60グラムの虚しさ
4月、42歳の誕生日から8日後、私は子宮と卵巣を摘出した。卵巣癌だった。
卵巣と子宮、合わせて60グラム程度の臓器が私の中から無くなった。
その役目を果たすことなく、静かに死んでいったその小さな臓器の行方はわからない。
時々、私は思う。癌に蝕まれた右の卵巣のことを。セットで取り除かれた片方の卵巣のことを。ゴルフボール大の筋腫たちを。一度も命を生み出さないまま消えていった子宮を。それはどこかの研究室の棚の奥で、ホルマリン漬けにされて、時々医学生の目に晒されたりしているのだろうか。それとも魚の臓器みたいに、ぽいっと捨てられ、焼かれ、灰になったのだろうか。いずれにしても、それはもう私の中には存在しない。大人になったら結婚して、子供を産み育てる。そんな人生がやってくることはなかった。だけど、ふとした時にこみあげる、60グラム分の虚しさ。今世で出会うことができなかった我が子。どんな子だったろうか。どんなお顔で、どんな風に笑い、どんな風に泣いただろうか。想像してみるが、輪郭はいつもぼやけたまま。そしていつもの所に着地する。
我に返り、季節は夏。抗がん剤で髪の毛と眉毛が抜けた、青白い私がいる。
5月、私は長い髪の毛を失くした。抗がん剤は容赦なく私の細胞を殺し、体のありとあらゆる毛が抜け落ちていった。私の子宮と卵巣よりも重い100グラム分の毛髪。だけど私を襲ったのは測り知れないほどの大きな大きな悲しみだった。100グラム分の悲しみは、毎日何倍にも膨らんだ。軽くなるはずだったのに、ひとつも軽くならない。それどころか、それは大きな大きな黒いものとなって、私を飲み込もうとしていた。私はそれに必死で抗った。そして私のそばにはいつだって家族がいた。家族は私を飲み込もうとする闇から救い出した。毎日毎日そんな戦いが続いた。
8月、抗がん剤治療もいよいよ終盤、私の体から少しずつヘモグロビンが減っていった。手のしびれが感覚を奪い、筋肉をなくした脚は、生まれたての小鹿のように頼りない。鏡を見るとそこには亡くなった父の姿によく似た私がいる。かつて髪の毛があった自分を思い出すこともできない。この数ヶ月、見慣れたはずの姿を今は直視できなくなっている。弱い私、健康を失くした私、なにもできない私に、わたしは悲しくなる。わずかに残ったまつ毛は涙をためる事ができず、何をしていてもぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。ソファに沈む体は重く、なくしたものたちの隙間はすでに何かで埋まっている。浮腫んで丸くなった手でパソコンを打っていると、また涙がぽろりとこぼれた。
10月、それはまだ見ぬ未来。
治療を終えた私がいる。
髪の毛が少しずつ生えてきて、喜びの涙を流す私がいる。
体力が回復して、しっかりとした足取りで歩く私がいる。
160グラム分の虚しさと悲しみを思い出の箱にそっとしまいこむと、
まだ空っぽの未来の箱を眺めながら、つめこむ準備をしている私がいる。
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