地点『山山』を観て➡︎読んで➡︎見て
追記
これは、わたしが今年4月に書き始めて、まとまらずに放っておいた文章ですが、今回の地点パワハラ(疑惑)を受けて、まとまらないなりにとりあえずnoteにあげることにしました。読みづらいです。ごめんなさい。
昨年6月に、地点『山山』を観た。その後、岸田國士戯曲賞の最終選考に残ったことをきっかけに、公開されていた戯曲を読んだ。で、この前、どらま館での上映会に行ってきた。
1回目に劇場で地点を観たときは、良くも悪くもただ圧倒されて帰ってきた。
主に俳優の熱量がすごかった。そこにあるカタチ!いま!伝えるわたし!とかがぶわーっと来て、楽しかったけど、何を伝えたいのかはいまいち分からないままだった。というか、伝えることすら放棄しているんじゃないかという部分もあるように感じた。のちに戯曲を読んで、私が理解することを放棄していたからだろうなーと思う。
上映会では、初めて「山山」副題(英題)がついていることを知った。あとの80分間はずっとその英題に思いを馳せながら、あんまり何も考えずにぼおっと見ていた(ごめんなさい)。”I would prefer not to” という副題。私も読んだことはないのだけれど「バートルビーがなんたらかんたら」みたいな題の小説の台詞に使われていたことから流行した言葉、ということは知っていました。
ちなみに、直訳すると「望まない・できればしたくない」という意味。ですが、おそらくここでは “I would prefer not to SAY”、つまり「言いたいのは、やまやまだけど(言いたくない)」という意味と捉えて、タイトルの「山山」と掛けているのだな、と解釈しました。で、アフタートークで松原さんがバートルビーから取ったよみたいな話をしていて、ちょっぴり嬉しくなったり、した。
結論から言って、私は地点の魅せ方や演出法やセンスの根幹みたいなものがすごく好きだった。脚本の中のひとつの言葉や文章をエッセンスに、演出家の三浦さんが「こんな見方もあるよ」をスタイリッシュに提示してくれる。
どこかの誰かが「台本をそのままなぞるだけ、脚本を完全再現するだけなら演劇として舞台に載せる必要性は全くない」みたいなことを言っていたけれど、三浦さんはまさにそんな感じで考えてるんじゃないかな、と思う。三浦さんの頭でしっかり咀嚼された言葉がガシガシ伝わってくるのが、嬉しいし、なんかちょっと物足りなくなるときもある(裏を返せば、あまりにも一つのことば・文章への解釈が一義に決まってしまっているので、解釈の遊びの余地がないみたいな気分になる)、みたいな感じ。うまく言えない……
だからこそ、私は個人的に地点×松原俊太郎というタッグにはあんまり魅力を感じられなかった。松原俊太郎さんは、新進気鋭の作家で、小説的な脚本の書き方をされるなとすごく思う。だから、一義的な演出をする演出家より、もう少し遊びのある演出が合うんじゃないかな、と思ったり。
何より、三浦さんのその「新しい意義を見出し、与え、画面化する(=具体的にきちんと舞台に載る形にする)」という力は、もしかしたら新しい脚本より、古い脚本、元々ある脚本、やり尽くされた作品で光るんじゃないか?と思う。例えば、チェーホフ。例えば、グッドバイ。例えば。