【essay】作家の書いたものは、結局、作家の器を超えない。
最近、言葉や文章に関して考え込むことが多い。
それは、私が最近言葉や文章を蔑ろにする人によく出会うからだと思う。
この場合の蔑ろにするというのは、ぞんざいに扱うという意味ではなくて、
わかったふりをする人が多いという意味だ。
と、偉そうに言っても私もすべてわかっているわけではない。わかっていないが、わかったふりはしているつもりはない。
わからないものはわからないと正直に言うくらいの素直さは持っている。
そうなのだ、わかっていないから、私は考え込むのである。
そんな中でいつも思い出すのは、編集者の川治豊成さんの言葉だ。
編集者の川治豊成さんによると、文章には体臭のような匂いがあって、読まなくてもその文章や文字を絵を見るようにパラパラと見ただけで面白そうだなとかつまらなそうだなとかがわかるらしい。
でも匂いの好みは人それぞれ。だから絶対的に「これが良い」というものはないのだそうだ。爽やかな匂いが好きな人もいれば、ねっとりとした甘い匂いが好きな人もいる。中には人が嫌がる匂いが好きな変わり者もいるが、それもまたその人の好みだから仕方がない。
川治豊成さんによると文章の体臭は強い方がいいらしい。
強い方がいいからと言ってもその人の体臭は調整が効かないものだから難しい。体臭を変えるために香水をふりかけたりしても、鋭い読者には「あっ、香水かけてるな」とバレるということだろう。
川治豊成さんのおっしゃることを読んでいて、匂いで文章が?そんなことあるのか...?と、一瞬思ったのだけど、私が本屋で本を買う時のことを思い返してみると腑に落ちることがある。
仕事で使用する資料などはあらかじめ内容を調べて買いに行くが、プライベートで何か読みたいなと思った時は、並んでいる本の表紙を見て、タイトルを見て、1ページ目を見て、それでなんとなく良いかなと思ったら買っている。作者とか作品のジャンルとかはまったく見ていない。帰宅して作者の名前を確認して『これ、誰?』ということもよくあることだ。
『これ、誰?』と思った知らない作家の作品がものすごく面白かったりするのも事実で、それが川治豊成さんの言う『匂いで感じとる』ことなんだなと思う。
別にフルーツの香りがするとか鰻の蒲焼の香りがするとか、そういうのではくて(私に限らず)本好きは(あるいは物書きは)無意識にそういう行動というか、匂いを感じとっているのではないかと思う。
だからとても上手な文章でうまく整理されていても、何の匂いも感じない、まるで電化製品の取扱説明書のような文章に時々出会う。
読みやすいが何も心に響かないのだ。
中にはこの作家じゃないと読まないとか、こういうジャンルしか読まないという人もいるが、そういう人はその作家なりそのジャンルに好みの匂いを強烈に感じ取っているのではないかと思う。
読む方はその匂いを感じ取って選ぶことができるが、書く方はどうだろう。
「私の体臭はこれだよ、どう?いい香りでしょ」とはっきり言える人は少ないように思う。自分の体臭は自分にはわからないものだ。汗の匂い、口臭、特殊なフェロモン臭、加齢臭…自分ではなかなか把握できない。
それと同じように文章に漂う匂いも自分ではわからない。
わからないけど、間違っても香水をふりかけるような装飾はしないほうが無難なのだろうなと素人ながら思う。それと同時に上手な文章の書き方を教えてくれる人はたくさんいるが、この匂いの感覚を分析して解説できる人はいないのではないかと思う。
完璧が完璧のまま終わると息がつまるように、書き方のノウハウと匂い問題はこれからの永遠のテーマとなりそうだ。
私の体臭が好きな人は今のところいるのかいないのかわからない。
しかし、この匂いで書いていくしかないわけである。
作家の器とはそういうことなのかなと思う。
個人的には、土埃のような匂いが好きだ。夕立がくる前のアスファルトに湿気を含んだような埃が舞うときがある。ペトリコールというその匂いを嗅ぐとノスタルジックな良い気分になる。まぁ、具体的にそういう体臭の持ち主には出会ったことはないが、もしかしたら、私の好きは本はそういう匂いがどこかでしているのかもしれない。
いい匂いのするものと出会いたい。
それは自分が書くものにも然りだ。