母親が哀れに泣く雨の夜
一歩進むごとに、過去の一歩が失くなっていく。
いつかこの場所もゼロになってしまうのだろう。
『霜柱を踏みながら 2』
あの夜、母が泣いた。嫌、嫌、と幼児のように泣きじゃくった。派手好きで自信満々で大阪の街中を縦横無尽に闊歩していた母。そんな母にとって奈良の市内とはいえ、まだ田畑が残るこの住宅街に来ることは屈辱にも近いことだったのだろう。引っ越しが終わった当日の夜、父と母は喧嘩をした。それは大人同士の喧嘩というより、我儘な子供とそれを嗜める大人の喧嘩のようだった。
「こんな田舎に住むのは嫌」
「今更そんなこと言っても、もう引っ越して来たわけだし」
そして母は泣き出した。
「まさかこんなに田舎だとは思ってなかったのよ、嫌、嫌...」
私は段ボールが積まれまだ何ひとつ片付いていない部屋の片隅でその様子を見ていた。私もたかが8才の子供だったけど母の姿は私以上に子供っぽく見て、まるでおもちゃを買ってもらえなくて店で座り込み手足をバタバタさせて駄々をこねる幼児のようだと思った。かわいそうというより泣けば誰かがなんとかしてくれるだろうという、芝居じみた泣き方だった。「私だって引っ越したくはなかった。できるなら奈良の田舎になんて来たくなかった」そう訴えたかったのを子供ながらに我慢していた。言ったところで「そんな我儘言うんじゃない」と叱られることは目に見えてわかっていたからだ。それなのに母が泣いて抗議している。そうすることで何かが変わるのか、父が「じゃ、この引っ越しはなかったことにして大阪に帰ろう」とでも言うと思っていたのだろうか。私はまだ子供だったけどそれが覆らないことくらいわかっていた。なのに...、私の心に母に対する軽蔑の種が撒かれた夜でもあった。そして私が母の泣き顔を見たのは、後にも先にもこれが最後だった。
外は雨が降っていた。引っ越しの最中は曇り空で、引っ越しを手伝っていた父の友人達が「雨が降るまでに終わらせたいな」と言っていた。友人達が帰った後、シトシトとした雨が降り出した。まだカーテンのかかってない窓から雨の雫がはっきり見えていた。母は突然私の手を取り、「出ていこう、こんな所」と言って私は無理矢理靴を履かされ母に引っ張られて着の身着のまま外に引っ張り出された。傘もなく濡れながら母は私の手を引く。当時はコンビニや遅くまでやってるスーパーなどなくて、道路に沿って数十メートルごとに街灯がポツンポツンとあるだけだった。
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[私小説] 霜柱を踏みながら
私小説です。時系列でなく、思い出した順番で書いてます。私の個人的な思い出の物語です。
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読んでいただきありがとうございます。 書くこと、読むこと、考えること... これからも精進します。