新・奴隷商人、Ⅰ 奴隷市場
登場人物
アルファ :純粋知性体、Pure Intelligence、質量もエネルギーも持たないダークマターで構成された精神だけの思考システム。出自は酸素呼吸生物。
ムラー :フェニキア人奴隷商人、純粋知性体アルファのプローブユニット
森絵美 :純粋知性体アルファに連れられて紀元前世界に来た20世紀日本人女性、人類型知性体
アルテミス/絵美:知性体の絵美に憑依された合成人格、ヴィーナスの二卵性双生児の姉
ヴィーナス :黒海東岸、コーカサス地方のアディゲ人族長の娘、アルテミスの二卵性双生児の妹
ソフィア :ムラーのハレムの奴隷頭、漆黒のエチオピア人
ジュリア :ムラーのハレムの奴隷頭、赤銅のギリシャ人
ナルセス :ムラーのハレムの宦官長
アブドゥラ :ムラーのハレムの宦官長
パシレイオス :ムラーのハレムの宦官奴隷、漆黒のエチオピアの巨人
ヘラ :ディオニュソスのマイナス(巫女)、クレオパトラの悪霊に憑依されていた大女
アイリス :エジプト王家の娘、クレオパトラの異母妹、知性体ベータの断片を持つ
ペトラ :エジプト王家の娘、クレオパトラの異母妹、アイリスの姉、将来のペテロの妻、マリアの母
アルシノエ :アイリスたちの侍女頭
ピティアス :ムラーの手下の海賊の親玉
ムスカ :ムラーの手下、ベルベル人、アイリスに好意を持つ
ペテロ :ムラーの港の漁師
マンディーサ :アイリスの侍女
キキ :20才の年増の娼婦
ジャバリ :ピティアスの手下
シーザー :共和国ローマのプロコンスル(前執政官)
マークアントニー:シーザーの副官
ベータ :純粋知性体、Pure Intelligence、質量もエネルギーも持たない素粒子で構成された精神だけの思考システム。出自は塩素呼吸生物。
クレオパトラ7世:エジプト女王、純粋知性体ベータのプローブユニット
アヌビス :ジャッカル頭の半神半獣、クレオパトラの創造生物
トート :トキの頭の知恵の神の半神半獣、クレオパトラの創造生物
ホルス :隼の頭の守護神の半神半獣、クレオパトラの創造生物
イシス :エジプト王家の娘、クレオパトラの従姉妹
アルテミス号 :ムラーの指揮指揮するコルビタ船
ヴィーナス号 :ピティアスの指揮するコルビタ船
歴代クレオパトラの生没年、エジプト女王在位
クレオパトラ1世 生没年:紀元前204年頃 - 紀元前176年
在位:紀元前193年 - 紀元前176年
夫、プトレマイオス5世エピファネス
クレオパトラ2世 生没年:紀元前185年頃 - 紀元前116年
在位:紀元前173年 - 紀元前116年
夫、プトレマイオス6世フィロメトル
クレオパトラ3世 生没年:紀元前161年 - 紀元前101年
在位:紀元前142年 - 紀元前101年
夫、プトレマイオス8世フュスコン(3世は彼の姪)
クレオパトラ4世 生没年:不詳 - 紀元前112年
在位:紀元前116年 - 紀元前115年
夫、プトレマイオス9世ラテュロス(4世は彼の妹)
クレオパトラ5世 生没年:不詳 - 紀元前57年
在位:紀元前115年 - 紀元前57年
夫、プトレマイオス9世ラテュロス(5世は彼の妹)
クレオパトラ6世 生没年:不詳
在位:不詳
夫、不詳
クレオパトラ7世 生没年:紀元前69年 - 紀元前30年
在位:紀元前51年 - 紀元前30年8月1日
夫、プトレマイオス13世、プトレマイオス14世(7世は彼らの姉)
