夜天を引き裂く #5
彼女はいそいそとノートに書き込み始める。
『おつちいてください』
「落ち着いています」
『きゅうにこまります』
「あなたを困らせるつもりは一切ありません。これは僕の勝手な決意表明です。あなたは何の義務も負っていません。ご不要なようでしたら、僕はいないものとして扱ってください」
『そんなことしません』
「素晴らしい。お仕えし甲斐があるというものです」
絶無は口の端を吊り上げ、ふたたび座礼。
「これからよろしくお願いします、黒澱さん」
すると、ガラリとふすまが開いた。
「おーっす絶くんっ! おねーちゃんは晩御飯の支度を完了しましたよっ! ……って、なに、この状況」
上半身を床と平行に倒し、平伏する絶無。それをおろおろと見守る少女。
「しかるべき人にしかるべき敬意を払っているんだよ。ここは姉さんも黒澱さんに平伏しないと」
「えっ!?」
「さあ、早く」
「えー……」
釈然としない表情で、加奈子も絶無と並んで礼。
その後、「もう時間も遅いしさ、お泊りしようよるーちゃんっ」と子供のようにゴネる加奈子を引き剥がし、絶無は敬愛すべき黒澱嬢を家まで送っていった。
「それではまた明日。学校でお会いしましょう」
余裕のない挙動でぺこぺこ頭を下げる黒澱さん。
絶無は目を細めてその様を見ていた。少し、いたずら心が沸く。
微笑みながら、手を差し出した。
どんな反応をするのか、少し気になったのだ。もちろん、彼女が困ったような素振りを見せたらすぐに引っ込めるつもりだった。
ところが。
んく、と彼女が小さく喉を鳴らし、絶無の手を凝視しているのがわかった。滴る欲望の混じった視線だった。
そろりと彼女の手が伸び、細かく震えながら絶無の握手に応えた。
瞬間。
《指/ほっそり/指先/おなかすいた/きれい/指/おいしそう/指先/かわいい爪/おなかすいた/おなかすいた》
感情が、流れ込んでくる。絶無にはあまり縁のない、粘着質な欲望。
一瞬、くらっときた。
これは、何だ?
疑問に思った瞬間、彼女はぱっと手を離した。一歩二歩とあとじさり、石畳の段差につまづきそうになる。
「……ぁっ」
ぺたりと尻餅をつく。その顔は、耳まで真っ赤になっていた。
立ち上がると、もう一度頭を下げ、逃げるように家の中へと入っていった。
「ふむ……?」
絶無は顎を掴み、首を傾げる。
●
黒澱瑠音は後ろ手で玄関を閉めるや否や、へなへなとその場に崩れ落ちた。
心臓が早鐘を打っている。今日は色々なことがありすぎだ。
「くが、ぜつむ……」
その響きを、口の中で転がす。
不思議な人だった。
いつも自分をいじめるあの人たちや、夜の公園で遭遇した堕骸装などに対しては苛烈な攻撃衝動を露にするのに、なぜか自分には優しくしてくれた。
彼がどういう基準で人に接するときの態度を決めているのか、よくわからない。
しかし――ちょっと忘れられそうにない個性の持ち主である。
ごくり、と喉が鳴る。
――指先が、綺麗な人だった。
久我絶無について最も印象に残っているのは、その点である。
凶暴さと繊細さを併せ持つ、まるで彼そのもののような指先。人の手では捕らえがたい、美しい獣のような、あの指先。
「……っ」
思い出した瞬間、瑠音は衝動的に自らの体を抱きしめた。
右手は脇腹に。左手は胸元に。
想像する。
この手は、あの人の手だと。この指は、あの指なのだと。
触れられた箇所が熱を持ち、ぞくぞくとした震えが背筋を走る。
――飢餓のもだえ。
彼女は飢えていた。
認識されることに、飢えていた。
――黒澱瑠音は、悪魔の一柱である。
比喩ではない。
伝承や伝説、外典や黙示録などで語られるデーモン、シャイターン、ディアボロス。そのモデルとなった種族の一員である、らしい。
そして悪魔たちは、自らを霊骸装と呼んでいる、らしい。
らしい、というのは、彼女自身にもその記憶が曖昧であるからだ。
霊骸装としてではなく、人間として生を受けた。何も知らずに幼少期を過ごし――しかし最近になって、超常存在としての記憶が蘇ってきた。
部分的ながらも。
――認識子が、足りない……っ
やっとの思いで自室のベッドにたどりつくと、瑠音は力なく身を投げ出した。
久我絶無が何を思ったかいきなり堕骸装に挑みかかり、瀕死の怪我を負ったとき、瑠音は物陰からその様子を見ていたのだ。
