【熊谷家のアントレプレナーシップは祖父譲りだった】
2,3年ぶりのグランパの家
今日は、2,3年ぶりに宮崎の祖父(通称グランパ)の家に帰った。
そして、夜ご飯を食べている際に、いつものように昔話をし始めた。別にそれがやな事でもないし、いつもの事だったから、まあいつも通り聞いていた。
でも、なんか今回は違った。すごい一つ一つ引っかかるし、なんか今まで作業的に聞いていた事に自分自身の感情が乗るようになっていたと思う。
それは多分俺が大学に入って、今後の人生について考えるようになっていたからかもしれない。
聞いていて感じたことを言語化しておいた方がいいと思い、初めてnoteにしてみようと思った。思い出しながらなのと、文章書くのがスーパー苦手ということもあり、抽象的且つわかりずらいかもだけど、俺のただのメモだと思って見てくれると嬉しいです!
グランパの歴史
話を聞いている中で、中々やべえ人生していると同時にアントレプレナーシップ半端ないと思った。そして、所々俺と似ているところがあって、これはロールモデルにしようと思った。だから、ここで覚えている範囲で言語化しようと思う。
1.母親の死
父親は幼い頃に亡くしていて、17歳の時に母親が亡くなる。
もともと変わっていたグランパは
「これで本当に自分を助けてくれる人は一人も居なくなった」
「これからは、全部自分一人で生きていかなくては行けない」
と覚悟を決めたそう。
2.N⚪︎Kへ就職・大学への潜り込み
そして、N⚪︎Kに就職してカメラマンしていた。
このストーリーも中々バグっている。グランパは宮崎の田舎の高校を卒業して、そのまんまN⚪︎Kに入社した。高卒でとっていたのはたった2人だけだったそう。しかもその中で、日本で初のテレビカメラの育成者に選ばれたらしい。
そして、N⚪︎Kで働きながら獨協大学に潜り込み自分が勉強したかった語学の勉強をする。
しかし、あまりにも忙しく同僚が過労死。大学にも全く通えていなかったので、大学に通いたいという理由で退職をしようとしたが、ここでめちゃくちゃ揉める。結果、大学卒業したら再入社を確定させれるという、提案をしてやめたらしい。(結局これは破って入社してない笑)
ちなみに、グランパは台のテレビ嫌い。妹が幼いことAKBになりたいって言った時に本気で怒って止めていたのを思い出した笑
多分、この時代によっぽどの闇を見てきなのであろう笑
3.塾の事業を始める
大学在学中、収入を得るためグランパはたまたま知り合いが経営していた、塾で働いた。大学時代の英語力を活かして、英語を教えていた。
そして、次第に自分で教材を作ったり、自分で集客するようになった。ぶっ飛んだ性格もあってか、すぐに生徒を60人くらい集めるようになり、その後独立をした。その塾では、英語の教科だけで400人ほど生徒を集めるようになったそう。ここまでの規模になってしまったら、もう大学も通う時間がなく、結局3年で中退笑
ただ、生徒が増えるにつれて、求められる物が、実用的な英語から受験英語になってきて、嫌気がさしてパッとやめてしまった。
「俺は受験なんか大嫌い。自分の学びたいものを学びたい場所でがむしゃらにやればいい」と言っていた。
俺がEMCすんなり入れたのもこの価値観のおかげかも笑
この我流を信じて形にする姿勢と、自分が違うと思ったら、すぐやめれる行動力が半端ない。
4.貿易の事業を始める
職がなくなったグランパは、当時まだレアだった英語のスキルを活かして、親戚がやっていた貿易の事業を行い、稼いでいた。アメリカと日本の貿易をやっていたそう。
そして、その傍らなぜか家を作りたくなり、3500万かけて自分の手で家を作ったらしい。そして、これ最終的に金持ちの台湾人に1億で売れたらしい笑
ちなみにこの頃にはもう3人の息子がいた。俺の父はこの頃小学生くらい。
ここまでだけでも、当時大企業安定主義の社会の中で、そして家族5人を抱えながら相当おもろい生き方をしていると思う。でもここからがさらにぶっ飛んでる。
5.完全ノープラン渡濠with家族
N⚪︎K時代にはまっていたヨットをずっと続けていて、そのハマり具合が異常すぎて、もっと極めたくなってしまった。