アルシノエ4世 生没年:紀元前67年 - 紀元前41年
クレオパトラ7世の妹、プトレマイオス13世、プトレマイオス14世は弟
ジュリアス・シーザー 生没年:紀元前100年 - 44年3月15日
マーク・アントニー 生没年:紀元前83年 - 30年8月1日
主要登場人物の年齢
Ⅰ 奴隷市場
奴隷市場
紀元前の共和制ローマ時代に降りてから一ヶ月が経過した。徐々にこの時代のことが分かり始めてきたが、一言で表現するならば、
不潔。
である。二千年後の日本から来た私の知識と照らし合わせると、その不潔さは信じられないほどだ。二千年後の日本でも、ローマ時代について書かれた歴史書や小説、マンガが多数あり、それらから得た王政・共和制・帝政ローマの知識を持っている。
しかし、現実はそれらとはまったく異なっていた。
キリスト教会の教義では、体の清潔は精神的清浄を意味する一方、裸体で浴槽に浸かることは肉欲に繋がるとして入浴が忌避された暗黒の中世がある。それに対して、上下水道施設が完備され、公衆浴場まであったローマ人は、中世の人々と比べて清潔だったとされる。
中世では、入浴により皮膚の表面から水の悪い成分が体内に入ると信じられていたため、入浴の習慣が廃れてしまったのだ。それはゲルマン人蛮族の侵入により水道施設や浴場が破壊され、キリスト教の教義が影響したからだと、二千年後の書籍には書かれている。
このような知識を持つと、中世暗黒時代は不潔、共和制・帝政ローマ時代は清潔と考えてしまうのも無理はない。しかし、現実は、
ローマ時代も中世よりはマシだが、21世紀の日本と比べると極めて不潔、
なのである。
そして、何より不潔なのが、私が入っているこの体なのだ。
一ヶ月前、地球の成層圏から純粋知性体アルファに突き落とされた体を持たない知性体の一種である私は、少女の中に降り立った。降り立った、というのが想像しにくいのであれば、思念・思考システムだけの私の圧縮ファイルがアルテミスにダウンロードし解凍され、彼女の脳内に展開したとでも考えれば良い。
私の思念・思考システムがこの女の子のシナプスに展開されていき、徐々に脳の支配領域を広げていった。この子の記憶がたどれるようになる。名前はアルテミスという。双子の妹がいるようだ。ヴィーナスという名前だ。彼女の17年間の記憶が私に取り込まれる。思念・思考システムがアルテミスの体の五感に接続される。やっと自分がどういう状態かわかった。両手を縛り上げられて大理石の柱に吊るされている。
すぐ横に妹のヴィーナスがいた。私を心配そうに見ている。肩にかかる金髪。緑の眼。小顔でスラッとした体。映画に出てくるような白人の美少女。双子ならこの子と私は瓜二つなのよね?私の体はこんな感じなんだ。日本人に生まれて二十数年、自分が白人のティーンの女の子になるって、違和感しかない。
アルテミスの記憶を読むと、彼女と妹は黒海沿岸から海賊に拉致されて、黒海を東から西に横断、ボスポラス海峡を通過し、エーゲ海からここシリアの港町ラタキアまで南下すること三週間、海賊船の中で他の拉致された少女たちと一緒に過ごしたようだ。17歳の少女。
この時代の海賊船の様子がわかった。そもそも海賊船は、乗務員の衛生環境など配慮しないらしい。真水など積載していない。第一、乗務員は男性が前提。トイレなど海ですませてしまう。そんな海賊船に数十人の少女が三週間拘束されていたのだから、少女たちの体が極めて不潔になることは当たり前である。体力のない少女は次々に死んだ。ひどい話だが、この時代は紀元前のローマなのだ。21世紀ではない。
