパーはラム肉のソテーをフォークでむしゃむしゃと食べると、分厚い胸筋を上下させた。
「自分には、あの人はまったくわかりません」
収穫は皆無ということか。そう結論づけたマサカズはすっかり諦めてしまった。
「ただ……失礼を承知で言わせてもらいますが、自分には伊達副社長が何をしているのかわかりかねています。来週月曜日からの幼稚園バスの見守りについても具体的な段取りは寺西氏や社長が進めているように見えます。つまり、伊達副社長はいなくても同じであるという人材だと思っています」
ホッパーがやってきてからの伊達は、庭石の自殺による自責の念から、新規営業を提案するといった積極性や、現状を改善する行動力を失い、その働きぶりは精彩を欠いていた。ホッパーの評価は辛辣だが、否定できるものではない。マサカズは反論をすることなく、静かにグラスホをッパーに傾けた。
マサカズはホッパーと店を出た後、JR上野駅に向かって歩いていた。すぐ先には防音パネルで囲まれた工事現場があり、マサカズは道路を挟んで対面に建つ、シネコンの入った商業ビルに目を移した。
ひげ面の好漢が大活躍するインド映画の内容は、頭からすっかり消えていた。庭石の死によってここまで複雑な迷路に追い込まれるとは思っていなかったが、よくよく考えてみればその見込み自体がそもそもおかしいものだった。一人の人間が命を断ち、人生の可能性を失ったのだから、その原因だと思っている伊達は落とし所のつけ方をすっかり見失うのも当然のことだ。そして、ホッパーは呪いにかけられてからの伊達の印象が強く、精力的で強引な彼を知らない。なにか頼りの一縷にでもなるかと思った映画鑑賞と会食だったが、マサカズは自分の考えの浅さを思い知るだけだった。
そして突然、轟音が鳴り響いた。金属がコンクリートを砕く、重く鈍く、ひどく唐突に日常を壊す音だった。激しい振動により、二人は僅かだがアスファルトから宙に浮いた。マサカズはこれが異常事態だとわかったので、ジーンズのポケットに手を突っ込んだ。傍らではなんとか体勢を保っていたホッパーが、機敏な動作で周囲を窺っていた。
「ホッパー君、どう!?」
「目の前の建設現場、工事のクレーン車が転倒したと思われます! 悲鳴がします! 極めて危険な状況です!」
立ちこめる噴煙はコンクリートが粉砕されたものだ。臭いと粒子の密度からなんとなくそう察したマサカズは、男たちの呻き苦しむ声を耳にした。次の瞬間「アンロック」と叫んだマサカズは、埃が立ちこめる眼前の工事現場に跳び込んだ。
工事用の照明は全てなぎ倒されていたため、現場は灯りもなく状況を詳しく把握するのは難しかった。優先するべきは悲鳴の主たちの救助であり、マサカズはその情報を集めることに全力を注いだ。目の前には、おそらくクレーン車のアーム部分だと思われる全長二十メートルほどの鉄塊が横たわり、二人の作業着姿の男たちがその下敷きになっていた。ひとりは左足を、もうひとりは下半身を鉄塊に押し潰されている。「痛い痛い痛い!」「誰か! 助けて!」単純すぎる救済の訴えに、マサカズは鉄塊に両手を滑り込ませ、逆手でそれを掴んだ。鍵の力があるにも関わらずそれは重く、どうやら破砕したコンクリートが重なっているせいで、想像していたよりも撤去には複雑な工程を要すると思われる。しかしここは視界も悪く、そもそも素人の自分に最適な対応を検討する余裕はない。そう判断したマサカズは、力任せにアームを持ち上げた。それは勢いよく地面から離れ、被さっていたコンクリートは音を立てて砕けた。アームを作業員たちの身体に触れないように、ずらすような形で地面に下ろしたマサカズは、腰のポーチからスマートフォンを取り出し、119番通報をした。
「ごめんなさい。救急車の代わりはちょっとムリです。ほんと、ごめんなさい。僕はここまでです」
