英訳者を悩ませる「状態」という魔物
こんにちは!特許翻訳者の内田と申します。
引き続き、先日から取り上げさせて頂いている特許明細書の抜粋翻訳に関するテーマについて、ご紹介させていただきます。
過去の記事3件については下記リンクからどうぞ。
念のため抜粋と英訳を下記に再掲しておきます。
(原典抜粋A)
(英訳A´)
「パーキングロック状態において」をなぜ"While the parking pawl 40 is locked"と訳したかという点についてご質問を頂いたので、今日はそのお話をしたいと思います。
なぜそのような訳をしたかというと、大きく分けて次の3つの理由があります。
(1)機械翻訳と人間翻訳の違いに関するアンケートを取る目的のために、導入部を少しでも特許業界外の読者にもわかりやすくしたかった。
(2)今回、翻訳者である私が、明細書をざっと読んで「パーキングロック状態」の定義の有無を確認せず抜粋部分のみを翻訳した。
(3)「状態」の訳し方について問題提起をしたかったため。実は今回のアンケートも、この「状態」をどう訳すべきかということについて問題提起したかった。
じつはこの3点はとても重要だと思っているので、一つずつお話をさせていただきたいと思います。長くなりますので、ご興味のある部分だけでも読んでいただけると幸いです。
1. 翻訳文の対象読者と目的
今回、アンケートを取るにあたって、私は少しでも多くの方に回答していただきたい、また、もし可能であれば英語ネイティブにも回答いただきたいと考えました。したがって一般の方にとって敷居の高い特許明細書に少しでも興味を持っていただきたいという希望がありました。それが導入部をかみ砕いた翻訳にしたという理由の一つ目です。
一応念のためにお伝えしておくと、このnoteの記事をシェアしている私のtwitterのフォロワーさんには、特許翻訳者や弁理士の方はもちろん、製造業の方、文学に関わっている方、アメリカのNFTアーティストや社会学の教授、アイルランドの詩人さん、学生さん、哲学に興味のある方、数学者、等々色々な方がいらっしゃいます。
もしその中のお一人でも「一体このウチダというヤツは何をやっているんだろう?」と興味を持ってnoteを開いて下さったとして「全然意味がわからない」という疎外感を味わってほしくないな、という思いがチラッと頭を過りました。(もちろん、複数の方が「自分の専門ではないからわからない」とフィードバックくださいました。(それはそれで、やはり難解なのだなと自省するきっかけとなりましたので感謝しております。)
そして今回は仕事で翻訳をしたわけではなく、機械翻訳と人間の翻訳を比較するということが目的だったので多少過剰に意訳をしてみようと考えたのです。
従っていきなり導入部から登場する専門用語「パーキングロック状態」を"parking pawl"という語を使用して訳すことで(コピペしでググれば英語のWikipediaの解説が出ることを確認済)、読まれた方が最低限この自動車部品について話していることがわかるだろうという判断をし、このような翻訳をしたのです。
(なお、日本語の「パーキングロック」はネット検索をしていただければわかると思いますが、複数の意味に解釈が可能です。)
2. 用語の定義の有無
次に特許翻訳の世界に視点を移します。そうすると訳語を決めるにあたってとても重要になのは用語の定義の有無です。
今回私はアンケート用にざっと翻訳をし、Twitterに記事のリンクをアップしたあとに原典の明細書を精査し、「パーキングロック状態」の定義があることを知りました。そして特許翻訳としてはやはり片手落ちだったかもしれないと反省しました。しかし文書の一部だけ読んで翻訳するとこのような問題が生じるという好例になったのではないかと思います。特に機械翻訳の場合、用語定義があったとしてもそれを探し出し、定義に従って翻訳することができないため、このような問題を常に意識しておく必要がありそうです。
因みに特許翻訳の場合、明細書内に用語の定義がなければその語句は英語圏の当業者にとって理解可能な一般的な表現で訳す必要があるため、定義の有無を確認することはとても重要です。
当該明細書の中にあった「パーキングロック状態」のは下記の通りです。
(なお、本件は自動車に関連した技術で、車のトランスミッションのシフトレバーを「P」レンジに入れたときに車輪をロックして回転しないようにする「パーキングロック機構」に関するものです。「パーキングロック機構」は、「パーキングポール」という凸部を持つ部品を「パーキングギヤ」という歯車に嚙合わせることで車輪が回転しないよう保持します。最初からこの説明を書いておけばよかったと反省・・・)
(原典抜粋B)
