A piece of rum raisin 第14話 シンガポール(4)
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第 14 話 第二ユニバース:シンガポール(4)
1987年7月4日(木)
結局、私が洋子の荷物をパッキングして、翌朝11時の便の洋子と一緒にチャンギ空港に行った。私の便は午後3時半なのだが、一時荷物預かり所に預けておけばいい。時間などいくらでもつぶせる。
チェックインカウンターで洋子のボーディングパスを受け取った。時間は十分あった。私は洋子と手をつなぎ、洋子の手荷物を持って、さて、どこでどうしようかな?と思った。
「明彦、あの上、空港が見えるビューイングギャラリーじゃない?」
「そのようだね」
「あそこに行きましょう。人もいないようよ。そこで、お別れのキスをたっぷりしてよ」
「やれやれ、了解」
私たちは、本当にひとけのないビューイングギャラリーで窓際に立って、長い長いキスをした。
「さ、私、行くわ」
「まだ時間はあると思うけど・・・」
「行くのよ!帰りたくなくなっちゃうじゃない。キミはここにいて。イミグレーションを通過するまで見送りしないで。私泣いちゃうから。ここにいるのよ、明彦は。少なくとも、私が中に入るまで」
「そんな・・・」
「ダメよ。15分はここにいるの。約束。それで、私の飛行機が飛び立つとき、ここから見ていてね。ここから明彦が私を見ているのがわかるように。じゃあね、さよなら。明彦は私の中にいるのよ。覚えているわ。またね、またという機会があるなら」
「洋子・・・」
彼女はスタスタと降りていってしまった。約束通り、15分経って下に降りるが、もう洋子はいない。私は喫茶店でコーヒーを飲み、洋子の飛行機の離陸時間が来ると、ビューイングギャラリーに行って、彼女の飛行機を眺めた。こんなに遠くなので、もちろん洋子がどこにいるのかなどわかりはしなかった。
「さよなら。明彦は私の中にいるのよ。覚えているわ。またね、またという機会があるなら」
その時、それがどのような意味なのか、私にはわからなかった。
シンガポールから戻ってから、7月、8月、9月、10月と私はフランスの洋子に何度も電話をした。スリランカの電話事情で、いくどかけてもつながらないことがあったし、呼び出し音は聞こえるのだが、誰も電話に出なかった。時差は、3月から10月のサマータイムでは、フランスとスリランカで3.5時間だ。だから、彼女が大学から戻るであろう6時頃(スリランカでは午後9時半)にかけたり、朝7時(スリランカでは午前10時半)にかけたりしてみたがダメだった。
結局、4ヶ月試してみてダメだった。私は、毎月手紙を書き、連絡して欲しいと手紙に書いた。何度も。しかし、11月になってもなんの音沙汰もなかった。
12月になって、国際郵便が届いているわ、明彦宛に、と会社の秘書が言う。「どれ?」「これ!」と、大判の封筒をヒラヒラさせる。「渡してよ、早く」と、私は言う。「さぁ~って、誰からなの?答えなさい?」と、彼女が言うので、封筒を私は引ったくった。「ま、なんて乱暴な!日本人はそういうことをするの?」「うるさいなあ、ほっておいてくれ」と、私は言う。これで、まず1週間は口もきいてきれないだろう。私は自分のオフィスに戻った。
手紙は洋子からだった。分厚いA4版二つ折りの何かの書類と、航空用便箋が2枚。私は、航空用便箋を先に読んだ。
洋子らしい簡潔で短い手紙だった。日付は、シンガポールで別れてから5ヶ月経っていた。
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「明彦、
あなたがあれから私になんども連絡しようとしていたことを知っています。そして、私もなんど受話器を握り締めて、あなたの番号を回したことか。それでも、だめ、最後の番号を回すことができない。
あのシンガポールで私とあなたが過ごした4日間の日々を私は生涯忘れない。私の気ままでわがままで、惨めかといえる一生の中で、あの4日間、いえ、あなたと過ごした9年間は、ある種の光芒を放っているといえます。
私は明彦、あなたを愛したのでしょう。いえ、私はあなたを愛していた。そして、今でもあなたを愛しています。しかし、明彦、あなたには私だけしかいない、とは思いません。あなたには絵美さんという女性がいて、彼女は、私以上にあなたの人生にとって重みがあったと思います。いえ、事実、あったんだわ。癪だけど。
