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東日本大震災 3・11


今回は全く美容に関係ない話になります。
『東日本大震災』からちょうど10年が経つと言うことで震災について
私が経験した事を書いてみようと思います。(個人的な話になります)

宮城県石巻市

私が生まれ育ったゆかりの町であり、東日本大震災で1番被害が酷かった
町でもあります。福島県1614人、岩手県4675人、宮城県9543人と死者数
が東日本の中でも圧倒的です。宮城の行方不明者数は未だに1215人もいます。
石巻市釜谷地区の大川小学校は、3月11日の東日本大震災で全校児童108人の7割に当たる74人が死亡、行方不明となった事でも有名になりました。

2011年3月11日 14時46分

忘れもしない震災当日。当時私は中学2年生で卒業式の会場準備中でした。
1年生と3年生は先に下校し中学2年生だけ残され予行練習をしていました。
私は中二病真っ只中で会場準備の点呼が終わったので途中で抜け出し下校する直前で大地震にあいました。近くの電柱や家がこんにゃくの様に揺れ終いには目の前でバタバタと音をたてながらドミノの様に倒れていったのを今でも覚えています。電柱が倒れるなんていつもの地震と規模が違うと思ってる最中、凄い勢いでサイレンがなりその後、前方から車の軍隊がクラクションの音を鳴らしながら凄い勢いで近づいて来るのが見え怖くなり全力で走ってる最中に津波にのまれました。けれど、私は運よく近くにあった車に上り津波の水量も激しくなる手前だったので危機一髪タイミングよく学校の屋上に逃げ込む事ができました。

通ってる中学校で一泊

電気、水道、ガス全てのライフラインが使えず真っ暗の中、知らない生徒のジャージに着替え1人一枚毛布が配られ、カンパンをみんなで回し食べ、甘いクッキー4枚をお水で流しこんで硬くて冷たい地面に腰掛けました。
何度も余震とサイレンの音が夜中になり不安で泣き出す生徒も沢山いて一睡もできないまま日の出を迎えました。教室に灯りが入り屋上から下を見ると先生達の車が誰かの家の屋根と一緒にぷかぷか浮いていて津波が引かないと学校から出れない缶詰状態でした。

自衛隊とカヌー

朝ご飯にまた乾パンと甘いクッキーが配られ水で流しこんで先生達が点呼をとって何時間かたった頃、自衛隊がカヌーで救助しにやってきてくれると連絡がありました。やっと家に帰れると安心しました。自衛隊の方と学校の窓からカヌーに乗り毎日登下校してる道を進むと今までの景色が嘘だったみたいに残酷で酷い状況を目の当たりしそこで初めて今置かれてる状況を理解しました。

学校から避難所指定の学校へ

まだまだ家に帰れる訳もなく、指定されている避難所への移動でした。
指定されてる避難所につくなり同級生しかいない場所から、大人から子供までいろんな人が集まっている環境に移りました。避難してる人数も何倍にもなり家族を失った方の叫きやパニック状態の方も沢山いて津波被害の規模の大きさを子供ながら理解したのを覚えています。さっきまで仕切っていた先生達が避難所の運営に周り食事も乾パンから小さめの白米おにぎりに変わり知らない大人の指示に従いながら一夜を過ごしました。

母親の迎え

避難してくる人がどんどん増え周りの被害の声が大きくなり自分の不安も募り始めた頃、ラジオで避難している学校の情報が流れ始めました。すると同級生の友達がどんどん親の迎えでいなくなっていきました。私の母親も迎えにきてくれて震災から3日?4日後に初めて母親に再会し母の顔を見てほっとしたのを覚えています。

そこから母親と不安になりながらも兄弟を探しに避難所から避難所へと回りました。そのうちに兄弟にも会えて私の家族は誰も失っていない事に心から感謝しました。

震災後の治安の悪さ

やっと家族が揃い、住んでる地区の指定された避難所に移動して馴れ始めた頃。避難所付近ではペットボトルの水が1本1000円で売り始め、ガソリンを入れるのに一日かかり、食料がある場所には強盗が入り、車の窓ガラスは割られガソリンが抜かれるのが当たり前、自動販売機は壊され中身が空っぽ、夜中になると強盗や犯罪が増え外に出る時は武器を持つのが当たり前になりました。