通報したのち、マサカズは倒れていた血まみれの作業員たちにそう言うと、頭を下げた。彼らはこのままだと、もしかすれば命を失うかもしれない。見たこともない方向に折れ曲がっていた足と、おびただしい出血からそう予想したマサカズは心を苛んでいた。
「社長! ご無事で!?」
工事現場を囲む仮囲いを越え、やってきたホッパーは背後からそう叫んだ。力がないころの自分なら、この凄惨な事故現場に踏み入ることなどできない。補欠選挙の聴衆の様にスマートフォンを掲げ、ニュースで“視聴者提供”と記される動画を録ることがせいぜいだ。だが、この逞しい青年は躊躇のひと欠片もなく、起きてしまった危機に対して何かできるのでないか、などといった確固たる意思を示している。
「それにしても凄い、あれだけの質量を持ち上げるとは!」
驚嘆するホッパーにマサカズは振り返ると「これは、秘密なんだ」と呟き、ネオンの灯る街へ跳び上がっていった。
【無料版】第7話 ─バッタの力を借りてみよう!─Chapter8
命を救うため、己が育んできた骨格や筋力ではなく、知らぬうちに授かった得体の知れない力で十トン近い重さの鉄塊を撤去した。運動量としては、山奥での建造物解体や資材の運搬よりずっと労力は少ないはずだった。しかし小岩の自宅アパートまで帰ってきたマサカズは、敷きっぱなしの布団に倒れ込み、眠るというよりは意識を失う様に身体から魂が離れてしまった。質量のない闇の中にあった彼の意識がワンルームの狭い日常に還ってきたのは、日付けも変わった日曜日の昼前のことだった。意識を巡るこの不思議な感覚は、おそらく鍵の力が影響しているのだろう。
疲れがまるで抜けておらず、身体中に重苦しささを感じながら、マサカズはナッシングゼロの代表として最低限の職務を果たすことにした。こういった状況で、情報の全てが手元で管理できるスマートフォンはとても重宝する。これまでアルバイト先へのシフトの確認や、漫画の閲覧にしか使ってこなかったこの利器を、彼は最近では連絡や報告、調べ事など、すっかり仕事に活用していた。布団で横になったままマサカズが行おうとしたのは、昨晩の事態に対して伊達への報告だった、しかし伊達からはついさきほど、ショートメッセージで既に連絡が入っていた。バスジャックの籠城犯、竹下信玄の弁護に伴い、本日は拘置所で打ち合わせとのことだった。弁護人の場合、緊急性や必要性が認められれば土日であっても、拘置所で面会ができることは以前聞いていた。そのあとも今日は証人たちに対しての根回しが何カ所かであるので、連絡は取りづらくなるとの内容だった。
竹下の件について、伊達はできるだけ早く決着をつけると言っていた。だからこそ日曜日の休日を返上した今日の動きなのだろう。“できるだけ早く”という言葉は、会社から退くことに対しても当てはまる。再び布団に仰向けとなったマサカズは、灯油屋の移動販売車から流れる童謡を耳にしながら、伊達にいつ連絡をするのか、そのタイミングを考えていた。
そのころ伊達は自宅マンションのリビングで、竹下との面会の準備をするため、ノートパソコンに向かって書類を作成していた。今後の公判で、人質だったマサカズの印象をできうる限り薄め、逮捕のきっかけとなった胸骨骨折もマサカズの意図的な頭突きではなく、偶然の衝突による結果として証拠の辻褄を合わせる必要がある。公判では当事者である竹下の証言が最も重要視されることとなり、三度目となる今日の面会で、来るべき初公判の口裏を合わせておく必要があった。バスジャックと篭城事件についての証言は、もうひとりの人質である六歳の少女、岩越まゆりをできるだけ丁重に扱った点に絞る。そうすることで量刑が軽くなるといったメリットは竹下との初対面で伝えており、彼は納得してくれた。記憶力も悪くない青年であるので、おそらく描いた絵図通りの裁判になってくれるだろう。そこまでの確信を得た段階で、伊達はテーブルに頬杖をつき、大きくため息を漏らした。