ああ、いやだ、こういう書き方をするつもりはなかった。この手紙を、何度も破った手紙同様、いったん破り捨てて、書き直そうかしら?絵美さんのことなど書く気はなかったのに。でも、意を決して書きましょう。
あなたはいつだったか、私に言ったことがありますね?『私たちは徹底的な利己主義者であって、徹底的であるだけ、他者を所有したり、他者を従属させたりしない。共有すらしない』と。『私たちは非常に孤独なんだ』と。そのとおりです。私はあなたの言う徹底的な利己主義者だった。孤独でした。
だけど、シンガポールであなたに会ったとき、私は考えを変えた。
私は徹底的な利己主義者ですが、少なくとも女として、あなたと共有するものが・・・、いえ、違うわね。あなたの一部を所有することができたし、今、あなたの一部を所有しています。
シンガポールで、私は、あなたに言いました。『今は安全日だから。大丈夫よ』と。でもね、安全日じゃなかったのよ、明彦。私の中にはあなたがいます。娘です。あなたと私の娘です。私は、あなたが欲しかったのよ。だから、あなたをだましたの。
ごめんなさい。
あなたに会いに来て欲しい、あなたに父親になって欲しい、などとは言いません。これからも会うことはないでしょう。あなたには、あなたにふさわしい人が現れるでしょう。私の考えていることはあなただったらわかると思います。
こんなに長く書くつもりはなかったのに、2ページ目になってしまいました。
最後に何を書こうかしら?
何も書けない・・・書くと・・・私・・・
さようなら
最愛の明彦へ 洋子
PS:私が明彦から聞いたことを基に、調査したことがあります。大学の法学の助教授は便利なことがあるのよ。私の知り合いのあるアメリカ人の政府関係者に問いただしました。同封されているのは、絵美さんに関するFBIの調査報告書です。彼女は・・・生きていたら、私は到底この人にはかなわなかったわね?彼女は肉薄していたのね?でも、それで、明彦、この報告書で納得してください。これ以上、過去にとらわれないように。あの時、私達がニューヨークに行って調べ上げた以上のことがこの報告書には書かれています。もう一度言います。
これ以上、過去にとらわれないように」
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私は、私自身を冷たい男と思っている。石のように冷たい。しかし、私は私の短い人生で、これほど読んで悲しくなる手紙を受け取ったことがなかった。私はおそらく十数年ぶりに泣いた。娘だって?娘・・・
しばらくして、私は気を取り直した。
分厚いA4版二つ折りの書類。私は開くのが怖かった。だが、読まないわけにはいかない。開いた。1ページ目は、大きく、映画でしかお目にかからない円形の黄色い縁取りに青の地の、アメリカ合衆国連邦捜査局の紋章が中央にある、Federal Bureau of Investigationの公式報告書だった。宛先は、連邦捜査局長官、ウィリアム・ウェブスターだった。
それはNYPDのノーマン警視の調書でもなく、ニューヨーク検死局のドクタータナーの調書でもない。彼らの調書も含まれてはいた。それはFBIの森絵美殺害に関する最終報告書だった。私は彼女の殺害に関しての真相を知った。
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第 15 話 第二ユニバース:モンペリエ(1)
2000年4月30日(日)
ちょっと、昼食の後、ウトウトして寝てしまった。夢の中で明彦に電話して、おかしな会話をしたことを覚えている。おかしいなあ、と我ながら思う。明彦がそんなことを言うはずもするはずもない。そんな電話などあったわけがない。そこへ、ミシェルがピアノ室から顔を出したのだ。彼女は彼と私の子供で日本人なのだが、ミシェルと名付けたのだ。彼女が古いLPジャケットをかざして、ピアノルームから顔を出して、「ママ?」と何か訊こうとしている。
「なあに?」と私が尋ねると、「私、このLP大好きよ」とレコードを差し出す。
Keith Jarrett - Köln Concert
「素敵な曲よ、これ。私も大好きよ」と私は言った。明彦と絵美の曲なのだ。
「それが変なのよ」と娘が言う。
「何が変なの?」
「さっき、このLPを部屋で聴いたのよ。それでね、見ていて」と娘がピアノに向かう。そして、ケルン・コンサートを弾き出したのだ。Part Iを譜面なしですべて弾いてしまう。「ほらね?」
