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フランク・ロイドの自己紹介 Ⅰ

皆様、お世話になっております。ペンネーム「フランク・ロイド」(Frank LLOYD)と申します。気が向いたので、自己紹介を。

フランク・ロイドのNOTEの立ち位置

私が書いているNOTEの記事、実益なんかありません。読んでいて何かの役に立つものとも思ってません。読んで気晴らしにはなるでしょうが。書き散らかしです。そう思ってもらうとよろしい。

まず仕事以外の分野で自分のためのメモ代わりにNOTEを使ってます。忘れちゃいますからね。「あの曲、なんだったかなあ?」というので、NOTEにメモっていないと、何度も同じ検索をします。それをNOTEに書いておけば検索の手間が省けます。私の記事を読んでいる人は、同じ曲を何人かの演奏者が紹介されているので、たまさか、これ良いね?と思ってくれればいいのです。

歴史物も同じく。「歴代天皇系図」なんて、いまさら年もとってますから覚えているはずもなく、自分の記事で「歴代天皇系図」と整理しておくと後で検索する手間が省ける。これを使って小説のバックデータとしても利用できます。

あと鮮度の問題で数カ月後には陳腐化しますが、気になったガジェットをメモっておく。陳腐化したあとも同じような傾向の新製品が出てくるので、改めてそういうガジェットを更新すればいい。

じゃあ、読んでいる人はなんの意味があるのか?って、意味などない。強いて言えば、高校や大学の時、講義のNOTEを取り忘れた、聞き逃した、ちょっとフランクのNOTEを見せておくれよ、というので見ると、なんか余計なことが書いてあって、試験にも役立ちそうもないが、知っておいたら人生面白そうだ、という意味ぐらいはあるのか?と思ってる次第です。

Frank Lloyd Wreight

私のペンネームの「Frank LLOYD」はアメリカの著名な建築家(Architect)の「Frank Lloyd Wreight」から取りました。

彼は日本にも数々の作品を残しています。1912年(大正二年)、帝国ホテル新館設計のために来日。ホテルは大幅な予算オーバーと工期の遅れで完成を見ることなく離日しました。が、ホテルの建設は弟子の遠藤新の指揮のもとその後も続けられ1923年に竣工しました。

オールドインペリアルバー

旧帝国ホテル本館(ライト館)は取り壊されてしまいましたが、現在でも「オールドインペリアルバー」が、その面影を現在に伝える東京では唯一の場となっています。バー店内左奥の大谷石や、壁のテラコッタは、当時のまま。壮麗にして優美と語られた良き大正時代の全貌を偲ばせます。彼の設計は、モダニズムの流れを組んでいて、幾何学的な装飾と流れるような空間構成が特徴です。浮世絵の収集でも知られていて、日本文化から少なからぬ影響を受けていました。

日本の文化は、私の人生で最大の衝撃だった。
物事の単純化、省略化によって生まれる美。
それは、まるで神の啓示のようだった。

(フランク・ロイド・ライト)

私の小説でもしばしばこの「オールドインペリアルバー」や、今はない新橋第一ホテル御茶ノ水の山の上ホテルのバーが出てきますが、大学時代、ホテルのバーでアルバイトをしていまして、フロア係でしたが、多少バーテンのマネ事もしておりました。

第三章数学と幽霊、第八話 下見
第三章数学と幽霊、第十話 処女以前
第三章数学と幽霊、第十一話 処女以後
A piece of rum raisin 第14章 御茶ノ水
A piece of rum raisin 第12章 新橋第一ホテル(3)
A piece of rum raisin 第13章 新橋第一ホテル(4)
第一章 奈々(絵美)と明彦、総集編
前日譚 メグミと絵美、総集編

高校からバー通い

また、現在の帝国ホテル、インペリアルタワーは、大学卒業後、就職した建築設備電気会社が施工したもので、馴染みがあります。日本に限らず、長い海外生活で、アジア中の著名なホテルも泊まり歩き、それらのホテルのバーで酒を飲んできました。(実は、高校の頃から、横浜中華街の重慶飯店の経営する「ホテル ホリデイ・イン横浜」(現在はローズホテル)の十二階のバー、ミリーラフォーレで酒を飲んでいました。やれやれ。時効ですよね?)

