アマチュア哲学を語らう夜に向けての往復書簡 第二便 阿部→柿内
町でいちばんの素人 柿内さま
往復書簡を提案しておきつつ、初便を柿内さんにお願いしてしまいました。ご無礼をお許しください。とはいえ、想像以上に良い文章を書いていただき、大変嬉しく思っています。おかげさまで書きたいことがたくさん出てきたので、私も肩肘張らずにのんびり書いていきます。
柿内さんとは実はまだ2度しかお会いしていないわけですが、初めてお会いしたときに感じたのは、逆になんで今まで知り合いじゃなかったのか?でした。読んでいる本や関心が非常に近く、共通の知人などもいて、えらく不思議に思ったものです。偶然遭遇するにしてはあまりに出来すぎているような。
現在AM9:00、北陸新幹線車内でこの文章を書き始めています。長野駅を出て少し経ったところ、向かうは東京です。今回のイベントに関係してきそうですので、なぜ平日のこんな時間から新幹線に乗っているのか、このあたりの事情説明から始めさせてください。
長野に野沢温泉村という村があります。長野オリンピックの会場にもなった、日本でも有数のゲレンデがある場所です。「野沢菜」という野菜のお漬物でも有名ですね。イベントのときにお土産で少し持っていこうかな。
1月13日から15日まで、そんな野沢温泉村に行っておりました。お祭りのフィールドワークのためです(お祭りの本番は15日なのですが、授業のため泣く泣く新幹線で帰宅しています)。
野沢温泉では毎年「道祖神祭り」という大規模な火祭りが執り行われます。日本有数の火祭りでして、詳細は動画など調べてもらうと出てくると思うのですが、村民たちが火のついた松明を持って25歳の厄年の男を叩くという荒々しいお祭りです。迫力満点なので、このnoteをお読みの方もぜひいつか生で見てください。タイミングが合えば色々ご案内できるので、お気軽にお声掛けいただければ。
ここ10年くらい、認知科学の研究チームで、この野沢温泉道祖神祭りをフィールドワークしています。しかし、実は、我々の関心はお祭り自体にあるわけではありません(もちろん1年の集大成として楽しみにはしているのですが)。我々は、このお祭りを、村人たちがどのように準備しているのかを研究をしています。道祖神祭りでは、社殿と呼ばれる立派な台を作成します(下図)。その社殿上に厄年の男が乗り、村人たちがそこへ火をつけにいく(25歳は社殿を守る)という祭りなのですが、この社殿は厄年である42歳の男たちが中心になって作成します。
突然ですがみなさん、この社殿作れますか? たぶん私は無理です。いくつか理由はあって、このあたりも細かく考えると面白いと思うのですが、とりあえずは「作り方を知らない」が答えになるでしょうか。ただ、上でも書いた通り、この社殿は厄年の男たちが作成します。ここからわかるのは、「毎年作り手が変わる」という事実です。無論、昨年の経験者や保存会と呼ばれる熟練者がお手伝いするわけですが、主役は厄年の男たちです。彼らは1年前にお手伝いした経験のみで、社殿を組み上げていく必要があります。いや、社殿だけでなく、お祭り全体を統括する必要があるといったほうが正しいか。とにかく、厄年の男たちは社殿作りに熟練したお祭りの「専門家」ではないのです。今回のイベントでいうなら、彼らはお祭りの「アマチュア」である、といってもいいかもしれません。そんな彼らがどのように社殿を準備するのか。これが我々の問いの一つです。
さて、問いの答えは我々の書いた論文などを読んでもらうとして(今年きっと本が出るはず)、アマチュアのほうに話を戻しましょう。
柿内さんの第一便で、私の論文について触れていただきました(読んでいただきありがとうございます!)。また、恥じらいの話、大変興味深く思いました。というのも、この恥じらいのようなもの、祭りの準備でもたまに見られるからです。祭りは道祖神場というところで行われるのですが、準備中にご家族が様子を見に来ることがあります。彼らはそんなとき、はにかんだような笑顔を見せるんです。家族や子どもたちからしたら「いつものお父さんと違う!」って感じでしょうか。
彼らは道祖神場では「準備者」として存在しているわけですが、関わる他者との関係次第では「家族」になる。こうしたカテゴリーの二重化が、ある種の恥じらいを生むのでしょう。いつも家ではぐうたらしている子どもが、授業参観のときに見せる真面目な顔とその気恥ずかしさにも似ているのかもしれません。
※実はこのトピック、私が修士論文のときに取り組んでいたトピック(大学生の同窓会)に似ていて、その点でも興味を惹かれているのですが、長くなりそうなのでまたそのうち。
虫屋研究でも同じような現象があります。それほ、他ならぬ私に関するもので、私はやはりまだ自分を「虫屋」とカテゴライズすることに抵抗があります。たった3年、しかも研究という邪な動機で虫を採り始めた私なんかが虫屋と名乗るのは、ガチ勢の方に笑われるんじゃないかという恐怖がある。研究柄、昆虫学関係の人の前でもお話させてもらう機会が出てきたのですが、「自分でも虫屋やっています」なんていいつつ、いつも冷や汗かいてます。
思うに、これらはある種のアマチュア的な恥じらいなのではないでしょうか。明確な専門家であればどうだろう。例えばプロサッカー選手は、家族が試合を見に来たとき、上に書いたような恥じらいを感じるのだろうか。普通に感じそうな気もしつつ、やはりアマチュアのそれとは違う気もします。
実は、「阿部/安倍/あべ」問題もここに関連します。いつも学術バーQやHANABIでイベントをやるときは「あべ」と名乗ることが多いです。これは、自分の名前を正式に名乗ることが、専門家としてなにかを語ることになりそうな気がしているからなんです。つまり、これもある種の恥じらいなんですね。
アマチュアにとって、恥じらいは一つ大きな問題になるのかもしれません。
さて、その他にも、言語コミュニケーションについてや資本主義、それらと自由の関係についてなんかも無限に書きたいことはあるのですが、さすがに1通のお手紙に詰め込むのは難しそうです。ちなみに、「会社員の哲学」、購入させてもらいました。不真面目な私はまだ読み終えていないのですが、ここまででも膝を打つ箇所がたくさんあり、このあとも楽しみです。個人的には、資本や構造の中に(こそ)ある自由の問題は昔から関心があって、このあたりぜひいろいろお話させてもらいたい次第です。
とりとめのない文章でお返事なっているか不安ですが、柿内さんならなんか打ち返してくるだろうという希望のもと、筆を置きます。
アマチュア虫屋未満 阿部