遠藤正二朗 完全新作連載小説「秘密結社をつくろう!」第4話 ─鉄の掟を作ろう!─Chapter7-8
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第4話 ─鉄の掟を作ろう!─ Chapter7
火曜日に決別を告げ、二日が経った。明日の金曜日を最後に、兄は遠い存在になる。おそらくはもう会うこともないのかもしれない。原因もはっきりとは説明できないまま暴力で屈服させ、言ってしまえば追放するような形での別れだ。せめて、明日は送別会でも開ければいいのだが、明日も今日や昨日の様に、九時から一時間だけの出勤になるのだろうからそれも叶わないだろう。
気分を変えよう。アパートの台所で、新たに発売されたばかりのカップ焼きそばの湯切りをしたマサカズは、史上最強と自称されている激辛ソースを麺にかけ、それをよく混ぜ合わせた。どの程度の刺激なのだろう。悶絶しているうちに、兄のことも忘れられるといいのだが。馬鹿馬鹿しい期待を抱いたマサカズが割り箸で真っ赤な麺を掬おうとしたところ、玄関の呼び鈴が鳴った。のぞき窓を見るとヘルメットを被ったままの伊達が扉を叩いている。マサカズが解錠した途端、扉は乱暴に開かれ、スーツ姿が弾丸のように飛び込んできた。
「伊達さん、何事です!?」
「緊急事態だ。マサカズ、お前は兄の配信動画を削除できるか?」
要求は明確だが、それは理由によって選ぶべき答えの数が多すぎる。であれば、最悪からアプローチしてみよう。伊達の期待に応えたかったマサカズは、彼とは逆にできるだけ冷静さを保つことにした。
「できると思います。以前にアップロードしたのは僕なんで、兄貴がパスワードとか変えてなければできます」
マサカズの言葉に頷き返すと、ヘルメットを脱いだ伊達は鞄からノートパソコンを取り出した。
「Wi-Fiはないな。LANケーブルは?」
「あ、いや、そーゆーのは」
「わかった。ならなんとかする」
伊達はノートパソコンを床に置くとそれを起動し、スマートフォンも同時に操作して、マサカズにパソコンのブラウザで動画配信サイトの画面を見せた。
「これを見て欲しい。そしてできれば見ながら、こいつを削除する手を打って欲しい」
「兄貴のチャンネルですね。わかりました」
画面に、ひとつの動画が再生された。どこかはわからないが、薄暗い部屋にアロハシャツ姿の兄が映し出されている。動画のタイトルを確かめてみると『鍵で超能力って信じられる!? 前編』と記されていたので、マサカズは青ざめ、隣に座った伊達を横目で見た。
「どもどもおひさー! YouDaiちゃんねるのユーダイでーす! 今日はですね、ボクが知ってしまったとんでもない超能力について、みなさんにお知らせしていきたいと思いまーす! いやー、びっくりしちゃいましたよ。あのですね、ボクには弟がいるんですけど、こいつがアメコミヒーローみたいな超能力者でしてね。ぶっとい大木も素手のチョップで粉々にできちゃうんですよ。でですね、そんなことできるわけねーだろってことで、なにか秘密があると思って探ってみたんですけど、どーやら弟は不思議な鍵で超能力を使えるようになったみたいなんですよね。見ちゃったんですよ、力を使い切ったあと、弟のポケットで南京錠が外れたのを。まーまーまー、誰も信じないよね。このアロハオヤジ、なーにふかしてんだよって思っちゃいますよね。と言うわけで、後編ではこの鍵のスーパーパワーについて、もっと詳しくお知らせしようと思います。とんでもないモノ、見れるかもよ~。それではこの動画がいいと思った人は、チャンネル登録とグッドボタンをお願いしまーす!」
時間にしては五分足らずだったが、その内容はマサカズに激辛という事実を忘れてカップ焼きそばを口に運ばせるほど衝撃的だった。マサカズはひどくむせ返ると、ペットボトルのお茶をごくごくと飲み込んだ。
「消します」
マサカズはブラウザを操作して、兄のチャンネルにアクセスをした。予想通り開設当時からパスワードは変更されておらず、動画はサイトから削除された。そして、マサカズは念のためにパスワードも変更した。