だから、完全なーーんも決めないで、オーストラリアに家族を巻き込んで移住した。
片道切符だけ買って、オーストラリアに行った。でも、本当になんも決めてないから、最初はホテル暮らししながら新聞の募集から家を探す。でもそんなわけの分からないアジア人に貸してくれる家なんて中々ない。ホテルにずっといても金がなくなるから、モーテルに住むようになる。家族5人で
そして、家族には、
「日本に帰ることは縛らなくない、日本人と関わるな、とにかく英語を勉強しろ」と本気で言っていたそう。ちなみに私の父はこの時中学2年生。正気の沙汰じゃない笑
6.爆運の持ち主
やっとの思いで見つけた家。庭の掃除をしていた時に、たまたま話して仲良くなった人がオーストラリアの近所の人が、政府の貿易関係の偉い人だったらしく、そこで、日本とオーストラリアの貿易のビジネスに繋がり、そこでなんとか稼ぐ術を得れたらしい。
その後もオーストラリアでヨットクラブに入ろうとしたら、差別されて入れずブチギレて、弁護士沙汰にして無理やり入ったり、向こうのヨット制作会社を買収してそれで生計をたててりと、ぶっ飛んだことの連発すぎて、もはや全部覚えてない笑
7.帰国
その後現地で妻(俺のおばあちゃん)と離婚し家族を残して、宮崎に戻る。
宮崎では、ど田舎にログハウスを自分で作ったり、そこで、また小さな英語教室を経営したりと相変わらず多動症な人生を過ごしている。帰国してからの話は聞いてないから、その間にも色々あったのであろう笑
自分を生きろ・がむしゃらに努力しろ
とにかく、繰り返し言われた
「どんな生き方をしてもいい、金なんて稼がなくてもいいからとにかく自分を生きろ、そして絶対中途半端にやるな、がむしゃらに努力しろ。時には死に物狂いでやらなきゃいけない時もある」
(是非ともアントレプレナーシップの授業に来て頂きたい笑)
そして、多分俺の性格はめちゃくちゃグランパに似ていると思った。
勢いでバカやることに幸せを感じる事、自分の考えを曲げない事、人を頼れる能力、とか色々。
だから、うまくロールモデルにしたいところはしようと思った。
今後の自分
じゃあ、今の俺とグランパの違いはなんだろうか。一番は「吹っ切れ力」だと思う。もう後先考えず、何とかなるというマインドで完全に吹っ切れる。
「吹っ切れるのには犠牲はつきもの」
こう言っていた。本当そうだと思う。俺は、全てを手に入れようとしてしまう癖がある。それで、結果全部中途半端になる。そんな甘くないんだから、もう吹っ切れるしかないと思った。
吹っ切れて、がむしゃらにやるしかないと思った。
今まで俺は、つずける事=努力みたいな固定概念があったように思う。だから、「自分を生きる」と「がむしゃらに努力をする」この二つに矛盾を感じていた。
でもそうじゃなくて、自分を見つける過程で絶対右葉極性あるし、人間は多面的で自分なんていくつもあるんだから、目の前のことにがむしゃらになるべきだと思った。
そして、そのためにもぶっ飛んだ仲間がたくさん欲しいと思った。そのためにもと言うより、その結果?なのかな
とにかく目の前の事にがむしゃらになろう。ふっきろう。
PS.熊谷家
こんなグランパの性格もあってか、今思えば熊谷家全員バグってる。ちょっと紹介と言う名のぶっ飛び親戚自慢をさせてほしい。
おばあちゃん:シドニーで現役でジャズシンガー
父親:25歳くらいまでガチでロックバンドを目指し、母親がもうやめてくれと泣くほど練習しまくっていた。(学生時代けつまで髪を伸ばしていた)
ほんで自分の才能の無さを感じ、ふとやめて、会社員(シュレッダー係)になる。そこから、Slack Japanの立ち上げまでするように上り詰める。
おじさん:オーストラリア時代、ピアノの世界レベルのコンクールで優勝。高卒で就職し、今はBank of America メリルリンチで取締役を務めながら趣味でDJをやる。途中急にトラックの運転手になりたいと思い、1年トラックの運転手になって、またBank of Americaに戻る。
俺も子供や孫から自慢される人になりてえな
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