誰も彼も美文麗文に親を殺されたのかってぐらい「美文麗文はやめとけ」と口をそろえて言い立てるので俺は中指を立てた

 小説『Fate/zero』のクライマックスで、ライダーとウェイバーが最後の戦いに赴く際、英霊馬ブケファラスにまたがって夜の街を駆けてゆく時の記述が狂おしいほど好きすぎて、美文麗文はやめとけマンが現れるたびに「あぁ、こいつはライダーとウェイバーが最後(中略)駆けてゆくシーンをアニメでしか知らんクチか……哀れな……きっと真の美文というものに巡り合うことなく、その素晴らしさを理解することもなく一生を終えてゆくんだな……いったい何のために生きてきたんだろうな……」という概念マウントを即座に脳内で組み立てて相手を憐れむことにしているのでどうでもいいのだが、しかし肝心の『Fate/zero』が我が家の奥地で多次元的に折りたたまれながら無限に自動成長してゆく阿房宮にして蔵書院たる《死と退廃の伽藍神域》のいずこかに散逸し、徴用した人足たちでは発掘の目途も立たず、仕方なくワードナの迷宮や梯子山スケイルを踏破した冒険者たちを雇用して探索をさせた結果として犠牲者が続出し、あなや『Fate/zero』は混沌と狂気の無限回廊の彼方で永遠に失われてしまったのかと扇子で口元を隠しながら雅に嘆いていたのだが、このたび小説を執筆する上で『十兵衛両断』を読み返す必要に駆られたので、それらが埋葬されている比較的浅い階層の探索、というか親征に挑んでいたところ、あっさりとさまざまな副葬品とともに『Fate/zero』が出土してきて俺の脳内考古学会が騒然とした話はしたっけ?

 してないわ。

 出てきたんすわ。

 したらお前、読み返すじゃないですか。最終巻の当該箇所を。

 そんな異様な光景の中を、ただ一騎、我が物顔に駆け抜ける英馬。躍動するその背中に運ばれて、ウェイバーは死地へと馳せる。すぐ背後には、分厚く雄大な英雄王の胸板が、その高鳴る鼓動すら伝わってくるほど間近にあった。
 もし仮に今夜を生き延びたとしても、この張り詰めた静かな昂揚を、ウェイバーは生涯忘れるまい。世に『真実のとき』と称される時間がある。すべての欺瞞や粉飾から解放された剥き出しの魂が、見渡した世界の在りようを受け止めて、ただ心震わせるばかりの瞬間。今まさに彼が噛みしめているものこそ、それだった。この世のあらゆる謎と矛盾に、答えもないまま納得する瞬間。生きる意味も、死ぬ価値も、言葉にするまでもなく判然と感じ取れる瞬間。人生を苦難にする迷いと不明のすべてから解放された、それは至福の時間であった。

 胸が締め付けられる。この文章が表現しようとしているものに対して、「美しい」という賛辞すら不敬であろう。やはり虚淵先生はアニメ脚本とかどうでもいいんで小説を書いてほしい。古橋先生もそうなんだけど、俺が崇敬する真の男たちはなんでアニメ脚本に関わると小説をさっぱり書いてくれなくなるんだろう。その点冲方先生はアニメ脚本に関わってもちゃんと小説を書き続けているのでえらい。無限にえらい。

 話がそれた。美文やめとけマンは『Fate/zero』を五億回読み返してから俺の視界に入ってほしいものである。朕は立腹である。ぷんすかぷん。

 それはそうと副葬品もすげぇのが出てきたわけよ。って何が副葬品だよナメてんのか。夢枕先生ナメてんのか俺。よりにもよって夢枕獏先生を添え者扱いとか凌遅刑も生ぬるいよ。大逆罪断絶エクスコミュニケイト・トライトリスものだよ。

 『上弦の月を喰べる獅子』である。螺旋蒐集家と、肺病を患う岩手の詩人が、なんか知んないけどフュージョンして「アシュヴィン」という名の一人の人間となり、「蘇迷楼スメール」と呼ばれる無限の斜面が続く異世界に飛ばされる話だ。な、何を言っているのかわからねーと思うがとにかくそうなんだ。