フランク・ロイドの専門分野

さて、こう書いてくると、何やら私は建築家みたいですが、私の専門は、建築の一分野の設備電気の設計です。設備電気なんて言うとなんだかわかりませんが、空調衛生消火自動制御と強電弱電中央監視という分野になります。その中でもとりわけ空調工事という分野が専門です。

空調工事というと、エアコンなんて想像されますが、私は、マンションとか事務所ビルという普通の案件はあまり担当しませんでした。担当していたのは、例えば、東芝の半導体工場のクリーンルームとか、バイオクリーンルーム、地域冷暖房(DHC)プラント、シンガポールの地域冷房(DCS)プラント、チャンギ空港、成田空港、羽田空港なんて、まあ、でかい物件が多かったのです。

じゃあ、大学の専攻は、工学部の建築科か?と思われるでしょうが、都内(飯田橋)にある理系の大学で、基礎科学の理学部物理科出身です。物理の中でも、地球物理学、量子力学なんてのを学んでおりました。

実は、高校の頃、文学部にでも入って、江戸の黄表紙本の研究でもするか?なんて考えていました。しかし、それじゃあ、理学部物理科よりも潰しが効かず、食えないよなあ、というので、物理科に変えたという。あの当時は、国公立理系でも、現国、古文、漢文、日本史、世界史、地理も入試科目にあったので、理系、文系、どっちでも可能は可能だったんです。

え?それがなんで卒業したら建築分野に就職したのだ?と思われるでしょうが、基礎科学の理学部物理科って潰しがきかないのです。卒業しても、大学に残って大学院に進んで研究課程でオーバードックになるか、教師になるか、この世の中、アインシュタインなんて多人数いらないでしょう?

就職、忘れてた

まあ、それもありますが、研究室で卒論を書いていて、気がつくと十月。教授に訊くと「おまえ、就職、忘れているぞ!」と言われ、就職先でどこが残っているか訊いてみると「なんか、この空調会社ってのがあるぞ!」と教授に言われました。

「空調」って「空を調べる」会社?地球大気の観測会社か?と想像しました。とにかく、面接に行くと「配管」とか「ダクト」とか言っていて、「水道のことは知ってますが?」と言うと「まあ、そうじゃないけどね」と流体力学の公式とか質問されたんで、答えていると、「内定しました」と言うことで、なんの会社かよくわからない内に就職が決まりました。

それで安心して、卒業までほっておいた。四月に新入社員の説明会とか受けて、新入社員教育なんて受けたら、ヘルメット、安全靴、安全帯なんて渡された。

なんと建築現場の現場監督になってしまった

そう、私は、なんと建築現場の現場監督になってしまったんです。やれやれ。

二十一世紀の今日、建築現場は3Kとか言われて嫌われていたので、随分改善されて労働環境もよくなっています。しかし、時は1980年代、ゼネコンの下請け、特に、鉄筋屋なんてね、893の息のかかった業者が普通。倶利伽羅紋紋が現場を闊歩していて、私たち設備電気の下請けなんて、現場カーストの底辺。現場の足場を登っていると、上から鉄筋棒が降ってくる、なんて日常茶飯事です。

配管やダクトが壁などのコンクリート構造体を貫通するのにスリーブというものをいれるんですが、挨拶がないとコンクリート打設の時に蹴飛ばさえて外されてしまいます。それで、私のような新入社員は、ズボンのポケットにビール券をしこたま詰め込んで、「コン打ちの時はよろしく!スリーブ、蹴飛ばさないでね♡」とビール券と共にお願いに回ります。

なんて職についちまったんだろうな、とため息をついたものです。それに、9to5の仕事じゃない。一ヶ月の残業時間が百時間はざら、二百時間なんて月もあって、最大で二百七十時間、残業したときもありました。どうやるのかって?現場に泊まるんですよ。家に帰らない。土日全滅。平日は睡眠時間を残すのみで後は仕事。救いはデスクワークじゃないので、現場をプラップラして、手抜きはできますけどね。

そんなこんなで、数ヶ月会えないなんて話になって、ガールフレンドも一人減り、二人減り・・・。

(Ⅱに続く)

フランク・ロイドの自己紹介 Ⅱ

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フランク・ロイドの自己紹介 Ⅲ

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