従って、通常の仕事の特許翻訳であれば、「パーキングロック状態」という名詞に対して何らかの訳語を当て、その訳語を明細書全体を通じて使用すべきだということになります。今回アンケートを取った際に、翻訳者の多くの方が「DeepLの訳が良い」と答えていたのはこのあたりの事情があってのことかもしれません。
3. 「状態」をどう英訳するか
では、「パーキングロック状態」をどう訳すかという問題になりますが、「状態」という言葉が入っているので非常に訳しづらかったのですが、上に転載した抜粋Bを試しに英訳してみました。
(英訳B´)
なぜ訳しにくいかというと、以前知財実務オンラインでもお話させていただいたのですが、「状態」と日本語である場合はたいてい「構造描写と動作描写がごちゃまぜになっている」からなのです。
3.1 「パーキングロック状態」の定義
本件の発明である「車両用パーキングロック機構」は、(a)パーキングギヤ、(b)パーキングポール、(c)ロック部材、(d)ガイド部という4つの構成要素からなっています。
そして上の原典抜粋Bには、(a)パーキングギヤ、(b)パーキングポール、(c)ロック部材、そしてカム機構に関する言及があります。
原典抜粋Bを整理すると、
① ロック部材はロック位置とロック解除位置という二つの位置を往復移動する。
② ロック部材はロック解除位置からロック位置に移動する際に、カム機構を介してパーキングポールをパーキングギヤ側に移動させる。
③ ロック部材がロック位置に到達すると、パーキングポールがパーキングギヤをロックし、パーキングギヤが回転しないようになる。
この説明から、動作を取り除くとどうなるでしょうか。
つまり動作の結果だけを抜き出せばよいので、「パーキングロック状態」とは「ロック部材がロック位置にあり、かつパーキングポールがパーキングギヤと嚙み合った状態」となります。
3.2 「状態」とは何なのか
上の説明からわかる通り、日本語で「状態」という言葉は、動きや変化を前提とした対象物が、一時的に静止しているさまを描写したり、または静止しているが如くその対象物を描写するときに用います。
さてこの「状態」を和英辞典で引くと、"state", "condition"という単語が出てきます。これらの用語がこの文脈で妥当なのかということを改めて考えてみていただきたいのです。("status"も出てくることがありますが、明らかにここの文脈では不適切なので、今回は議論の対象外とします。)
いくつか英英辞書を引いてその意味をまとめると次のようになります。
3.2.1 condition (n.)
人が行為する際の前提条件・制約、契約を履行するための条件・状況、人の体調や気質、暮らし向き、職場環境
野球の大谷選手の「コンディション」によってその日のパフォーマンスは大きく異なってきます。天気の状態(condition)によって釣れる魚は大きく異なります。売買契約の条件(condition)によって、販売価格や流通経路が大きく変わります。つまり、人の振る舞いに制約を課し、規定するのがconditionであると言えるかと思います。
3.2.2 state (n.)
固体・液体・気体などといった物質の状態、幼虫・蛹・成虫などといった昆虫の状態、位の高い人たちの集まり、政治的組織、国家、領地
氷は固体(solid state)ですが金属も固体です。氷も金属も熱すると溶け、液状(liquid state)になりますが溶解する条件(condition)は大きく異なります。ハマチがブリになる仕組みと、蛹が孵ってチョウになる仕組みは大きく異なります。アメリカ合衆国(The United States)もイスラミック・ステート(Islamic State)もいわば国家(state)ですが、国家が成立する条件(憲法等法律、領地、権力構造など)は時代や国民の考え方によって大きく異なります。
さて、「パーキングロック状態」に話を戻すと、conditionを使ってしまうと、駐車した車のロック状態に良し悪しがあったり一定でないようなニュアンスとなってしまいます。
stateも確かに、変化の推移をあらわす言葉ではありますが、上述のように多様な目に見えない変化や概念を包含する極めて抽象度の高い言葉なので、
そのような言葉を特定の動作をすることが期待される機械に用いてしまうとなんだか落ち着かず、この機械は大丈夫なんだろうかという不安感を与えかねないと思うのです。
では「パーキングロック状態」をどう訳せばよいのかということになりますが、ひょっとして「状態」はいらないのではないかということになりそうです。
(修正版英訳B´)
(修正版英訳B´´)
またご意見がありましたら、頂戴できたら幸いです。