「伊達さんはなんでこれを?」
「毎日一定のキーワードで鍵の力が漏れていないか検索していたんだ。そうしたらこれがヒットした」
「ごめんなさい……山梨の伐採のあと、疲れて寝てしまって、兄貴に運んでもらったんですけど……」
「そのリスクはある程度見込んでいたけど……鍵が力の源泉だって結びつけられるとはな」
「伊達さんの評価を前提とした場合なんですが、僕、兄貴にクビを言い渡すとき、鍵をアンロックしたんです。ポケットの中で。もしかするとそれをチラ見してた可能性もあります」
「そうか……動画のアップロードは二十四時間前、昨日の夜だ。後編で詳しくって言っている以上、雄大はお前に何らかのアプローチをしてくるかもな。例えば、瓜原みたいな輩をけしかけて、鍵の力を撮影したりとか。明日しれっと出勤してくるかどうかは、微妙なところだな」
「打つ手はひとしかないでしょう」
マサカズは立ち上がると、フルフェイスのヘルメットを手に取った。
「どうするつもりだ?」
「兄貴の住んでる場所はわかってますから、今から乗り込みます。そして、脅します」
その対策に、伊達は腰を上げてマサカズの手首を握った。
「できるのか? 実の兄を?」
「居酒屋で一度やってますから。もちろん、今度はもっと強く脅しますけど」
「こういったケースだと口止め料って手もあるけど……雄大みたいなヤツは、キリがないパターンに陥る……」
伊達が言い終えぬうちに、マサカズは「一円も払わなくていいです」と、強い口調で逡巡を打ち消してきた。二人の間に沈黙が流れると、カラーボックスに置かれていたマサカズのスマートフォンが揺れた。拾い上げてみると、一枚の写真が着信されていた。ロックを解除して写真を見たマサカズは嗚咽を漏らし、伊達に画面を見せた。
大柄なアロハシャツの男が事務所のような一室で跪いている。両手は結束バンドで拘束され、顔には数えるのが躊躇われるほどの痣が浮かんでいる。頭髪は乱れ、腕には煙草を押しつけられたと思しき火傷の跡も認められる。そう、それはつい先ほどまでノートパソコンの画面で軽妙なトークをしていた男の変わり果てた姿だった。すると、再びスマートフォンが振動した。どうやら非通知での着信である。マサカズは伊達に再び画面を向けた。伊達が僅かに頷いたので、彼は電話に出た。
「あー、山田ちゃん。久しぶり。吉田だよ。写真見た? お兄ちゃん拉致ったんだわ。でね、鍵持ってんだよね。それ、持ってきて。持ってこないとお兄ちゃん、ちょっとヤバいよ? 動画消したのは山田ちゃん? 手遅れだったね。昨日見ちゃったのよ。こっちも色々と検索しててさ。ケンちゃんが、山田ちゃんから鍵の力が云々とか言ってからさ。ダメ元で自動検索してたのよ。そしたらお兄ちゃんの……ああ、もういいや面倒くせぇ。とにかくさ、あのクソ動画がマジだって認定したんだよ、こちらとしては。で、もう一度言うけど、鍵もってこい。一時間後にもう一度電話する。出なかったらお兄ちゃんのボコられ動画、送りつけちゃうよ」
一度の返答の余地もなく、吉田からの電話は一方的に切られた。途中からスピーカーモードに切り換えていたので、最悪の状況は伊達も共有していた。
「マサカズ、選択肢を一つ潰させてくれ」
「嫌です」
「交渉に応じるフリをして、吉田たちから雄大を救出……悪手もいいところだ」
「僕にはそれができる力があります」
「人質を取ってる吉田たちの方が、遙かに有利な状況だ。残念だけど鍵の力は限定的だし、お前ができる内容は吉田たちも把握している」
「ならどうするんです?」
「井沢さんに吉田周りの情報を集めてもらう。二日もあれば住まいや女の家とかわかるだろう。前に奪った携帯の情報は、これだけ時間が経っているとアテにはならないからな」
「兄貴はどうなるんです?」
「いくつかのケースが考えられる。例えば一時間後に電話に出なかった場合、数十分おきに写真や動画が送りつけられる」
「兄貴が拷問されている動画ですか?」
