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若者のすべてについて


『若者のすべて』と聞くと、恐らくフジファブリックの方を思い浮かべる人の方が多いだろう。フジファブリックの『若者のすべて』は言う迄も無く名曲中の名曲で、歌詞に「あなた」というワードが一切出ず、ボンヤリとした、曖昧な、正体不明の寂しさを上手いこと表現している。

ハヌマーンの『若者のすべて』はと言うと、どんどんと進んでいく周りの人たちと比べ、どこか自分が取り残されているような、そんな誰もが抱いたことのある感情を上手く表現している。こちらも名曲であることは間違いないので、その歌詞を見ていきたい。

青年と走る鉄塊は交叉して 赤黒い物体と駅のホーム
復興を告げる放送を聴きながら その光景を持って身震いする

延着の紙面を請うて、長い列 零コンマ数秒で片付く命
『御足労様です』と嘲笑して 青年に俯瞰されている気がした

冒頭で青年、電車にアタック。
語り手は、インフラ回復を待ちつつ、死(死体)に対して恐怖を覚える。
青年の死は、遅延の影響を受けた一人一人については駅員から延着証明書を貰う一瞬で全て片付けられているように感じるが、語り手は、延着証明書が必要な人達(=生前の青年と同じ立場)が行列で迷惑している様子を、青年が嘲笑って空から眺めているような感覚に陥る。
死への恐怖を感じる語り手(その他大多数)と、死への恐怖を克服した青年の、リビドーとデスドルドーが対比して表現されている。
(歌詞カードは復興だが、復旧ではないのだろうか)

それでも明日は何度も執拗に俺を呼ぶのだ
随分と長い間待たせたその侘びに
理想でも土産に持って行こうかい

こんなこと(ある程度日常茶飯事だが)があっても、今生きている語り手には特段来てほしくもない明日がやってくる。
絶対的強者である時間が相手では、明日を待たせることはできないため、「随分と長い間待たせた」とは語り手の小さな抵抗であり、強がりだ。その明日に、少しでも理想を掲げて乗り込んでやろうという語り手の虚勢。「待たせたな」と弱い敵が主人公に対して吐くような、そんな台詞だろうか。

考え過ぎて馬鹿になって 発狂しすぎて普通になっていく
that's killed me 歌うとは失望の望を怒鳴る事さ

that's(=that has) killed meの訳はどうだろうか。ハヌマーンで英語の歌詞が入っていることは珍しい。直訳すれば「あれが俺を殺した」だが、it's killing meみたいに「やめてくれ」ぐらいの訳で概ね間違っていない気がする。その他に意味があったり、空耳的な解釈があるのかもしれないが…。

考えすぎたり、発狂しすぎたり、そんなのは歌じゃない。歌うとは、自分が時間に取り残されて失望させた、裏切ってしまった、かつて相手が自分に対して持ってくれていた期待(望=失望の逆)に応えるものだろう。
この『かつての期待』とは親からの期待だろうか。

思い出すのはあの人の事 ふと夜空を見上げたら
月の砂塵が目に入って涙が一筋

語り手は「あの人」を思い出す。
ここで言う「あの人」とは語り手には分かるが、読み手には分からない。かつて好きだった人か、或いは歌詞には出てこない父か。
月の砂塵というあり得ないものが目に入る。
この涙は「無感動な涙」ではなく、純粋な感情から溢れたものだという遠回しの言い方だろう。

お母さんが笑った顔 お姉ちゃんが弾くピアノ
月の砂塵が目に入って涙が一筋

山田亮一氏には姉と母がおり、お姉ちゃん子だったと発言されている。お姉ちゃんがピアノを習っていたから、離れたくなくて同じピアノ教室に行った程だそうだ。明確に父が登場しないのは、かつてバズマザーズのライブのMCで語っていた『レインマン』で描かれている理由からだろう。

結局捨てれんかった恥やら外聞も
人間だもんね しょーがないさ

語り手は大きな理想を持って明日に向かったが、恥も外聞も結局捨てきれなかった。
でもそれが人間だ。聖人君子等居るわけがない。

時間は過ぎてく
その現実に眼球を何時まで逸らすつもりか
逢えない誰かを想うとは失念の念を贈る事さ
心で歌うな 喉で歌え
オンボロになって初めて見える価値
that's killed me 歌うのだ 失望の望を怒鳴るのだ!!
ぎゃー

明日を待たせる等と時間を自由にできるようなことを宣っていた語り手も、非現実的だと理解している。時間の経過は誰にも平等だが不平等だ。

逢いたくても逢えない誰かを想うのは、その人に忘れてないよ(失念=ど忘れなので、その逆の意、覚えていることと解釈できる)と伝えることだ。気持ちを込めて歌うことで満足してるんじゃない、声を枯らすほどにずっと歌い続けろ、そうやってボロボロになって始めて見えてくる大切なものがある。歌え。失望される前の希望を、喉で怒鳴れ。

ぎゃー。この部分の山田亮一氏の声は文字通り喉で歌っている。バズマザーズの『吃音症』という曲に『何の為声は枯れてきた』という歌詞が出てくる。この曲では『また言葉に詰まる 伝えたい言葉など詰まるほどないのに』と歌われている。『若者のすべて』ではこんなにも熱くオンボロになっても歌えと表現されているのに、『吃音症』では一体何の為に声を枯らしたのかと自問自答する悲しい歌になっている。ハヌマーンからバズマザーズに至る山田亮一氏の心境の変化は如何ほどだったのだろうか。始めて見える価値(勝ち)はあっただろうか。

そして音楽はイントロに戻る。
語り手の明日はまた今日と同じように繰り返されていくのだろう。

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