自分は一体、どうしたいのか。どのような先行きを望んでいるのだろうか。ナッシングゼロから身を引く、といった判断は、絶望といった感情から導き出されたなし崩しの結論であり、論理などには決して基づいてはいない。自らの行動で他人を弱者に陥れ、死に至らしたことに対する恐ろしさから端を発したものだ。そして、そもそも鍵の力で人生を変えようと思ったのも、得体の知れない力への期待感がきっかけだった。これまでの十年間、法律という、疑ってはならない確かな定めが支配する世界で生きてきたにも関わらず、マサカズと出会ってからは、そこから逸脱し、自分の感情などといった確証も定かではない疑わしき根拠で大きな決断をしてしまっている。これは、よくないのではないだろうか。久しぶりに法廷という古戦場と向き合うことになった伊達は、この何日かで幾分だが本来の冷静さを取り戻しつつあった。書類を作り終えた彼は、身支度を済ませるとヘルメットを手に、拘置所に向け自宅を後にした。
「ホッパー君、ケンカとかってしたことある?」
「ケンカ、ですか? 人と?」
「犬や猫とはしないでしょ」
枕元で正座するホッパーに、布団で仰向けになっていたマサカズは苦笑いを向けた。少し前、雨が降り始めたころ、彼はここ、自宅アパートを訪ねてきた。見舞いのための来訪であることは、果物が詰められたカゴを持参していたことから明白だった。“社長は大仕事の次の日は疲れ果ててお休みをとる”といった情報を、ホッパーは伊達や木村たち老人スタッフから聞いているはずなので、これは彼なりの気遣いの表れなのだろう。マサカズは傍らにあったカゴからバナナを取り、それを剥いて中身をひとかじりした。
ホッパーは早速、昨晩の顛末を説明してくれた。それによるとマサカズが去ったのち、ホッパーは近所のドラッグストアで包帯や痛み止め、消毒液などといった医薬品を買い漁り、現場に残された被害者の二人に応急処置を施そうとしたらしい。しかし結局マサカズが通報した救急車の到着が早かったので、それを抱えたまま自身も退散してしまったとのことである。アームの下敷きになった二人は重傷だが、命には別状がないとの報道であり、マサカズは今後、“命に別状はない”などといった言葉には注意が必要だと思った。なぜならあの二人はとてもではないがこれまで通りの日常生活を送るのには、困難だと考えられるほどの怪我を負ってしまったように見えたからだ。
そして、ホッパーに不躾な質問をしたのには理由があった。彼が訪ねてくる十分ほど前、取引先であり仕事の面倒も見てくれている廃棄物処理業者の保司から電話があったからだ。普段は事務所か伊達に対しての連絡だったのだが、今日は日曜日で事務所には誰もおらず、伊達にも何度か電話をしたところ出てくれないらしい。内容としては緊急の依頼であり、マサカズが案件の内容を尋ねてみたところ、なぜか保司の返答はいつになく不明瞭で、言いづらそうな様子だった。それでも疲れを押してしつこく聞いてみたところ、どうやら緊急の案件はこれまで伊達が断ってきたジャンルに類するらしい。まだよくわからない。遂には追求のレベルにまで語気を荒らげると、保司は遂に観念したのか洗いざらいを話してくれた。
「ケンカと言うかはわかりかねますが、昔、妹にちょっかいを出してきた不良たちを、腕力を以てしてグループごと解散に追い込んだことならあります」
「そうか。ちょっと前に、保司さんから仕事の依頼があったんだ。三時間後の午後四時までに、ある半グレグループを無力化してほしいって。場所とか委細はメールで送られてきている。人数は二十人ぐらいだ」