マサカズの声は掠れ、震え、それは伊達としては顧客や証人から幾度か耳にした心の乱れを感じさせる言葉だった。
「救出は奇襲しか成功する見込みがないと考えてくれ。今夜は連中が一番警戒し、万全を期してお前の力に備えている。今夜じゃない。わかってくれ」
「見殺しにしろって?」
「殺されるとこはない。この件での吉田の切り札は雄大だ。絶対に命を奪うことはしない」
「死んだ方がマシって思えるような目にあわせるんでしょ?」
マサカズの震えた問いに、伊達は返事ができなかった。これまでの弁護士稼業で、ああいった種類の人間がどれだけ惨たらしい仕打ちをするのかはよく知っている。だから、言葉として伝えることはできなかった。マサカズはヘルメットを床に置くと、大きく深呼吸をした。
「わかりました。こうしましょう」
スマートフォンを手にしたマサカズは、それを部屋の隅に鎮座していた金庫の角に打ち付けた。画面は割れ、中の基盤は剥き出しになり、それは通信端末としての機能を全て失った。マサカズの思いきった行動に、伊達はうめき声を漏らした。
「井沢さんに連絡お願いします。そして、作戦を立てましょう。なにがあっても絶対に兄貴は助け出します。たとえ、どんな状態になってしまっていても」
その決意に至るまで、どれほどの葛藤があったのだろう。このように短い時間で達するには、自分ではおそらく不可能だ。伊達はマサカズに敬意を抱き「今から俺のとこに行くぞ。ここは吉田にもバレてるだろう」と、取るべき具体的な方針を伝えた。
激辛カップ焼きそばは半分も食べられることがなく、誰もいない部屋に取り残されることになった。
吉田の情報収集能力と、それに費やすコストが読めないため、伊達は彼らが何をどこまで知っているのかを把握しあぐねていた。無論、そういった場合は最悪を想定するのが最良なのだが、そうなると打てる手がまったくなくなってしまうので、ある程度は楽観的に舵を切る必要もあった。吉田は自分のことをどこまで把握しているのだろうか。伊達隼斗とはアプローチしだいでいくつもの肩書きが得られる存在だ。カルルス金融の債務者。柏城法律事務所に所属していた弁護士。株式会社ナッシングゼロの役員。これらの情報を全て掴んでいた場合、マサカズの有する力の深部を知り得る協力者ということになる。
飯田橋のマンションまで彼をバイクで連れてきたものの、ここも吉田たちに知られている可能性もある。どのような肩書きの伊達隼斗がこの十三階に住んでいるかによって、見張りを置くなどといったコストを吉田は支払うだろう。だが、それでもあの小岩のアパートにいるよりはずっと安心できるし、こちらもそのコストを毎月支払っている。最善とは言いがたいが、ここで作戦を練るのがまだましであると伊達は判断していた。
「マサカズ、夕飯は?」
「食べる気になれません」
エレベーターに乗り込み、ヘルメットを抱えていたマサカズは力なくそう返した。
結局、この夜は交替で睡眠を取ることにしたのだが、マサカズはリビングに敷かれたマットレスに横になったものの、一睡もできなかった。そして、伊達もやはりそうだった。
翌日、マサカズと伊達が事務所に出勤すると、浜口と寺西がいた。木村は休みで草津は午前半休なので、本来なら今日が最後の出勤になるはずだった雄大を除けば、これが本日におけるナッシングゼロのフルメンバーである。マサカズがスマートフォンを破壊して以来、吉田からの連絡は一切なく、これは吉田が自分の電話番号などの情報や、マサカズとの関係性を詳しく知り得ていないことの証左にはなる。だが、事務所の電話となれば話は別だ。少し調べれば容易に辿りつける情報だ。伊達はデスクの固定電話に最大限の注意を向けた。
定時から十五分ほどが過ぎたが、事務所の電話は鳴らなかった。マサカズは無意識のうちに目を壁際のロッカーに移した。あの中には、七本の鍵を収納した手提げ金庫が入っている。昨日、兄に鍵の返却先を尋ねられた際、つい、見てしまった。“鍵”という今のところ最も重い言葉に対して、ついつい、見てしまった。
なんだ、アレ。