成層圏から純粋知性体アルファに突き落とされた時にアルファが私に囁いた。これからお前が行くところは紀元前47年の共和制ローマの時代、地中海のシリア地方、ラタキアという港町の奴隷市場だというのだ。ちょうど私の降り立った少女が奴隷として売られるところだと。
「ちょっと待って!私が乗り移る女の子が奴隷として売られるの?その後、どうなるのよ?冗談じゃないわ!」
「私は冗談を言うようには構成されていない」
「ジョークのセンスがないのはわかるわよ!それで?どうなるの?」
「既に一年前に私のプローブを現地に送ってある。現地の人間に乗り移っている。彼が(彼という呼称で良いのか?お前とはDNAの組成が異なる男性という意味だが・・・)お前の双子の妹と共にお前を買い取る段取りになっている。名前はムラーという奴隷商人で荘園領主だ」
「何を言っているのか理解できないわ。プローブって何なの?」
「・・・プローブとは、言ってみれば月着陸船みたいなものだ。私が母船だ。各惑星の探査をする時に、私の分身のプローブを送り込むのだ。もちろん、実体化するので、現地の生物の知性レベルに合わせないといけないから、私の膨大なデータを送りこめるわけではない。この地球の人類の脳の容量では、せいぜい1ペタバイト、1,000テラバイト程度が上限だ。むろん、データだけでは生存確率が落ちるからいろいろな能力を加味してある。お前も同様だ。ただし、生物に実体化するので、その生物の死でデータは消失してしまう。プローブは実体化した生物の脳から知性体の純粋データを復元する能力はない」
「ちょ、ちょっと待って!私という元人類のデータはこれから乗り移る女の子に何かあったら消えてしまうということなの?」
「その通り。だが、心配することはない。私が戻れば、お前とムラーのデータは私が回収できる。再び、知性体のデータに復元可能だ」
「『私が戻れば』って、どこかに行ってしまうつもりなの?」
「私は忙しい。別の時空に行かなければならない。心配するな。お前とムラーの乗り移る人体が死ぬまでには戻って来る。この時代の人類の平均寿命は35年ということだから、二十年の間には戻る。それまでは、生き残るように努力して欲しい」
「やれやれ。あなた相手に言い合っても仕方ないわ。そのムラーという奴隷商人を待っていればいいのね?」
「その通りだ」
やれやれ。どう待っているのか、その状態をアルファは説明しなかったが、大理石の柱に宙吊りになって待つとは思ってもいなかった。
後でムラーが説明してくれたが、私と妹がいる(柱に宙吊りになって)のは、フェニキアの港町の常設の奴隷市場の大広間なのだそうだ。ラタキアは、黒海沿岸や地中海沿岸から買い集められた奴隷の中継地で、ラタキアの住民向けの奴隷だけではなく、ここからエジプトのアレキサンドリアにも売り飛ばされるそうなのだ。だから、ラタキアの奴隷市場はここ周辺では最大規模になるというのだ。
奴隷市場は、50メートル✕100メートルくらいの長方形の大広間になっていて、数十本の大理石の柱が林立し、柱周りに大理石のベンチの演台が設けられていた。演台の上には、地中海世界の津々浦々から集められた男女の半裸の奴隷がポーズを付けて立っていた。私たちと同じく宙吊りになっている奴隷もいる。暴れたりする奴隷が拘束されるのだろうか?