「うまいじゃない?よく練習したわね?」
「違うのよ。さっき生まれて初めて聴いたの。でも、自分でこの曲が弾けるのがわかったのよ。だから、ママに聴いてもらったんだけど・・・なぜ、私、この曲を弾けるの?」
私の古い記憶が蘇ってきた。十三年前にシンガポールのホテルで記憶の転移とか相対論の話を明彦としたことが。
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「明彦?もしも、もしも、未来や過去の自分の記憶が、今の自分にトランスしてしまったら、どうなるの?または、まったくの別人に記憶が転移したら?」
「また、そんなバカな話があるわけないでしょうに?・・・え~、未来や過去の自分の記憶が自分や他人にトランスしてしまったら、ってことですよね?」
「そぉよ」
「トランスした時点で・・・」と、明彦がホテルの便箋に絵を書いた。「こういう右の絵のような新しい時空が出現して、それは、左にあったストーリーとはまったく関係なく、順番も起こることも展開もぜんぜん違ったことになります」
「この、この左のストーリーはどうなっちゃうの?」
「どうなるとか、こうなるとかではなく、こういうストーリーは、右のストーリーでは存在しなかった、ということになります。この左のストーリーがパラレルで残っているのかどうかは知りませんが、例えば、洋子がそのトランスを起こした時点で、起こらない未来になった、ということなんですよ、その洋子にとっては」
「ダ、ダメよ、明彦!閉じさせてはいけないわよ!」
「何を言っているのかなあ。閉じるとか、わけがわからないことを・・・」
「ちょ、ちょっと待ってよ。その起こらない未来になった未来や過去の自分の記憶がトランスするとしたら、起こったはずがない記憶がどうやってトランスできるの?」
「それは・・・パラレルで、起こらない未来も同時に存在しているってことになるのかなあ・・・」
「明彦、明彦、変えられないの?元に戻せないの?」
「あの、僕はラプラスの悪魔じゃありませんので・・・夢の続きを見ているの?洋子?」
「・・・ああ、夢の続きを見ているのかしら?」
「だいたい、閉じるとか閉じないとか、何の意味なんです?」
「あら?どういう意味なのかしら?」
「閉じるねえ・・・あ?これ?確かに閉じるよね?これは?・・・しかしですよ、この絵はアリスだけど、これが洋子の時空に起こったと仮定すると、ラプラスの悪魔になるのは、僕ではなくて、洋子ですよ?だって、未来を知るのは洋子なんだから」
「え?あら?確かにそうね・・・じゃあ、この紙の端をクルッと丸めたのは一体誰なの?誰がやったの?」
「そりゃあ、どこかのイタズラ者がいて、クルッと丸めちゃったんでしょうね。でも、そんなことが起こるわけがないでしょ?聞いたことがないよ、僕は」
「何かが起こっているのよ。起こったのよ」
「何が起こったの?」
「そんなこと私が知るもんですか!」
「何を怒っているのかなあ・・・ほら、まだ時間はある。寝ましょうよ」彼はブランケットにくるまって寝てしまった。
私は眠れなかった。何がどうなっているのだろうか?
(だ、ダメよ、閉じちゃ、ダメ!明彦!閉じさせてはいけないわよ!)
と、確かに誰かが私の頭の中で言った。それを閉じさせないということができるのは・・・どこかの明彦であって、今の、この横に寝ている明彦じゃない?今の明彦に言ってもダメなの?
「う~ん、もう、知らない!」
「洋子、何をブツブツ言っているの?」
「相対論なんて嫌いよ!」
「まだ考えているの?・・・あのね、そういう転移とかトランスの話というのは、物理学の領域というよりも心理学の領域なんじゃないの?」
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大変だ。まだ、何も終わっていなかったのだ。何故バイエル程度しか演奏できないミシェルが絵美の弾いていたキース・ジャレットのケルン・コンサートを弾けるの?シンガポールで私の心の中に記憶の転移とかトランスとか囁いたのはだれ?なにが起こっているの?なにが起こったの?すべては繋がっているのだ。
私は昔の手帳を持ち出して、明彦の連絡先を探した。
Keith Jarett、The Köln Concert
キースジャレット、ケルンコンサート
01 Part I 1.m4a