「なぜです?」
「理由はわからない。僕は以前、似たような仕事をしたことがあるけど、そのときもサッパリだった」
なぜこのような話をしてしまっていするのだろう。マサカズは自分でもよくわかってはいなかった。ただ、傍らで正座をするこの青年が、閉塞している状況に対して何かいい影響を与えてくれるのかもしれない。そのような漠然とした思いから出た発言だった。しかし彼に対して具体的に何を望むのか、そこまでは考えてはいなかった。実のところマサカズにとっていま一番欲しかったのは、伊達の冷静な助言だった。
「半グレとは、いわゆる反社会勢力のことですな!」
どうやら、ホッパーは前向きに話を聞いている様だ。爛々と輝く青い瞳から、マサカズはそう察した。
「ただ、どうやらこういった荒事を、これまで伊達さんは全部断ってきたって、保司さんは言っていた」
「なぜです? 正しきの行いではないですか」
「僕の心が耐えきれないって、たぶんそう思ってくれてるんじゃないかな」
「自分なら、かような心配はご無用! 情け容赦なく、反社どもめを叩き潰してやります!」
「本来なら、受けるかどうかの判断を伊達さんにしないといけないんだけど、今日は夜まで連絡がつきづらいんだよな。僕もさっき電話したけど出てくれなかったし」
「受けましょう! 昨日言っていたではないですか、新たな仕事を受けなければならないと! しかも社会貢献できる、これは実によい案件です!」
「そうなんだけど……」
正義感の強い青年だとは思っていたが、まさかここまで食いついてくるとは思っていなかった。ホッパーにこの案件を話してしまったことを、マサカズは今さらながら後悔し、彼から目を逸らした。すると、ホッパーは大げさな挙動で頭を両手で抱え込んだ。
「しかし反社! 刃物や凶器を持っているのは確実! 社長以外ではお引き受けできません! 自分ではとてもではありませんが、多勢に無勢といったところです!」
「僕は今日一日は動けない。あと三時間しかないし、場所を考えても移動に一時間はかかるから、やっぱり断るしかないかな」
「昨晩見てしまったあの力ですが、アレは社長の天然な力なのですか?」
ホッパーの問いかけにマサカズは目を見開き、彼の端正な横顔を見上げた。雨足はしだいに強まり、水滴が激しく窓に打ち付けた。
「何らかの……例えば未知の薬品などでドーピングを施した結果……ということも考えられうる……昨晩からずっとそのようなことを考えているのです。自分は。事故の直後、社長がポケットに手を入れたのが、そして何か叫んだのが、どうにも違和感があると感じ……その……色々と……いまの社長の疲労困憊ぶりも理解できると言うか……」
言葉を選びながら、ホッパーはそう言った。この力に対して考察を聞くのは初めてだった。さすがは大学院で生化学を研究しているだけのことはある。そう感心したマサカズの中で、ひとつの天秤が小さく傾いた。
「もしその薬品をお借りできるのなら、反社壊滅は自分がやってもいいと思っています。と言いますか、ぜひともやらせて下さい! 副社長がお断りしているのが社長のメンタルを慮ってのことと言うのでしたら、自分にはそのような繊細さはありませんので、大丈夫です。なんでしたら今後、こういった案件は全て自分が担当してもよいと思っています」
古代ギリシアの彫刻のような体躯と、正義に対して疑いのない苛烈とも言える精神を持った青年である。自分などよりは、よほどスーパーヒーローという立場に相応しい人物だ。マサカズは更に天秤の傾きを強めると、上体を起こした。
「秘密は、守れるか?」
「これまで、違えたことは一度もありません」