その周りを、男女の買い手が集っている。体を触って筋肉を調べる者、陰部に手を這わせる者。奴隷売買をする商人はビジネスライクに奴隷を試しているが、一般人の奴隷の買い手の目的は労働力か夜伽の相手だ。つまり、召使いや家事労働、農園労働目的の奴隷か、性奴隷ということだ。後者の場合の買い手の男女はフェロモンを撒き散らして、男女の奴隷に触れている。
年のいった漆黒の肌をしたアフリカ人らしい美しいマダムが、半袖で丈が膝上までしかないリネンのチュニックをまとった十代前半と思える男の子の奴隷の股間をまさぐっていた。私たちと同じ金髪で青い眼の白人だ。根本から局部の硬度を試すためにすりあげているようで、その奴隷は羞恥と心地よさに複雑な表情を浮かべていた。
二千年後の日本の歴史教育の感覚だと、黒人の女性が白人の男性を奴隷として買うという状況に違和感があった。世界史の授業では、奴隷と言うと、十七世紀ごろからのアフリカからアメリカ大陸に売られていった黒人奴隷か、オスマン帝国の奴隷制度であって、紀元前の奴隷制度など習わなかったと思う。確か、ガリア人とかゲルマン人は蛮族で野蛮な種族ということは習った覚えがある。つまり、紀元前の世界では、白人種というのは社会的に奴隷階層ということなのか?黒人の方が階層が上なのか?混乱してしまう。
黒人マダムが奴隷の売り手に「あら!この子のブツがちょうどいい具合に硬くなったわ。ちょっと失礼して試してみるわね」とチュニックから腕を抜くと、人目をはばからずに奴隷のチュニックをはいで、男の子の股間に顔をうずめるのが見えた。
そこここで、奴隷のお試しをしている光景が周囲に散見された。男の買い手は女奴隷の陰部に指を差し入れて締りを確かめていたり。女の買い手は男のものを舐めたりさすったり。売り手がオーケーをするなら、人目もはばからず、女奴隷に男根を挿入したり、奴隷の男根を挿れたりしている。性別の違う買い手と売り手だけではなく、男の買い手と男奴隷、女の買い手と女奴隷のケースも見受けられた。古代ローマ世界では同性であろうと性の対象になるのはポピュラーなことなのか?
あと、ムラーの説明では、若い男の奴隷は、主人の後宮(ハーレム)に宦官として働かせるために、男根か睾丸、または双方を切除して生殖能力を失わるそうだ。主人が後宮の女たちを全員面倒見れない時には、主人に代わって宦官が後宮の女の性欲を鎮める。生殖能力がないので、妊娠する心配がない。主人以外の種での女奴隷の子供はご法度、または、主人にその趣味があれば、睾丸を失って女性化した宦官が主人の慰みものになることもあるのだそうだ。宦官は、竿なし玉なしとか、竿あり玉なしの紀元前のニューハーフということらしい。
二千年後の道徳観や性倫理で判断してはいけないが、なんてエッチな世界なんだろう。他に娯楽もないのだからしょうがないのだろうけど。それにしても、不特定多数でこんなことをしていたら、性病も蔓延するんじゃないかしら。コロンブス以前だから、新大陸から梅毒はまだ持ち込まれていないだろうけど、他の性病があるはず。不潔な世界だ。
私と妹は両手(もろて)を絹の縄で縛り上げられて、大理石の鉄の環に宙吊りにされ両足のつま先立ちだけで立っている。他の奴隷は大人しくなすがままになっているが、私たちは暴れるので宙吊りになっているのだろう。そこまで引き上げられたら足技も出せないということなんだろう。高価な絹の縄を使っているのは、売買が成立する前に体に傷をつけないという配慮なのか。決して優しいというわけではない。
エチオピア人らしい黒人の売り手が買い手らしい私よりも背の低い腹の出ている男に私と妹の説明をしている。買い手の男は古代のアラビア服を着ていた。アラブ人だろうか?