ロッカーの引き戸、少しズレてる。
血相を変えたマサカズは勢い良く立ち上がり、ロッカーまで駆け寄るとそれを引き開けた。そこには大きめの弁当箱ほどの大きさをした手提げ金庫が入っていた。だが、しっかりと閉ざされていたはずの鍵は力尽くで変形させられた挙げ句、強引に解錠されていた。金庫の中身を確かめてみたところ、鍵は六本入っていた。マサカズの行動を不可解だと思った伊達は、彼の傍までやってきた。
「一本、足りません」
もっとも聞きたくなかった報告に絶望して伊達は、浜口と寺西に振り返った。
「浜口さん、寺西さん。物理的なセキュリティに問題が生じました。泥棒です。自分と山田社長は今からその対応にあたります。本日の通常業務は現時点で終了。二人はここで帰ってください。草津さんへはこちらから連絡しておきます。もちろん、有休扱いにしますので。月曜日の出勤についてもこちらからの連絡を待ってください」
我ながら情報量を詰めすぎだと伊達は悔やんだ。案の定、浜口は眉を顰め困惑しているようである。すると、寺西が浜口の肩を人差し指でつついた。
「浜口くん。泥棒だって。今日はもう上がってくれって」
「け、けどよ。それなら俺たちだって容疑者になるだろ?」
「伊達さんは刑事弁護士だよ。そんな事とうにわかった上での指示なんだから、考えがあるんじゃないのかなぁ?」
帰り支度をしながら、寺西はのんびりとした口調でそう言った。浜口は細かく頷くと、「よっしゃ! 非常事態っつーこったな」と納得を言葉にし、伊達に歩み寄った。
「あのロッカーなんだよね。伊達さん」
「はい、そうです」
「なら、ひとつだけ心当たりがある。昨日なんだけど、夜にここまで引き返したんだ。お恥ずかしい話なんだけど、かあちゃんの土産をデスクに忘れてさ。そーしたら、雄大くんがいたんだよ。ロッカーの前でなんかごそごそしてて、アレ、朝のうちに帰ったんじゃねーのってさ。そしたら雄大くん、社長に頼まれていた忘れ物を取りに来たって言うじゃん、なにそれ? って聞いたら、鍵だっていうのよ」
浜口からの情報に、マサカズたちはあまりにも単純な結論に達するしかなかった。伊達は浜口に軽く頭を下げ唇を噛んだ。
「事務所の鍵が壊されていない以上、鍵の窃盗は雄大によって実行された。これは確定していい」
「今思えばですけど、なんで兄貴、きのう鍵の返却場所なんて聞いてきたんだろうと思いましたけど……」
老人たちを帰した事務所で、マサカズと伊達は互いの椅子を適当な場所に運び出し、向き合うように座っていた。
「雄大は盗んだ鍵を、次の動画でお披露目するつもりだったんだろう。もちろん、ヤツは鍵については無知だし、自分で発動させられるか半信半疑だろうが……いや、スペアキーの存在で……南京錠は持っているのか? いやいやいや」
天井を見上げた伊達は、煙草に火をつけた。マサカズはパタパタと手で煙を払った。
「伊達さんをしても兄貴はわかんないヤツですか?」
「読みが当てはまりづらい。優れた能力と愚か者のパーソナリティーが、なんとも言いがたい混ざり方をしている。だからこれ以上考えるのはやめて、次は状況について整理しよう。雄大は鍵を盗み、その帰宅途中か帰宅後、吉田たちに拉致された。しかし吉田は雄大が鍵を持っていることまでは突き止めていない。それが、あの写真の傷や火傷だ。雄大が動画で伝えた内容に対して、連中はいきなり“鍵持ってんだろ、出せよ”とは言わない。実はそれが一番近道なのに、だ。雄大に拷問し、動画の内容を執拗に追求したんだと思う」
「ちょっと待ってください。おかしいですよ」
「なにが?」
「だって、攫われた時点で兄貴は鍵を一本持ってるわけでしょ。あんなにボコられる前に、兄貴だったらとっとと鍵を渡してしまうと思います」
「逆転を狙っている可能性は? 鍵の力で、吉田たちを叩きのめす」
伊達の推測に、マサカズは両手で頭を抱えた。
「最悪だ……たぶん、南京錠とかまだ買ってませんよ。どう使うのかもわかっちゃいない。なのに、ポケットなんかにそれは入っている」
