【essay】 不即不離
不即不離が理想である。
それは、そう…もう遠い昔からそうだった。
覚えているのは幼稚園に通っている頃。
スクールバスで通園していたのだが、バスに乗り込むと他の席が空いているにも関わらず、必ず隣の席にすわってくる子がいた。そして甲高い声で話しかけてくるのだ。その子は別に悪い子でもなんでもなく普通の子であったが、私はひとりで座りたかったし、隣に座ってもいいから話しかけないで欲しかったのだ。もし何かの話があっても静かに話しかけて欲しかったのだ。そんな子供の頃からそうだったのだから、不即不離に関しては筋金入りであろう。
簡単に言ってしまえば、群れるのが嫌いだったのだ。
人が嫌いなわけじゃない。お互いに必要な時は協力し合い、そうでない時はそれぞれの思いで過ごしたいと思うのは我儘だろうか。
中学、高校の時など最悪だった。休み時間になるとトイレに行く。
それも友達みんな連れ立って。「トイレ行こうよ」と誘ってくる友達が嫌だった。「うん、行こう」と結局は行くのだが、心の中で「トイレぐらいひとりで行けよ」と思っていた。
「女は連れションが好きだな」と、陰で冷ややかに笑う男子たちがいるのも知っていた。
言えなかったのだ。行きたくないと…
今はそれがSNSやLINEと様変わりしたけど、縛るものがあり、縛られるものがいるのには変わらない。
『不即不離』というのは、わかりやすく言えば付かず離れずの関係のことだろうか。
人間同士だとなかなか難しい関係ではある。お互いが精神的に大人でないと成り立たないし、お互いが自立した心を持ってないと成り立たない。
我が家でその関係が成り立っているのが、私と花(猫)である。
お互いに必要な時にしか近寄らないようにしている。
花の気持ちを聞いたことはないが、それで平和を保てているように思う。
夫と花は成り立つどころか、猫のストレスを倍増させている。
花の姿が見えると「花ちゃん、花ちゃん」と追いかけまわし、抱き上げようと必死だ。花はそんな時、私を見つめ「なんとかしてくれよ、この男」と言わんばかりにしかめっ面をする。
猫は人間の言葉が話せないから「やめろよ、私はしつこい人間が嫌いなんだよ」とは言えない。
猫が言えないのが当然だが、人間同士でもそれが言えないのである。
いや、猫同様とまでは言わないが、はほとんど言えないというのが正しいかもしれない。
さっき『お互いが精神的に大人でないと成り立たないし、お互いが自立した心を持ってないと成り立たない』と書いたが、この『お互いが』というのが難しいのだ。
片方がそう思っていても、片方が「いつも一緒にいたいのよ」ってタイプだったら、グッと両手を握りしめて我慢するしかないのだ。
そう、言えないのだ。
言ってみてもいいことはない。
「あの人、付き合い悪い」「あの人、性格悪い」「あの人、我儘」と三連発をくらうだろう。
私はすぐに言ってしまう。
だからいつも三連発をくらっている。
私はもうそんなことには平気になってしまったが、お勧めはしない。
あなたはグッと両手を握りしめて頑張ってくれ。