撤退を言い出した伊達の心を引き戻すには、大きな状況の変化が必要だ。鍵の力のいち側面である“無慈悲なほどの圧倒的暴力”を使いこなせるメンタルの持ち主が、いまここにいる。彼を有効に利用できれば、会社を取り巻く風景は著しく変わるはずだ。そして、それにより伊達の気持ちも会社に帰ってくる。マサカズはなんとか立ち上がると、カラーボックスの中にあった小型の金庫に手を伸ばし、その鍵を開けた。
「ホッパー君、もう一度だけ聞く……」
「秘密は守ります! なぜなら、尊敬する山田社長と交わす約束だからです!!」
天秤の傾きは、底を打った。雨足はその強さを増し、やがて雷鳴を伴った。
New!【無料版】第7話 ─バッタの力を借りてみよう!─Chapter9
東京都稲城市南多摩駅付近の住宅街で、マサカズは自転車を漕いでいた。これは駅前でレンタルしたものであり、保司から依頼されていた、幼稚園バスに取り残された園児の見守り案件をスムーズに行うための移動手段だった。
十二月四日の月曜日、鈍色の雲のもと、マサカズは昨日ホッパーに託した大きすぎる力と、それを用いた仕事について考えていた。半グレグループの壊滅とは、言ってしまえば数ヶ月前吉田から依頼されたような内容だ。自分でなければとてもではないが務まらない荒事だが、その前の晩での人命救助で体力と気力を使い果たしていたこともあり、依頼されたタイムリミットの内に回復する見込みはなかったので、本来なら断るべき案件だった。だが、なにか手立てがあると思ってしまい、依頼の電話ではいったん保留にしてもらった。そして、彼がやってきた。果実の籠を手に、心配顔の彼が。もしかすると、今にしてみると漠然と思っていた“手立て”とは、このホッパーを活用することだったのかもしれない。あの剛直で自分の正義に疑いがなく、信義を重んじる青年になら力を預けてもいいと、無意識のうちに考えていた可能性がある。そして、豪雨が窓を打ち付ける中、彼に鍵と仕事を託した。鍵は自分の所有しているものを以前、駅の鍵修理専門店で複製したものである。限られた短い時間だったが、仕事の内容についてはこれまでの経験に基づき、段取りを事細かに説明し、ホッパーはそこに含まれる意図と目的をすんなりと理解したようであり、マサカズはこの青年が聡明であるとあらためて思った。
最後に、無力化する相手や防犯カメラ対策として、ホッパーにプロレスのマスクを手渡した。彼はそれ受け取ったが、表情や態度からどうにも戸惑っている様子にも見えた。
そして雷雨も上がった夕方、ホッパーから電話があった。内容は「仕事は完璧に遂行いたしました。反社どもの無力化に成功です。明日、事務所で詳しく報告します」といったものだった。鍵の力を使い、指示通りローキックで二十名もの悪漢たちに重傷を負わせる。日常から大きく逸脱した仕事を果たしたのにもかかわらず、電話越しに耳にするホッパーの声は抑揚に乏しく、動画配信サイトなどでたまに聞くAIの合成音声のようでもあった。マサカズはそれが気になりはしたのだが、優先するべきことはこの件の伊達への報告だったので、早速電話をかけてみたのだが、彼からの応答はなかった。
疲労が抜けきれないことから、夜まで寝てしまったマサカズがスマートフォンを確認してみたところ、伊達から電話とショートメールの着信が一件ずつあった。内容を確認してみたところ、メールには「竹下の件は、証人も含めて極めて順調に進んだ。そのぶんえらく疲れちまったから今日はサウナに寄ってから帰る。今後について色々と相談したい事もあるから、明日鰻でも食べながら話そう。鰻、嫌いじゃないよな?」と記されていた。上体を起こしたマサカズがため息を漏らすと、「今日はお疲れ様でした。僕も明日話したいことがあります。サウナとビール、楽しんでください。あと、鰻、大好きです」といった内容の返信メールを送信した。
