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中島敦「山月記」 自尊心とか羞恥心とか


数年ぶりに山月記を読んだ。

出会いは私が小学生の頃。同じ町出身で、京都大学を出て、大阪の大きな会社に勤めている、当時30歳ぐらいの人が、ウチに遊びにきた。遊びに来たと言っても、私の父と2人、居酒屋で飲んで、大虎となってウチに来たのである。(今思うと実に山月記である。)その京大卒が、酔っ払いながら、日本語ではないような、でも中国語でもなさそうな言葉で、詩のようなものを私に向かって暗唱し始めた。何を暗唱してるのかきいたところ、「中島敦の山月記を知らんのか!」と怒られた。当時、私は田舎の小さな小学校で成績優秀だった。次にこの町から京大に行くのは私だと言われていた(ような)。この京大卒はそれをきいて、値踏みに来たのかもしれない。しかし、残念ながら、私は中島敦も山月記も知らなかった。そもそも漢文調の文章を始めて聞いた瞬間だったのではないか。しかし酔っぱらった京大卒が暗唱する山月記はカッコよく、どことなく気持ちよかった。内容は全く理解できなかったが・・・。

そんな経験から、「山月記」は強烈に印象に残っていた。しかし、読む機会も読もうという意思もなく月日は流れ、高校2年の時を迎える。ついに国語の授業に山月記が登場した。授業なので、丁寧にその内容を勉強した(と思う)。しかし、この時の印象は、「優秀な官吏が夢破れ虎になった」という最も短く、最も薄っぺらい要約になった。

そういう残念な学ぶ姿勢の結果、京大卒など夢のまた夢、地方の国立大学に進学、卒業した。

社会人になり、京大卒が酔っ払いながらカッコよく暗唱した山月記を思い出した。ついに新潮文庫の「李陵・山月記」を買った。

読んだ。高校時代の授業のおかげもあり、ほとんど訳注を参照しなくても読めた。この時は李徴に憐れみを感じた。頭が良くて、文才があるのに、それを活かせず虎になっていく。そのさまを無念だろうなと思って読んだ。そうやって、才能を開花させずに終わっていく人もいるだろうなと他人事のように受け取っていた。

それは社会人になってすぐぐらいだったと思う。当時の私はやる気に溢れ、自分に自信があった。入社1年目から、10年選手(死語か)かと言われるぐらい、バリバリ働いていた。きっと出世できると根拠なく思っていた。

それからいろいろな人生経験を重た。50を超えた今、すっかり自分に自信をなくし、心が折れている。そして、楽しくない日常を過ごしている。

そんな中、山月記を再読した。今回は李徴の気持ちがわかってしまう。他人事ではない。私自身も「尊大な羞恥心」と「臆病な自尊心」、この二つの猛獣を飼い慣らせず、肥やしてしまったのだ。

なんとなく自分に才能があるように思い込んでいた。しかし、人に教えを乞うこともなく、評価を求めることもなく、ただ留保し、何も成すことなくここまできた私も李徴と同じである。

ただ、現実世界では、虎にはなることはなく、人の形は維持できている。そして、意識も人のままだ。

今このタイミングで読もうという気になったのは、まだ遅くはないと山月記が伝えてくれているのかも。さすが、長い付き合いの山月記だ。

謙虚な自尊心としなやかな羞恥心でこれからを過ごしてみようと思う。

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