【Vol. 15】カテゴライズする人と、される人
人びとを恣意的にカテゴライズするのは、混沌とした社会を単純化して理解できるから、ラクだ。
労力を要する「相手の議論の裏に隠されている背景を探り出す」という“面倒な作業”を欠けば、カオスな社会がシンプルに見えるようになる。
シンプルを好む人は多い。
換言すると、複雑さをそのまま受容できる人は少ない。もっと言えば、それをそのまま受容しようと努力する人は少ない。
だから、みんな、まったく異なる人たちを好き勝手にカテゴライズして、勝手に自分なりの方程式と解をつくり出す。
その“面倒な作業”を遂行するための“忍耐力”と“想像力”を欠く人と付き合うのは、自分自身が消費されている気分になる。疲れる。こころが傷む時もある。
もしかしたら、自分も無意識的にまったく異なる人たちを好き勝手にカテゴライズして、目の前の他者を傷付けていることがあるかもしれない。
言語という意思疎通の為のツールを獲得した時点で、カテゴライゼーションは不可避的なのかもしれない。
“同じ”言語でも、決して“共通言語”となり得ない言葉を通じてでしか相手を知ることができない世界線に住む我々にとっては、なんとも皮肉な事実だ。
「相手の議論に沿って自己と対峙すること、し続けること」は、やさしさであり、人とのつながりのなかで生き心地の良さを見つける為には、不可欠な作業なんだと思う。
だからその作業が自分が持つ多くのエネルギーを消耗する主体であっても、わたしはそれを蔑ろにしたくはない。
「相手の議論に沿って自己と対峙する人、し続けようと努力する人」
そんな人たちで溢れる惑星があったら、その次の悩み種はどんなものになるのだろうか。
見てみたいものだ。
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