「雄大にとって今ごろ、おそろしい量の選択肢にパニックを引き起こしているかもな」
「今ごろ……」
マサカズは、その言葉に重苦しい違和感を覚えた。
「しかし、なんであんな手提げ金庫に保管した?」
「もっとちゃんとした金庫も注文したんですよ。けど、なんか途中で注文ミスのトラブルとかあったり、品不足とか色々と言われて……ちゃんとしたのは九月に届きます。けど、兄貴もよく開けられたな」
「あんなの、ベネズエラだったら五歳児でも目をつぶってバールでこじ開けられるぞ」
二本目の煙草に伊達は火をつけた。
「しかし、もうひとつ読めないのが吉田の動きだ。あの電話から半日経っているのに、なんの接触もない。人質を取っている以上、連中にとっては長期戦が一番の負担になる。正直な、事務所に切られた片耳でも送りつけられて揺さぶってくるんじゃないかとも考えていた。なんで、動きがない?」
二度ふかしただけで、伊達は煙草を灰皿に押しつけた。マサカズはゆっくりと立ち上がると、「昼飯買ってきます。そこのカレー弁当。何カレーにします?」と告げた。
食事は確かに大切だが、マサカズがなぜこのタイミングでこのような提案をしてくるのか、伊達にはわからなかった。
「僕はチキンカレーにオムレツをトッピングします。2辛で。伊達さんは?」
「なら、俺はシーフードカレー。3辛で」
「行ってきます。僕が戻ってくるまでに、伊達さんにお願いがあります」
三本目となる煙草を取り出した伊達は、背中を向けたマサカズに目を向けた。
「お願い? なんだ」
「落ち着いてください。伊達さんがそうしてくれないと、僕たちに勝ち目なんてありません」
兄の危機に対して、なぜこの弟はここまで落ち着いていられるのだろうか。似たような事案において、ひどく困惑し、取り乱し、感情を剥き出しにした者たちの相手をこれまでしてきた。それだけに、カレーを買いに事務所を後にしていくちりちり頭が不思議に思えてならなかった。
「井沢さんとすり合わせた方針を話そう」
その日の午後、夕日の差し込む事務所でマサカズと伊達は再び向き合っていた。
「今回はスピード重視だ。だから吉田に尾行をつけることにした。いずれ、そいつから連絡がある。いまはそれを待つしかない」
「吉田が落ち着いたところを襲撃するって感じですか? 鍵を取り戻さないといけませんしね」
「ああ、そして雄大の拉致先を聞き出す」
そう言われたマサカズは、顔を横に向けた。伊達はそれを軽い拒絶であると感じた。
「なんだ、マサカズ。さっきからお前、妙だぞ」
夕日を浴びたマサカズの横顔が僅かに引き攣った。
「もう、日没だ。もう、夜だ」
脈絡のないマサカズのつぶやきに、伊達はニコチンまみれの手で口を覆った。
彼はまだ、諦めていない。そして彼はもう、諦めてしまっている。
取り返さなければならない力を。そして、取り返しのつかない命を。
伊達はがっくりとうなだれ、「すまない」とくぐもった声で漏らした。
第4話 ─鉄の掟を作ろう!─ Chapter8
ベランダに据え付けられていたジャグジーバスから一直線だった。一日の疲れを癒していた吉田はマサカズに頭を鷲掴みにされ、全裸のまま客室まで投げ飛ばされた。キングサイズのベッドに軟着陸した吉田は上体を上げ、金魚の様に口をパクパクと上下させ、何もわからぬひな鳥の様に頭を上げ周囲をキョロキョロと見渡し、両手で股間を隠した。時刻は深夜二時、街灯はベランダにいるTシャツとスーツ姿の二人の青年を穏やかに照らしていた。
この赤坂の一泊十万円ほどの四つ星ホテルに吉田が宿泊しているのを知ったのは、つい一時間ほど前のことだった。井沢の手下である猫矢という青年が尾行し続けた結果、得られた情報である。電話で連絡があった際、伊達は猫矢を労ったが、マサカズは尾行の継続を依頼してきた。意外に思った伊達がその理由を問うと、マサカズは「終わらない場合を考えたんです」と、解釈し難い返答が戻ってきた。
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