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愛はどこで学ぶのでしょう

自分が感じている気持ちが“愛”なのかって、どうやって判断するんだろう。そもそも“愛”はどこで学ぶんだろう?

大好きな女の子の好きな男になりきり、自分の名前すら捨て去った10年間。
彼女のあとをつけて、こっそり写真を撮る。彼女と同じ時間に同じ食べものを食べる。向かい合うアパートの一室に身を潜め、決して、彼女にその存在をバレることもなく暮らしてきた。(『君が君で君だ』公式サイトより)

映画『君が君で君だ』を観て、愛ってなんだっけ?と迷走していたいつかの自分を思い出してしまった。


思い出すと本当に、穴があったら入りたい気持ちになるのだけど、わたしはいわゆるストーカー的な恋をする女だった。遡ると子どものころから、まともに話したこともない人を好きになれた。初恋は『おかあさんといっしょ』の体操のお兄さんで、覚えたての字でラブレターを書いた。

小学生のころは好きな人への気持ちが爆発しすぎて、母は授業参観の日、ほかの子のお母さんから「ちひろちゃんはKくんのこと大好きだね」と言われてものすごく恥ずかしい思いをしたらしい。

同じ男の子に3回告白したこともある。のめり込むと周りが見えなくなるのと、あまりあるエネルギーを発散する方法がわからなくて、なんだかいつも暴走してしまうのだ。当時の日記を読むと寒気がするので、引っ越しをきっかけに捨ててしまった。友達も、もちろん相手の男の子も、完全に引いてたよなあ、と思う。わーひゃー


なにが“相手のため”なのか、そもそも“好き”って何なのか、だれも教えてくれない。相手のことばを100%信用するのも無理だし、他人の心を透視するのだって無理だ。いろんな人と出会って、ことばを尽くして、その中で生まれる化学反応をひとつずつ経験して、なんとなくこうかな?を知っていくしかない。

だけど、化学反応すら起きなかった場合の関係性を何と呼ぶのか、少なくともわたしはわからない。それも“愛”と呼べることがあるのか、わからない。

だからわたしは、10年間も尾崎豊になりきった彼を笑えないのだ。


自分でなんとなく“愛”だと思っているもの。だれかが“愛”だと思っているもの”。全部少しずつ形が違って、関係性は人の数だけあって、このまま死ぬまで答え合わせをする術がない。すごいなあ。愛、むずかしいなあ。

映画、すごくおもしろかったです。

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Chihiro Bekkuya
あしたもいい日になりますように!