切迫した人間が溢れ、防犯カメラがなく、警察官がいなくなった町は海外ドラマでよく見る外国のスラム街より酷い光景でした。

共同生活のストレス

避難所生活から1ヶ月が過ぎ、そのあたりから避難所での知らない何世帯の人との共同生活にどんどんストレスを感じ始め限界がきました。

それは私だけじゃなく皆同じでした。私の家族と知らない家族の仕切りなんて床にひいたダンボールくらいでプライバシーも何もない状態でした。

精神的にも安定してない方がほとんどだったので喧嘩や言い争いが増え、毎日一回は問題がありアナウンスが流れました。

お風呂には何日も入れず、冷たい水で手や顔を洗いタオルで毎日身体を拭きました。トイレと手洗い場は毎日並びました。

1番酷かったのはトイレです。避難してる人数を考えたら仕方ないですが、水が止まった水洗トイレは本当に最悪です。昔主流だった非水洗トイレの素晴らしさを実感した日でもあります。


恵まれた環境

がれきが避けられ車の通れる場所が少しずつでき始めた頃、母親の兄弟を探すのに今の場所からもう少し海沿いの地域の避難所巡りをする事になりました。

避難所を回って分かった事は自分がとても恵まれた環境だった事です。海沿いは津波がひくのが遅く救助がいけないので何日もご飯も食べれず山の上で過ごした人が沢山いました。  

津波から助かったのにもかかわらず低体温症で亡くなった方の多さにびっくりしました。着るものも食べ物も与えられ建物の中で過ごせた私の環境は恵まれていたんだと知りました。

津波の恐ろしさ

海沿いの被害は同じ宮城でも天と地の差がありました。避難所の環境でさえも整っていなく避難所からは人が溢れかえり助けを求めて避難しに行っても断られるという状況でした。

周りを見てもスーパーやコンビニ、家、昔の面影ひとつないがれきの山ばかりで、流されてきた大っきい漁船が道の真ん中を妨げていました。

がれきの山の中にはブルーシートが至る所に点々とあり上には✖️と書かれていました。すれ違う人は笑顔ひとつなく足を引きずったり怪我をしていたりと負傷者が沢山いて戦争ってこんな感じだったのかなと思いました。

遺体安置所

何回も避難所に顔を出しても母親の兄弟は見つからずだんだん母の顔も曇り始め、不安が募り、何日かたった頃に母が決心を決め遺体安置所に行く事になりました。

私も一緒に付いて行きましたが今振り返れば避難所に残ればよかったと後悔しています。

遺体安置所につくなり、もう外からでも隠しきれない激臭がしたのを忘れません。母親からは車で待っててねと言われ車の窓から入り口をずっと見ていました。

車から見えた遺体安置所の中の景色は、がれきの山で見た✖️のついたブルーシートが沢山並べてありました。

そこで初めてあれが全て遺体だったんだと理解しました。母が車に戻り私に『おばちゃん遺体で見つかったよ』と言ってきました。泣きながら帰り道を運転をする母の顔は本当に辛そうで可哀想で見れなかったです。

震災で得たもの

その後、遺体安置所に何度も通い母の兄弟の遺体が続々と見つかりました。
未だに遺体が見つからない親戚もいますが、母からは遺体さえも見つからない方、バラバラで原型さえもとどめられず身元が分からない死体も沢山あったと聞かされました。

10年が経ち今こうやってnoteを書きながら振り返ると本当滅多に経験できない貴重な時間だったなと思います。私は運よく自分の家族が無事だったので震災経験に感謝ができるのかも知れませんが、当たり前の日常の当たり前に危機感を感じることができ、普通の日常に感謝できるようになったと思います。

今思えば震災の経験がバネになりその後どんな困難でも簡単に乗り越えられたんだと思います。多分この先、震災ほど酷い経験は滅多にないと思うので私は無敵です。

私のように東日本大震災を経験した方には失ったものだけに目を向けず、震災で得たものにしっかりと目をむけ、その貴重な経験を今後の自分の人生の糧にして欲しいです。

震災からちょうど10年という節目の年に地元に帰省できました。追悼式に参加し
分かった事は10年経っても尚、復興支援してくださるいろんな企業さんが沢山いらっしゃる事です。東京に居ても地元の話をすると支援したよって言ってくださる方にも沢山会ってきました。その度に、いろんな人に支えられているんだなと実感してます。感謝と有難い気持ちでいっぱいです。復興支援してくださったいろんな方々にこのnoteを通して思いが届けばと思います。



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