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復讐について考える

筆者は考えることが趣味と言うか、呼吸するようにいつも何かをずーっと考えているのですが、考えに耽っていた時ふと、

復讐は良くない!○○もそんなこと望んでない!
悲しみの連鎖は断ち切らなきゃ!

と、復讐廃止漫画を最近読んでないなぁと思いました。

具体的に何があったかと言うと中々思いつきませんが、「名探偵コナン」や「金田一少年の事件簿」でよく見られたシーンでしょうか。コナンや金田一少年が犯人に向かって「復讐は何も生まない!」と言っていたような気がします。

当時はそうだそうだ!!と思って読んでいたのですが、今考えてみると本当にそうなのかな?と思いますね。

そもそも復讐とかやられたらやり返すは人間にとっての欲求とか本能の部分に関わってきます。

よく言いますよね?やられたらやり返さないと舐められると。

人間は崇高な存在だと考えがちですが、先人たちの努力や働きによってこの地球で覇権と地位を確立しただけで、本質的にはただの知能の高い動物です。動物の世界は皆様ご存じ弱肉強食の世界です。弱いものは強いものに命を奪われるのがこの世の常です。だからこそ動物によっては逃げる力を増したり、擬態する能力を身に着けたり、生き抜くために努力をしてその命を守るのです。

人間も同じで、強いものから身を守るためには弱みを見せないように自分も強くあらんとする、強く見せようとするのが世の流れです。弱みを見せてしまうと集中砲火を浴びたりします。それがいじめですね。

精神が成熟しきらないうちはより動物の本能が勝るので、強いと自分で思っているものは自分を強くみせようと弱い相手を虐げるのです。それで快感を得て同じことを繰り返します。大人で同じことをしている人間は精神が未熟で幼稚なので同じことを繰り返す訳なのです。

そんな人間から回避しようと思ったら、自分も強くなるか、味方を作るかしかありません。そしてちょっかいを出して来たら反撃をしないと標的にされてしまいます。人間は自らでは気づかぬうちに成長期にそのような戦いをしてきているのです。

もちろん、そんな動物的世界観で生きていない人たちも大勢いるでしょう。それはご両親からきちんとした教育を受けて、きちんとした教育機関でしかるべき大人がいて、しっかり教育を受ける環境があればそんなことは起こらないはずです。

しかし現実として大半の人間は所属している環境によってきつい戦いを強いられるのです。スクールカーストなんて言葉が当たり前の様に存在し誰もそれを文句を言わないのです。差別にNOを突きつけるこの世の中になってもです。

前置きが長くなりましたが、要するに動物的環境で勝ち抜く、平穏に過ごすためにはやり返すことも大事なのです。これは明言します。決して暴力を推奨している訳ではありません。しかし、力で向かってくる相手には力で対抗しないといけない場面はあるのです。世の中で暴力で泣きを見ている子供たちはいっぱいいると思います。それでやり返したらダメ!いじめている子と同じになるよ!なんて教えていますが、そう教えるならその真意まで子供に伝わるようにしっかり話さないと、泣きを見るのが当たり前なのが社会なんだと歪曲して世の中を見るようになってしまいます。「手を出したら負けだよ」というのは法律があるからこその言葉ですが、実際に手を出された方が負けていることも多々あります。

だから筆者は、暴力はダメだけど自分を守るために使う力と大切なものを守るための力なら使って良いと教えるようにしています。そもそも暴力は相手を殴る全般の話では無く、誰彼構わず意味も無く暴れるように相手を殴る行為が暴力です。自分を守るための力と大切な物を守るための力は正当防衛です。日本も自衛隊ってあるじゃないですか。何も武器が無いと他国から攻撃されやすくなるから力を持ち、やられたらやり返す準備をしているからですよね?

それなのに子供達にはやり返すことはダメと機械的に教えているのは筋が通らないと感じます。正当防衛であるなら力を行使することは決して悪では無く正当防衛だと教えていくべきではないでしょうか。

そういうことは皆分かっているから、復讐劇やスカッとする話が人気なんだと思います。やり返したら怒られるから他人の話を聞いて自分の気持ちを昇華させるのです。

それでもそんな教えが流行っているのは、一括で暴力を締め出すような教育をしないと治安が悪くなるからでしょう。筆者の主張が仮に通るとすれば次に考えられるのがアメリカのような銃携帯社会です。

アメリカは自衛権が保証されていますから銃の携帯は権利としてあります。しかしそれで平和が守られているかと言うと全くそんなことはありません。年々銃による凶悪犯罪は増加しており治安は悪いです。

日本も教育として正当防衛を推奨すればおそらく自衛は可能になるでしょうが、そこら中で喧嘩が多発し治安は悪くなるでしょうね。ルールも無い喧嘩を容認すると死者が出る可能性もあります。だからこそ日本は治安維持の為に暴力を一切容認しない社会づくりをしているんですね!