私と妹はスケスケの短いローマ人の着るチェニックを着せられていた。胸当てはなく乳房がチェニックからはみ出している。腰に巻く下着もなしだ。買い手が奴隷の体をチェックするために下着をはかせないのだ。買い手は奴隷の体を触るだけではなく、お試しの性行為も可能だ。ただし、私達のような男性経験のない処女は買い手があそこに指を挿れる程度は許されるが、男根の挿入は不可なのだそうだ。
売り手の黒人がデブのアラブ人に話ている言葉はフェニキア語だ。アルファが全言語翻訳能力を与えてくれたのだろう。ローマ世界の共通語のギリシャ語とラテン語はもちろん、フェニキア語も理解できた。フェニキア語の会話にところどころオリエントでは共通語のギリシャ語が混ざる。ギリシャ語は他の語彙の少ない言語を補っているみたいだ。日本語のカタカナ書きの外来語みたいなものなのだろう。
「旦那、こいつらはまだ十日前に黒海の東岸のアディゲ族の村からさらってきたピチピチの出物ですわ。蛮族の白い肌の金髪碧眼がそそるでしょう?しかも、瓜二つの双子ですぜ。それも族長の娘で神殿の巫女だったそうで、正真正銘のオボコです。どうです?旦那?ここは姉妹揃ってお買い上げをお願いしますわ。お代は二人でしたら勉強しやしょう」
デブのアラビア人は興味をそそられたようだ。「触ってもいいかね?」と黒人に尋ねた。黒人が頷くと、生気のないおとなしそうな妹の前に立って乳房を両手で鷲掴みにした。乳首をひねる。黒人は「どうです?弾力があって吸い付くような肌でしょう?こいつらを毎晩慰みものにできるんですぜ?」と説明する。アソコの具合はどうかな?何、処女だが指で触るくらいはいいだろう?とこの豚は妹の陰部を触ろうとした。
私はカッとなって、つま先立ちの足で飛び跳ねて大理石の柱を蹴った。体が浮いて豚野郎に回し蹴りを食らわした。うまい具合に豚の腹に足があたって、豚が床に転がった。「この野郎!何をしやがる!」と豚野郎が立ち上がって、私の顎を掴んで捻り上げられた。顔を近づけられて、臭い息を吹きかけられる。「おい、お前、ちゃんとこいつを動かないように押さえつけておけ!」と売り手の黒人男を怒鳴る。黒人が私を羽交い締めにした。
「まあ、活きが良い女だ。なかなかに勇ましい」腹を擦りながら豚が言う。「おい、こいつらはいくらだ?本当に処女なんだろうな?」
「正真正銘、処女ですぜ、旦那。なんせ神殿の巫女長だった姉妹ですわ」と黒人男が言う。「コーカサス山脈の麓(ふもと)から引っさらってきた極上ですぜ。黒海東岸のアディゲ人(チェルケス人)でっせ。金髪碧眼、ベッピンですわ。性格もキツイから調教のしがいがありまっせ。二人まとめて450アウレウス金貨では、旦那、いかがでしょう?」
450アウレウス金貨の価値っていくらなんだろう?アルテミスの記憶を探ると、アディゲの村なら普通の8人家族が二十年は暮らせる値段なのだそうだ。数千万円くらい?私たちはポルシェかベンツ並の値段なのね?
「450金貨だって?それはお前、ふっかけすぎだろ?儂の算段だとせいぜい300だ!」
「旦那、ご冗談はおよしください。蛮族の族長の娘ですよ?双子の姉妹でっせ?この二人が毎晩旦那にご奉仕するんですよ?それに子供が産まれてご覧なさい、白人の金髪碧眼のガキが産まれたら、そいつらも売れますぜ。ここは投資だと考えても450なら安いでしょう?」
ひどい話だ。私たちがこの豚の子供を産んだとして、それは豚の子供じゃないか!自分の子供を奴隷として売り飛ばす神経がわからないが、それはそういう神経も持ちあわあせていないということか。
豚が「こいつらの年は?」と黒人に聞く。「17歳です」と売り手の黒人が答えた。
「ババアじゃないか?」17歳ってババアなの?
「処女ですよ、処女。この年まで処女でっせ。なんでも族長の娘らしくって、17歳で処女なんてまずいませんや」
「それにしても450アウレウスは高い!300だ!」
「旦那、そりゃあ相場に合わない!」
「値を下げろよ」
「じゃあ、420でどうです?旦那?」
「高い!350だ!」
豚と黒人が値段交渉で言い合っていると、豚の後ろの人混みをかき分けて、長身の30歳代と思われる男性が近寄ってきた。「おい、ちょっと待て!俺はこの子たちが気に入ったぞ。450アウレウス、即金で払うぞ!」とその男が黒人の売り手に言う。
豚が後ろを振り返って「横から口を出すんじゃ・・・」と言いかけて「あ、ムラーの旦那でしたか。旦那、450、言い値で払うんですかい?このデカブツがつけあがりやすぜ?」と黒人男を指さして言う。あ!こいつがアルファの言っていたムラーなんだ!