四件目の幼稚園バスの見守りを終えたマサカズは、職員にバスの鍵を返却した。この南多摩の案件も今週いっぱいで終わる。いまのところ、次の仕事は一切入っていない。ホッパーに任せた半グレ壊滅が成功すれば、保司から似たような案件が入ってくるかもしれず、そこは期待したいところだ。悪党とは言え一方的な力で相手を叩きのめすことに対して、自分の心は耐えきれず、伊達に救われなければ壊れてしまうところだった。だが、おそらくだがホッパーは大丈夫だと思える。これまでの言動や行動を勘案すると、彼にはそういった繊細な情操というものが抜け落ちている様に感じられる。
駅前の無人ポートで自転車を返却したマサカズは空腹を感じたので、モーニングサービスを提供している、駅前の雑居ビルの二階にある純喫茶店に入り、カウンターに着くとハムエッグトーストとコーヒーのモーニングを注文し、背中を丸めた。時刻はちょうど午前十時。ハムエッグトーストが来るまでマサカズは、コーヒーカップを片手にスマートフォンで漫画を読み耽っていた。十分ほどして運ばれてきたのは食パンが二枚に卵が二つといった、想像していたよりずっとボリュームのあるハムエッグトーストと、小さなサラダだった。自転車で街を奔走したため、この程度は軽く平らげられるぐらいの空腹ではある。マサカズがトーストを掴んで大口を開けると、カウンターの奥のテレビでニュースを映しているのが目に入った。半熟卵とハム、そしてトーストを威勢良く噛みちぎったマサカズは、なんとなくニュースに意識を向け、耳を欹てた。
昨日、東京都目黒区中目黒のマンションで殺人事件が発生した。それが報道の概要だった。被害者の数は二十名にも上り、全てが死亡し、中には犯人と激しくもみ合うなどの形跡があり、いずれも室内で身体を強く打つなどしており、死因は内臓破裂や失血死などだった。被害者の名前は二十名を代表し、夏川麗音という青年であると報じられた。マサカズは静かにトーストを皿に戻すと、立ち上がって店員に料金を支払い、喫茶店から出た。
きのう依頼された仕事の現地は中目黒のマンションで、先ほどのテレビに映っていたものと同一だ。壊滅させる半グレのグループ名は“サマーリバー中目黒”で、リーダーの名前は夏川麗音となっている。ドアは強引にこじ開けられ、防犯カメラに容疑者と思われる人物も映っているとの報道であり、もしこの殺人事件がホッパーの手によって行われたのであれば、彼は納得していたはずの段取りを全て無視し、重傷を負わせるといった目的についても命を絶ってしまう間違いを起こしている。防犯カメラの件から、鍵と共に渡したプロレスのマスクも被っていないようだ。何が理由で、あの優秀な彼はミスを犯したのだろう。それとも犯人は別人物で、ホッパーの完了報告は、それを隠す嘘といった可能性もある。判断するにはあまりにも材料が乏しく、それを求めるためマサカズは、南多摩駅に早足で向かいながら、ホッパーに電話をした。しかしどうやら電源を切っている様であり、即座にアナウンスが返ってきてしまった。こうなると、まずは伊達と合流していち早くこの緊急事態について相談しなければならない。電車に乗り込んだマサカズは伊達に、「緊急事態が発生しました。会社につきしだい話をさせてください。確定している情報が少ないので、伊達さんの知恵が必要です。一時間ほどで帰ります」といった内容のメールを送信した。するとすぐさま伊達より「わかった。ひとまず落ち着け」との返事が返ってきた。着席したマサカズは手すりに半身を預けると、苛立ちで左の踵を細かく着けたり離したりした。
「半グレって、おっかない連中なんだろ? それがまぁ二十人も殺されたなんて、犯人は外国のギャングとかだったりしてー?」
