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神様は、ときどき優しい顔をする
一歩進むごとに、過去の一歩が失くなっていく。
いつかこの場所もゼロになってしまうのだろう。
『霜柱を踏みながら 9』
私は生まれてこのかたずっと無宗教だ。ほとんどの日本人と同じように、大晦日にはお寺の除夜の鐘を感慨深げに聴き、年が明けたら神社に初詣に行き、お盆にはお寺で手を合わせ。ハロウインにこそ手を出してはいないが、クリスマスになればチキンを食べ、煌びやかなケーキも食べる。心の底から何らかの宗教を信仰されている国の方からすれば、なんて優柔不断な国民性なんだろうと思われているだろう。でも日本人のほとんどがそんな感じで、それが日本の風習だといえばそれまでなのだと思う。
小学生の夏休み、毎年のことで母の実家である熊本で過ごしていた。田舎の夏休みは退屈だった。時々従姉妹のMちゃんが山に行こうと誘ってくれる。祖母が作った爆弾のようなおにぎりと水筒を持ってその日もふたりで山に登った。山といっても登山者が登るような山ではなくてどちらかというと段々畑が広がる小さい山だったが、私にとっては山に登るというのは日常ではなくて特別な行事であった。Mちゃんにとってはそれはありふれた日常で、私が公園に遊びに行くような感覚なのだろうと思った。Mちゃんは慣れた足取りで山に入って行った。私はいつもその後を離れないようについていくのに精一杯であった。
頂上というわけではなく、途中の開けた場所でシートをひいておにぎりを食べた。他愛ないお互いの学校の話や友達の噂話などをしながら休憩していると急に雲行きが怪しくなってきた。あれよあれよという間に空は黒い雲で覆われて遠くで雷が鳴り始めた。「帰ろう!」と急いで支度をしていると、もう雨が降り出した。それはだんだん激しくなり、打ちつける雨粒で顔が痛いくらいだった。雷も近づいてきた。「どうするの?」とMちゃんに聞くと「どうしよう...」と頼りなげだ。慣れているのではないのか、と私は責めたくもなったが、お互いにまだ子供でそういうことで言い争うより早くこの場から逃げないとという焦りの方が強かった。「神様にお願いしよう」と言って突然Mちゃんは地面にひざまずき、手を胸のところで組んで空を見上げた。
「天にまします我らの父よ。願わくはみなをあがめさせたまえ。みくにを来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ...私たちをお助けください。アーメン」
と、唱え始めた。Mちゃんはキリスト教だったのか?いやそんなことはない。家には仏壇があり神棚もある。でも十字架なんて見たこともない。「Mちゃんはキリスト教なの?」と私は聞いてみた。そしたら「キリスト教って何か知らないけど、アニメの中で女の子が困ったことがあるとこういう風にして神様に助けてもらってたから」と。「そうなんだ...」と私は言うしかなかった。私にもそうすることを強要され同じようなポーズをとって空を見上げた。神様を信じていないわけじゃなかったけど、なんか違うんじゃないかと思いながら芝居じみたポーズで空を見上げていた。
そうしていると、しばらくして雷の音も遠くなり雨も小降りに、遠くの空には晴れ間が見えたりもしていた。Mちゃんは「お祈りが効いたね」と喜んでいる。私は『それはどうかな』と思いながらも「そうだね」と言うしかなかった。無事に家に帰り着き、Mちゃんは家族にに今日の山での出来事を話して聞かせていた。大人たちは「ふふふっ、そうだったの、それは良かったね」と笑いながら聞いていた。その時、私はここの大人たちは偉いなと思った。子供の夢を打ち砕くようなことは言わないのだ。私の母なら「それは夕立ちだからちょっと待ってればすぐにおさまるのよ」ときっぱりと言うだろう。
*
過去に一度だけ私はホームレスのような生活をしていたことがある。それは日本でではなく、ニューヨークでのことだった。
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[私小説] 霜柱を踏みながら
私小説です。時系列でなく、思い出した順番で書いてます。私の個人的な思い出の物語です。
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読んでいただきありがとうございます。 書くこと、読むこと、考えること... これからも精進します。