ケセランパサラン
自粛を余儀なくされて数ヶ月、ついにやることがなくなった。
納戸の隅の埃をかぶったガラスケースに山ほど入っているのは知っていたけれど、他の棚や引き出しを開けてみると次々に出てくる出てくる。おもちゃのように透明で小さなものから四角くて分厚く大きなもの、素人目に見たらほとんど違いがわからないようなものも沢山あった。
私の祖父は発明家だった。
祖父は小さな町工場をやっていて、遊びに行くと必ず、自分の作業部屋に入れてくれた。図面を書くための大きな机の方へ近寄ると、きまってポケットから花柄の包み紙のソフトキャンディーを取り出し、万力という物を固定する工具の間にはさんで、サイコロみたく変形させて見せてくれた。夏休みに数日間遊びに行った時は、作業部屋の梁からロープを2本垂らして、木の端材をくくりつけ、ブランコをつくってくれた。工具やら文房具やらが次々に出てくる棚の、一番上の引き出しにはなぜか鍵がかかっていて、「ジジはこの中でケセランパサランを飼っているんだ」とも言っていた。ケセランパサランは真っ白でふわふわとした生き物で、白粉を食べて生きるのだと教えてくれたが、日光に弱いからと肝心の引き出しの中を見せてくれたことは一度もなかった。
亡くなってからもうかれこれ20年以上経つが、これほどまでにおかしな逸話を残した人を私は知らない。
祖父は、母に言わせると横暴で豪快で大人気のない人だったらしいし、祖母に言わせると、破天荒でいたずら好きで、でもなぜかいつも人の輪の中心にいる人だったらしい。話を聞くたび、私にとっては祖父が、引き出しの中のケセランパサランと同じくらい曖昧な存在に思えてならない。
とはいえ祖父は、私のつぎはぎの記憶の中では確かに、遊びの名人だった。
まあるいソフトキャンディーが立方体になると、世の中でまだ誰も食べたことがない新しいお菓子を食べているような気になったし、即席ブランコのある作業部屋は、誰も知らない自分だけの公園だった。なんの変哲も無いものや場所を、魅力的に変身させてしまう。それが祖父だった。
そして、そんな祖父が愛して止まなかったのがカメラだった。
父と母が新婚旅行でシンガポールに行った時、ナイトサファリで、カメラのレンズについているキャップを車外に落とした祖父が「死んでもいいから取りに行く!!」と大騒ぎしたエピソードは、耳にタコができるほど何百回も聞かされた。祖父が長年集め続けたカメラの中には、かなりマニアックで今は市場に出回っていないものもあるらしい。美大に6年も通っているのにフィルムカメラの扱い方もいまひとつわからない私は、祖父の形見の品々にどこか引け目を感じて、長い間手を出さずにいたのだ。
ガラスケースの中には、几帳面に管理されたカメラとレンズ。使い込まれた黒い革のカメラケースが整頓されてぴしっと並んでいた。長年放置するとレンズにカビが生えると聞いていたが、そんな様子はどこにもなかった。奥の方に1本だけ転がっていたモノクロフィルムを、最寄りから3駅離れたカメラ屋に持っていくことにした。
フィルム1本のためにカメラ屋にいくのも何だな、と思い、祖父のカメラの中で一番コンパクトで持ち運びしやすそうなカメラを選んでカバンに入れ、数日持って歩いた。撮り始めると楽しくて、普段は素通りする商店街や、顔なじみすぎて滅多に写真を撮らない友人をたくさん写した。祖父が遺してくれた、世界の見方を変える装置。重くて手が掛かる難しい機械だと思っていたカメラが、遊びの道具に見えてきた。
3週間が経ち、カメラ屋から電話が入った。かなり昔の、今ではあまり使われていないもので、現像にも時間がかかると言われたあのフィルムは、おそらく祖父が撮ったもので間違いないだろう。
カメラ屋に着くと店員が2つの封筒を持ってきた。まず私が撮影した方のカラー写真。さっと確認をして、もう片方の封筒を開こうとすると、店員が申し訳なさそうな様子で「劣化によるものか、もともとこうだったのかは分からないんですが…」という。
封筒から出てきたフィルムは、見事に真っ白だった。