 螺旋は美しい。
 美しいものは自然である。
 美しいものは完璧だ。
 ひとつの完璧な秩序でありながら、矛盾や混沌すらも、螺旋はその内に含んでいる。秩序コスモス混沌カオスとが、身をからませあいながら伸びていく渦動ダイナミズムそのものだ。螺旋は、閉じ、そしてまた開いている。始まりと、終わりと、そして永遠とがその裡で溶けあい、羊水に浮かんで時を夢見る胎児のように、真理がそこで眠っている。

 きっと夢枕先生が幻視したもの――何かの真理や美意識を、俺は完全には受け取ることができないのだろう。だが、理解が不完全であるからこそ発生しうるエモみというものがこの世には確かに存在しているのだ。この感動、この胸の高鳴りにつける名前を、人類はまだ思いつけていないが、それでいいのだとも思う。

 『ノスタルギガンテス』という小説で、「なんだかよくわからないもの」に名前をつけることによって、「なんだかよくわからないもの」が本来持っていた意味量というか、感動量、のようなものが見る影もなく惨たらしいまでに目減りしてゆくということへの悲嘆が描かれていた。俺が感じているものは恐らくそれに近い。

 もう一つ、『キマイラ』も発掘したのだった。感情やカラテが昂ると、様々な生物がごっちゃになった異形の姿に変じてしまう謎体質を背負った少年を主人公とするバイオレンスアクション小説だが、その劇中詩がめちゃくちゃ美しくて、読み返したいと常々思っていたのだった。

 暗い巷の
 海の底から見あげていれば
 木々の梢は
 遠く星を呼吸しているようだ
 あの枝先は
 すでに星雲の世界にあって
 おれたち人間どものとどかない
 透明な言葉でもって
 神について語っているのだ

 狂おしい。切ないほどの憧れが胸を満たす。

 ここまでわずかな言葉の連なりで、これほど豊かに神々しいイメージを喚起できるものなのかと。

 海と大気圏を重ね合わせて考えるその発想の奇抜さもさることながら、「宇宙に枝葉を広げる樹々」という絵の、なんと驚異に満ち溢れていることだろう。そして、不安定に揺らめく水面越しに見える、蒼く染まった樹冠の、なんと遠く尊く切ないことだろう。

 俺は息苦しい水の底に横たわって、ごぽごぽ無様に泡を吹きながら、手を伸ばしているのだ。

 決して届きはしない手を、伸ばしているのだ。

 届かないからこそ、良いのだ。

 で、この詩には後半部分があってだな。

 だから人間どもは
 空の見えない赤提灯の
 屋根の下で
 天にとどかぬうらめしさこりかためて
 吠えているのだ
 露路はあっちへまがり
 こっちへまがりして
 行きつくのはおんなじ面した露路だから
 そこからだって
 時おり星などひかっていたりするものだから
 人間どもはますます哀しくなって
 遠吠えばかりがうまくなってしまうのだ

 いや、うーん、前半だけでええんちゃうのん? とか思ってしまうのだ。

 手が届く範囲の世界には、あまり興味が湧かないのだ。

 こういうことを書くと何か危ない人のように思われるかもだが、いやいやだってそんな、せせこましい人間のせせこましい悲喜こもごもなんぞ現実で飽きるほど触れてんやん。虚構の中でぐらい全然ちがうものに触れたいですやん、と思う。

 「さぁ、君のような根暗なオタクが主人公ですよ!! 感情移入してね!!!!」とかいう作品には「うっせぇ擦り寄ってくんなボケェ!!」と反射的に考えてしまう。もっと違うものを食わせろと。はるか遠い話を聞かせろと。自己投影とか感情移入とかそういうのいいからマジで。世の物語はもっと俺に冷たくすべきだと思います。

 ところが、これが虚構ではなく現実の人間の現実の言葉だった場合、また異なる機序の反応が出てくるのだが、まぁそのあたりはいずれである!!!!!

何の話だっけ?

 えっと、なんだっけね。忘れたわ。宇宙のように美しい文章に触れると現実なんかぶっちゃけどうでもよくなるよね!!!!

 人生いろいろあるけどみんなも頑張って生きていこうぜ!!!!!!!!

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