マサカズが電車で焦燥感に苛まれていたころ、代々木の事務所のテレビで報道を見た浜口は、そのような感想をわざとらしくおっかなそうに呟いた。木村は「なんか、五月ぐらいにも歌舞伎町のヤミ金業者が殺された事件とかありましたけど、なんか最近、そういうのが多いって印象がありますね」と、穏やかな口調でそう言った。その言葉がきっかけで、伊達もニュースに注目した。マンションの防犯カメラに映っていたのは一人の男だった。映像から年齢や人相はわからないが、長身で恵まれた体格をしているようであり、妙に記憶を刺激される。先ほどマサカズから送信されてきた“緊急事態”と関係してはいないだろうか。伊達は漠然とだがそのような予想を思い浮かべた。
ともかく、今はマサカズの出社を待つしかない。伊達の内心は、ここ二日ほどで大きな変化が生じようとしていた。この事業から身を引くつもりだったが、マサカズはまだやる気があり、そもそも彼をこの状況に巻き込んでしまったのは自分なので、撤退はあまりにも身勝手だ。なによりここ最近におけるマサカズの成長ぶりは目を見張るものがあり、これからもまだ追っていきたい欲求も湧いてきた。
確かに自分たちには勝ち組となる目的で、庭石を弱者に転落させ、自殺に追い込んだ責任はある。しかしマサカズはそうは思っていなかった。これはまるで登別の件と真逆な状況であり、今の自分と彼は互いの存在があってこそ正気が保てるといった考え方もできる。
「じゃあ社長、私と浜口さんで新宿まで買い出しに行ってきますね」
「ええ、自分は今日、一日ここですから、よければ昼飯も行ってきちゃってください」
「いいねぇ! 思い出横丁にランチやってる焼き鳥ちゃんがあってさ、そこのぼんじり丼が最高なのよ! 木村ちゃん、寄ってこ!」
浜口に促され、木村は共に事務所から出て行った。ひとり残された伊達は、椅子を反転させ窓に向かって曇り空を見上げた。
なにやら胸の底あたりがざわざわとし、吐き気がもよおす。恩師の柏城は、以前このようなことを言っていた。「なぁ伊達、人間ってのは面白くできてるもんで、実のところもう色んなことがわかってるんだ。とっくに計算ができているんだ。だけどそれが無意識のうちなものだから、自覚できちゃいない。それがいわゆる“嫌な予感”ってやつだ。こいつにやられたら、とにかく時間を作って考えるんだ。そして無意識を自覚にしろ。そうなれば早い手が打てる。逆に言えば、モタモタしてたら手遅れだ」と。もう、手遅れなのかもしれない。椅子をもとの向きに回した伊達は、目の前に立つ精悍な青年を見上げ、鼻を鳴らした。
「サマーリバーは俺も担当したことがあってさ、あそこの夏川ってボスは、本当に物覚えか悪くて苦労したよ。ぶっちゃけバカだ。けど、妙に責任感はあったな。仲間の危機に対しちゃ死に物狂いで身体を張る。まぁ、犯罪者だけどな」
伊達は煙草を箱から一本取り出すと、上ずった早口でホッパーにそう言った。
「殺ったな?」
だが、ホッパーからの返答はない。伊達は煙草をくわえると火をつけ、紫煙をくゆらせた。
「わからないのは、なんでお前がいま、ここにいるかだ。防犯カメラにもモロ映りで、逮捕は時間の問題だぞ。あんな反社、生きている価値もない、そんな歪んだ正義感を振りかざすんなら、いまは全力で逃げるべきなんじゃないのか?」
「悪は、見過ごせん」
ようやく開かれた口から聞こえたのは、伊達にとって少々意味を理解しかねる言葉だった。
「俺たちが、悪だって?」
「山田から鍵というものを借り、その力を使い反社に正義の鉄槌を下した。なんだ、これは? 自分は薬物によるドーピングだろうと踏んでいたが、これはそんなものではない。なんのデメリットもない魔法の類だ。お手軽で負荷がなく、なんでもありだ。これは人類の歴史を大きく変える力ではないのか? それをお前たちは独占し、下らん事業にうつつを抜かすなどといった体たらくだ。人類規模という視点から見れば、お前たちは悪だ! 大いなる発見を秘密とし、それによって私欲を満たす悪の秘密結社だ!」
