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泣くおとな

割引あり

【朗読用作品】  泣く人を見つめるひとりの目線


泣いている大人を目の前で見るのは久しぶりだ。
テレビの悲しいニュースの中で泣いている人や、スポーツ選手の悔やし泣きや嬉し泣きなど、こことは違うところで泣いている人の姿はよく見かけるのだけれど、今、目の前にいる人と私と隔てるものは何もなく、すぐそこで、ひっそりと泣いている。
街中のカフェというシチュエーションもさることながら、店内に流れるジャズもその姿を効果的に演出しているようであった。
他の客やスタッフに見られないように、隅の席に座り、顔を壁の方に向けて泣いている。
この人は泣いているのだと、顔を見なくてもわかってしまうのはなぜだろう。
私はその人の背中を見る形で少し離れた席に座っている。 肩が小刻みに揺れているとか、鼻をすする音が聞こえるとか、そういう安っぽいドラマみたいな演出はない。
目の前のコーヒーを飲むわけでもなく、スマホの画面を見るわけでもなく、本を読むわけでもなく、カフェで出される紙製のおしぼりをしっかり握りしめている。 それだけで証拠は十分だ。
他人は泣く人に敏感に反応する。
それだけ泣くということは、笑うということよりも非日常的なことなのだろう。
恋人に振られたのか、上司に叱られたのか、親しい人が亡くなったのか、それとも、お財布を落としたのか、どんな悲しいことがあったの、どんな辛いことがあったの、どんな仕打ちを受けたの、などと限りなく追求してしまう。
追求したにはしたけど、理由がわかったところで、何も驚かないところがこの追求者の特徴だ。
ただ、その人に降りかかっている不都合なことを知って、かわいそうに、と、上から目線の優しさを発揮したいだけなのだ。
泣く人の背中を見ながら思い出していた。 私も若い頃はよく泣いた。
男にふられて泣いて、友達に裏切られて泣いて、上司に叱られて泣いて、そんな自分自身の不甲斐なさにまた泣いて、悔しくて泣いて、負けて泣いて、そして勝って泣いて、嬉し泣きより悲し泣きの方がはるかに多いのは、とても残念な人生だ。

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