と、なれば良かったのですが、弱い者いじめを行う者、犯罪を犯す者を社会が野放しにしているので現実として前述の通り起きている問題は弱者の泣き寝入りです。これは本当に由々しき事態です。

人間には少なからず相手に危害を加えることを喜びとする、おかしい人間は紛れ込んでいます。それは本心からか何かに植え付けられたかは分かりませんが、そういう人の理という物から外れた人間はいるんですね。

日本は憲法で基本的人権として誰でも平等に権利を有していると定められている訳ですがもちろんこれは上記のおかしい人間にも当てはまる訳です。これは別におかしくはありません。どんな人間も日本に住んでいる以上は人権は尊重される。素晴らしいことです。

しかし、権利が守られるのは犯罪を犯した者、いじめをしたもの、誰かに危害を加えた者の権利が積極的に守られていると思わざるを得ないのが現状です。

パッと例が思い浮かぶのが1999年の光市母子殺害事件の犯人です。

ここに書くのが苦しくなるほど胸糞の悪い事件なのですが、当時少年だった事件の犯人は最終的に死刑判決がでましたが、判決までに13年かかりました。13年です。

強姦してお母さんを殺害し、娘を床にたたきつけて財布からお金を奪い、友人とゲームセンターで遊んでいた犯人です。しかも水道局員を装い明らかな計画的な犯行であるにも関わらず、未成年であること責任能力の欠如を理由に弁護団が減刑を求めて当時大問題になりました。

どんな犯罪者にも権利はあり、弁護士をつける権利もあるのは分かります。しかし、それで遺族やお父様の権利を踏みにじるのはいかがなものかと率直に思います。しかも当時犯人が友人に送った手紙には反省の欠片も見えないおよそ人間とは思えないような内容だったのです。

平和に暮らしていたのに、唐突に妻が強姦され殺され、一人娘も無残に殺されました。仮に責任能力の欠如による犯行とされ、仮に無罪とされたらどうでしょうか。それが司法による現代社会の判断だとしたらどうでしょうか。これを書いている筆者はそう考えるだけで自分が怖くなります。

自分の最愛の存在を奪われ、犯人は全く反省せず舌を出して笑っていると知ったら...

まず確実に復讐したいと強く願うことでしょうね。しかし、もしあの世なんてものがあって最愛の妻と娘がまたひどいことをされるかもしれないと考えたら...自分の命を絶ってもおかしくはありません。このままひどい世界に居続けるより命を絶って家族に会いに行こうと考えるのは必然であると思います。

お父様は実際にそう考えられ、遺書を準備したそうですが、当時事件を担当した検事から涙ながらに一緒に司法を変えて下さいと懇願され、妻と娘の為だけでなく、今後の日本の未来の為に立ち上がり、最後まで戦い抜きました。お父様には頭が下がりますし非常に深い畏敬の念を感じます。

筆者はそこまで考えが及ばずに復讐を考えてしまうことでしょう。

東野圭吾著「さまよう刃」では、少年に娘を強姦された末殺されたことを知り、復讐を行うのですが、警察には犯行を宣言した上で自首をするから今だけは捕まえないでくれと手紙を送っています。筆者も全く同じことをするかもしれません。

司法で裁けないならこの無念をどう晴らすのか。娘の無念をどう晴らすのか。社会にはルールがあると理解した上で行動するでしょう。

自由に復讐を認めたら秩序が壊れてしまう。だから復讐は国だけが保有する権利とするとされています。ですがそのルールが不完全であるのに一方的に感情を抑圧されたら行動に至ってしまうのは必然です。復讐という無念を晴らす行為を止めるなら、国がその司法というシステムを完璧にしなければこの疑問や問題は止みません。

少なくとも社会的にとても許容できないよう凶悪殺人犯罪を犯した者が権利を主張する場合は殺された者の得られるはずだった権利と相殺させてそれが負に上回れば権利を剝奪し、年齢、性別、人種、責任能力、更生の有無問わず、死刑という選択があっても良いのではと思います。もしくは終身刑として永遠に社会復帰をさせない間接的な死刑があっても良いと思います。

権利を主張して仮に無罪だとしてそんな危険人物を社会と言う野に放ってまた同じ犯罪を犯したら国や司法は責任を取れるのでしょうか。ちなみに少年Aは死刑にはならず、本を出版し現在では名前も変えて保護観察をされた状態で社会復帰をしているそうです。更生しているかそうでないかは本人にしか分かりませんが、複数人殺害して社会復帰をしているのに、殺された子供たちはその権利も未来すらもありません。

これが司法の限界なんですよ。

確かに死刑にしても殺された子供たちは戻ってきません。しかし無念は少しは晴れるでしょう。次に進むためにも無念を晴らすことは重要なのです。

実名報道に関しても、加害者は守られ被害者は全てをさらけ出されることは半ば当たり前の様な状態になっていました。

こんなことを野放しにして先送りにしているのは果たして正しいことだと言えるのでしょうか。

これが司法の限界だと決めて泣き寝入りを推奨する様な国であっていいのでしょうか。

筆者には分かりませんが、少なくとも悲しい事件を一つでも減らせるように他人には優しくありたいですね。



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