「ご高説だな。なんで俺がお前に、ずっと違和感を抱いていたのかようやくわかった。俺は、お前みたいな幼稚なヤローが大っ嫌いなんだよ!」
伊達は啖呵を切ると、懐からあるものを取り出しながら立ち上がった。
「自分のすべきことは、この素晴らしい力を全人類で共有することだ。これから政府関係者と接触し、この秘密について話をする」
「議論はしたかねーが、一応言っておく、世の中舐めんなよ」
「反社専門の弁護士風情が、身の程知らずもいいところだな」
「どうせテメーはヘマをこく、それだけは言っておく。そして鍵はマサカズが手に入れた俺たちの財産だ。勝手に持ち出されるなんて、あいつの相棒としちゃ見過ごせねーな」
伊達の言葉に、ホッパーは彼の目の前で鍵を南京錠に差し込み、それを回すことで答えた。
「虎の子の鍵を自分に手渡してしまったのが運の尽きだったな。私はとてつもない力を手に入れたのだ! 悪よ滅びよ!!」
芝居がかった仰々しい台詞と共に、ホッパーは机越しの伊達目がけて右ストレートを放った。しかし、その拳は伊達の頭部を果実のように粉砕することなく、交差した両腕でしっかりとブロックされていた。本来、伊達の身体を打ち砕くはずだった破壊の力は彼の周辺に広がり、机上のパソコンや本棚は倒れ、背後の窓ガラスにはヒビが入った。
「バ、バカな……昨日は逃げ込んだ机ごと粉砕できたのに」
望まない結果に、ホッパーは困惑しているようである。まさかこのような形で役に立つとは伊達も思っていなかった。机の引き出しの鍵穴に突き刺した“それ”をちらりと見下ろした伊達は、これを半ば強引に押しつけてきたマサカズに感謝していた。そう、それは以前マサカズが十本複製し、“可能性と選択肢を広げる”ためといった理由からゲームバーで受け取った一本である。ホッパーがこの展開を想定していなかったのは、戸惑った様子から明らかである。マサカズから“これ”を受け取っていなければ、一撃でこの身体は粉々にされていただろう。精神的優位な状況を作り出したことで、選択しだいではこの正義の味方気取りの殺人鬼から、生存という可能性が高まる。手は交差したまま、伊達は人差し指で眼鏡を直した。
「なんつーか、こーゆー展開、けっこー好きかも……俺」
不敵な笑みを浮かべると、伊達は舌なめずりをした。机上のスマートフォンが暴れるように振動し、それはマサカズからの着信だった。しかし、戦いの中にあった彼に応じる余裕はなかった。
第7話 ─バッタの力を借りてみよう!─Chapter10予告
伊達の元に駆けつけたマサカズ。そこで彼が見たものは….。
第7話10章を含めた「ひみつく」単行本第1巻が7月18日(木)に発売されました! 10エピソードからなる「外伝」の他、キャラクター設定集も収録されます。ぜひご覧ください!
続きの話はこちらから!
※最新話は以下で読むことができます(※下の「2024年間購読版」はかなりお得でオススメです)
◆一番お得な「2024年間購読版」でも最新話をお届けしていきます!
※初めての方は遠藤正二朗氏の「シルキーリップ」制作秘話も読める「Beep21無料お試し10記事パック」もあわせてご覧ください!
遠藤正二朗氏の新作小説
「秘密結社をつくろう!」では
みなさんからの応援メッセージや
感想をお待ちしています。
続きも楽しみ!と思った方は、記事の左下にあるハートマークの「スキ」も押していってくださいね。どうぞよろしくお願いいたします。
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?