「良いんだ。俺がこの子たちを気に入ったんだからいいだろう?ここは悪いが譲ってくれ。代わりといっちゃあなんだが、エチオピア人の15歳の上玉をお前に譲るよ」
「ムラーの旦那に言われちゃあ仕方ない。譲りますよ。エチオピア人の娘、たのんまっせ」
「ああ、俺の執事のアブドゥラに言っておく。明日にでも引き取りにきてくれ。値付けはアブドゥラに聞いてくれ。安くしておくよ」豚はブツブツ言いながらも引き下がって、群衆をかき分けて離れていった。
ムラーと一緒に来ていた若い男が近寄ってきた。18歳くらいだろうか?アラブ人のようだった。鼻筋の通ったハンサムだ。「旦那様、代金はツケにいたしますか?即金と言われてましたが持ち合わせがありませんが?」とムラーに言う。
「アブドゥラ、証文屋(両替商)のヤコブの店で450アウレウスの証文を作らせてくれ」と広間の壁際の祭りの屋台みたいな店を指さした。アウレウス金貨は一枚7グラムなので、450アウレウスは三キロほどになる。持ち歩ける重さじゃない。だから、大金が必要な奴隷市場などでは、ユダヤ人の証文屋(両替商)が店を出しているのだそうだ。後で現金と手数料を証文屋に払えば良い。
アブドゥラが証文屋に行って、パピルスに書かれたヤコブの店の450アウレウスの証文を持ってきて売り手の黒人に渡した。ムラ―は重そうな革財布をチェニックの胸元から引き出すと、黒人男に金貨を二枚渡した。「中途で横槍を入れたお詫びだよ」と黒人男にウィンクした。黒人男がお辞儀をして、私たちの腕を縛っていた縄を緩めて、私たちをムラ―に押し付けた。
ムラーは私と妹のヴィーナスを奴隷市場で買い取った後、彼の海の荘園という家に私たちを連れて行った。港町を通ったが、家々は真っ暗だ。灯りがついている建物は奴隷市場と娼館、それに神殿だけだ。成層圏から見下ろした地球の夜の部分は薄っすらと海岸線が見えるだけで灯りは見えなかったが、地上に降り立ったら見事に闇の世界だった。
ムラーのお供のアブドゥラがオイルランプを持っていたので、足元は明るかった。港町を抜けた。暗闇でよく見えないが、港町から急な斜面をつづら折りの道を登っているようだ。港町から丘の斜面を登って30分くらい歩いた。
「了解。それにしても、ムラー、この世界は真っ暗ね」私とヴィーナスを両手に抱えた彼が「灯りをつけるなんて贅沢はこの世界ではできないんだぜ。庶民は日が暮れると寝ちまう。灯りは暖炉の火があるくらいだ」と答えた。なるほど。
「さて、ついたぞ」とムラーが片手をあげて煌々とした明かりのついている丘陵地の斜面に建つ家を指した。かなり大きい6LDKくらいの一階屋の普通の家に見えた。「この家は俺の荘園の敷地の外だ。この家は荘園に入る人間の隔離棟みたいなものだ。まだお前らを荘園の中に入れるわけにはいかない。消毒をしないとな」と言う。
マガジン『奴隷商人』(旧)
【小説】奴隷商人ー補足編、下書き
第1話 紀元前1世紀(登場人物)
第2話 紀元前1世紀、古代ローマの貨幣・物価
第3話 紀元前1世紀、古代ローマの奴隷
第4話 紀元前47年、古代ローマの身分/奴隷制度と寿命
第5話 紀元前47年、古代ローマの家父長制と婚姻