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人の悪意と冷たい戦争

 ある女子高生のなんてことない話。


 イジメっていうのは字面が良くない。意地悪するからいじめという名前にしたのだろうが。やわらかい字面がリアルの悲惨さを隠してしまっているようで嫌いだ。
 気持ちの悪いびしょびしょの服、髪から滴り落ちる水滴が太ももに。下品な笑い声が外から聞こえてくる。胸が痛む。薄暗いトイレの中でじっと悪意が過ぎ去るのを待つ。遠のく足音と消される証明。うすぼんやりと窓から光が差す。

 なんて妄想をしてしまう。こんな悲劇のヒロインのようにわかりやすかったらどれほどいいだろうか。現実はもっと陰惨だ。雪が降る早朝、白を吐き出して下を向きながら通学路を歩く。

 別に直接的に何かされているわけではない。ただただ、ひたすらにみんなから無視されるのだ。話しかけても、頼んでも、何をしても無視ばかり。今まではなしていた友人も苦虫をかみつぶしたような顔をしてそそくさと去っていってしまう。表立った悪口もないし、特になにかものを隠されたり、机に落書きをされているわけでもない。ただただ、態度で冷たく私を殺してくるのだ。冷たい戦争という言葉を思い出す。言いえて妙だと思う。いじめの代わりの名前にしたっていいと思う。冷戦と違うところがあるとすれば、自殺のほかに死はないということだ。ただただ、殺されるように毎日を生きるしかない。

 こんなことに巻き込まれているのは私の人間性のせいだと思い込んでしまいたくなる。とてもまともではいられない。先ほどの妄想のような真っ黒なイジメであれば私は苦難に耐え忍ぶヒーローになれただろう。でも、今の世の中、わかりやすいブラックもホワイトもない。みんながみんな自分を正しいと思っているカフェオレヒーローみたいなやつしかいない。どの立場に立つかで悪かどうかなんて簡単に入れ替わる。

 私は人の悪意に触れたことはそれまでなかった。人間関係で悩み時にはけんかもした。ただ、悪意というものを経験して言葉上の悪意とは全く違う錆びた現実であった。

 歩道橋の階段を上る足取りが重くなっていく。

 あれにさらされたとき、私は腹の底が冷たくなるのを感じる。身動きが取れなくなって脳が現状を拒むようにシャッターが下りる。悪意が過ぎ去るのであれば問題はなかった。悲しいのは冷たい悪意が日常の中に織り込まれていることだ。常にシャッターがおりて自分でなくなるようなそんな感覚。

 ふと家に帰って一人でいるとふつふつと脳が沸き上がる。そうか私は怒っているんだと今更気づく。あれはひどいことなのだと今更気づく。私は感情が後から遅れてやってきてしまう。そして脳内で何度も反芻して苦しむ。意気地なし。一回くらいやり返してみろよと自己嫌悪に陥る。

 客観視は得意な方だ。親の顔色を窺って生きてきたから。人間関係でミスをすればじゃあ次はこうしよう、ここが悪かったなと分析できる。
 でも冷たい戦争には反省の余地がない。たどり着く結論はいつも「単純に私が合わないという理由だけで嫌われている。」というだけ。大義名分もその冷たい戦争にはありはしない。大した理由がないからこそ、そんな扱いを受ける私に価値を見いだせなくなる。SNS上のイジメもこんな感じだろうか。
 悲しいくらいなんてことない赤い上靴を履いて戦地に赴く。

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