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八月の暑い午後、静かにすすむ予感
一歩進むごとに、過去の一歩が失くなっていく。
いつかこの場所もゼロになってしまうのだろう。
『霜柱を踏みながら 11』
8月15日の午前11時半、灼熱の太陽が照りつけている。拭っても拭っても吹き出してくる汗に辟易していた。念入りにお化粧したつもりだが、ハンカチには汗で流されたファンデーションが付着している。うんざりだと思う。待ち合わせの駅に到着して思わず自動販売機でソーダ水を買った。それをふた口飲んだところで待ち合わせの相手が遠くから手を振っていることに気がついた。相手に負担をかけてはいけないと思い、私はすばやくそっちに向かって駆け寄った。父は、この暑さの中でポロシャツの上に紺色のジャケットを羽織っている。
「暑くないの?ジャケットなんか着て」
「暑いけど、このジャケットお気に入りだから」
弱々しく返事する父はまた少し痩せたようだった。
入院中の父に外出許可がおりた。いつもおとなしい父が「外出許可がおりたからお昼ごはんでも一緒に食べよう」と3日前に私のところに電話をよこした。私の方から外出申請を出してないから本人が申請したのだろう。珍しいこともあるなと思いながら病院の最寄駅で待ち合わせをすることにした。母にも一緒に行こうと誘ってみたが、「私は本人から誘われたわけじゃないし、私がいない方がお互いにいいでしょ」と予想通りの返事を母はした。父も「お母さんは来なかったの」とは言わない。父もそこら辺は充分承知のようだ。
父の姿は弱々しいけど常に笑っていた。それを見て私が心配顔をしていては相手の気遣いを無駄にすることになる。私も常に笑顔で話しかけた。
「なに食べる?なにか食べたいものある?」
「蕎麦が食べたいんだ」
「ここら辺に蕎麦屋ってあるのかな...?」
私が周りを見回していると、「担当の看護師さんに教えてもらったよ。ここ美味しいらしいよ」と言って、店の名前と簡単な地図を書いたメモをポケットから出してきた。私たちは炎天下の中を歩き出す。麻でできたそのジャケットからカサカサという衣擦れの音が私の右の耳に響いていた。たくさん喋りたいことがあるのに蕎麦屋に着くまでなぜお互いに何も喋らなかったのだろうと今になって思う。何かを喋ると何か嫌なことが起こりそうな気配をお互いに感じていたのかもしれない。
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[私小説] 霜柱を踏みながら
私小説です。時系列でなく、思い出した順番で書いてます。私の個人的な思い出の物語です。
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読んでいただきありがとうございます。 書くこと、読むこと、考えること... これからも精進します。