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それはコーヒーか、黒い汁か。

先月、実家に帰省したときに義姉に連れて行ってもらったコーヒー屋さん。

以前もらったコーヒー豆が美味しくって、お願いして連れて行ってもらった。

そのコーヒー屋さん、注文するとその場で焙煎からしてくれて
その焙煎を待つ間にコーヒーを淹れて出してくれる。

で、その場でコーヒーの淹れ方を実演してもらったんだけど

衝撃。

今までハンドドリップっぽいことをしてたつもりだけど
そうえいば何の知識も経験もなく
なんとなくこんな感じだろ、のノリで淹れてきたやり方。

全然違う。

何なら、こうしたら美味しいコーヒーがはいる、
の全部逆だったと言っても過言ではないくらい、違う。

帰宅して、
今までとまるで違う心持ちで
コーヒードリッパー出してきて、器具と器を温め
秤に乗せて豆を量り、お湯量も量りながら豆を蒸らし、
丁寧に丁寧に淹れてみたら

美味しい。

コーヒーだ。

そして、気付いた。
今まで私が淹れてたのは黒い汁。
コーヒーじゃ、ない。

黒い汁だからそれに思い入れもなくて、
だからスイーツのお供でしかなくて、
というか横にスイーツ必須で
何なら新聞読むついでに喉を湿らせるものでしかなくて
だから日になんとなく2杯とか、それも大きなマグカップでたっぷり飲んでて。

いや、その飲み方も好みなんだろうけど

でも、丁寧に豆の量や淹れ方まで気を遣って淹れたコーヒーは
それだけでも満足できるし、お供は必要なくって
ながらでなく、コーヒーカップに向き合いたくなるもの。

そして、その1杯のために少し時間と気持ちのゆとりを持とうと思うもの。
一日のうち、とても+αな時間に合うものだから
日に一度、何なら2日に一度でもいい。

となったから、日に2回は飲んでたコーヒーの量が、最近ぐっと減った。
前の半分以下になった。

不思議だね、美味しさを知ったら逆に欲しくなくなった。

同じ豆からできる、
同じように淹れられるもののようで

コーヒーか、
黒い汁か。

大きく違う。

きっと、これってほかのことにも通じるんだろうな。

同じようなものでも、
いや同じものでも質のちがうものは世の中に溢れてて

身に付けるものだけでなく、
サービスなんかもそう。

本当に必要なものを、少し丁寧に、
そしてちゃんと向き合って受け取るようにすると
余計なものは削ぎ落されていく。

小さなコーヒー屋さんの、本当に短いコーヒーの淹れ方講座から得たこと。

長年のコーヒーへの依存からの解放と、
ちょっとした手間や丁寧さが、いかに気持ちを豊かにしてくれるか、ということ。

身近なもの、
身近なものだからこそ、
それを変える、というか改めること。

コーヒードリッパーを秤に乗せる、
今まで「無駄」と思ってたことは、本当はとても大切なことだった。

前よりちょっとコーヒーが美味しく淹れられるようになった。
小さいようで、
そんな風に丁寧にできる自分が愛おしいなあ、と思える。

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