正直、焦った。まだお礼も言っていないのに。いやそんな場合ではない。
初めて見る人間の無残な姿。流れ出た鮮血、裂けてささくれた肉、はみでる臓物。
きもちわるいと思った。恐ろしいとも思った。だが胸の奥底で、きれいだという思いがまったくなかったと言い切れるだろうか。
そんな自分が、ショックだった。悪魔の一員であることを、不意に思い知らされた気分だった。
だから、否定したかったのかもしれない。ムキになってしまった。
霊骸装としての権能を、このとき初めて使った。
生まれて、初めて。
――ここまで消耗するなんて……っ
人一人の傷を癒すのに、これほど活力が失われるとは思いもしなかった。
早急に認識子を補充する必要がある。
だが――その方法が問題だ。
認識子とは、「人間が物事を認識した際に発生する力」である。第五のゲージ粒子であり、プネウマともルーアハとも呼称されてきたが――その本質は単純だ。
簡単に言えば、人間に認識されればされるほど、認識子を得ることが出来る。
人間が持つ五感――視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚。それらさまざまな感覚を通じて、悪魔たちは生きる活力を得ているのだ。
しかし、ここまで消耗したとなれば、ただ見られるだけでは不十分である。
積極的に人間と触れ合う必要がある。
瞬間、瑠音は絶無の指を思い出した。あの指と触れ合った時に流れ込んできた、ねっとりと熱く暗い認識子の甘美。
もしも、握手だけで終わらず、それ以上のことをしてもらえたら――
「~~~~~っ!」
耳まで真っ赤になった顔を、枕に押し付ける。
――無理無理無理無理無理!
幸いにして、瑠音自身にも人間としての認識能力が備わっており、自分で自分を認識することによってある程度の認識子を得ることはできる。
しかし、霊骸装として存在を保つためのエネルギー量は、彼女の自意識から生産されるエネルギー量と等しいため、待っていてもこの状況は改善されない。
「……ぁ……ぅ……っ」
闇の中、一人悶々と、魂の飢餓に耐えつづけた。
●
箸を口に運びながら、久我絶無は考える。
――アンゲロスとは何か。
昨晩の観察結果から、絶無はあの生ゴミの正体について思いを巡らせてみる。
……愚鈍カツ本能的ナ挙動カラ、大シタ知能ハナイダロウトイウコト。巨大ナ脳ノ下ニ制服姿ノ肉体ガアッタコトカラ、人間ガ何ラカノ事情デ変異シタモノト思ワレルコト。アルイハ人間ニ寄生シタモノデアロウコト。ソノ目的ハ人間ノ殺傷デアッテ、捕食デハナイコト。何ラカノ有限ノリソースヲ消費シテ、物理ヲ超越シタ怪能力ヲ発揮デキルコト。以上ノ情報カラ類推ヲ進メル。アレホド特異ナ生物ガ社会ニ認知サレテイナイ現状ヲ考エルニ、ホボ間違イナク人間ノ姿ニ戻ルコトガ出来ルト思ワレル。シカシ、「大シタ知能ハナイ」トイウ前提ニ照ラシ合ワセテミルト、タダノ学生ノフリヲ長期間ツヅケルノハ難シイ。怪物ノ姿ニナッテイル間、凶暴ナ別人格ガ肉体ヲ支配シテオリ、アンゲロス本人ハ自分ガ超常存在トナッタ自覚ガナイノカモシレナイ。非常ニ驚クベキ生態ト言エルダロウ。最モ特筆スベキハ、奇妙ナ現象ヲ引キ起コス能力デアル。昨晩戦ッタ個体ガ発揮シタ空気弾ノ破壊力ヲ見ルニ、尋常ナ生命活動カラ捻出デキルエネルギーノ限界ヲ明ラカニ超エテイタ。ツマリアンゲロスハ、通常ノ生物トハマッタク異ナル代謝系ヲ持チ、エネルギーノ補給方法モ単ナル食事ナドデハナイト考エラレル。ソシテ、知能ガ低ク、本能的ナ判断シカデキナサソウナ様子ヲ鑑ミルニ、ソノ行動ハスベテ自ラノ生命維持ニ直結シテイルハズダ。スナワチ人間ヲ殺傷スル生態ハ、エネルギー補給ト無関係デハナイノカモシレナイ……
結論:よくわからない。
無意味な思考活動であった。
「ふむ」
気にかかるのは、昨晩重騎士が発した『またアンゲロスか』という一言である。この言葉からは二つの事実が浮かび上がってくる。
ひとつ、アンゲロスは複数いる。
ふたつ、重騎士の本当の標的はアンゲロス以外の何かである。
極めて重大な事態と言わざるを得ない。もしもアンゲロスというものが昨日遭った脳怪物のようにアホくさい殺人行為を繰り返す存在であるのなら――
――残念ながら絶滅してもらうより他にないな。
ともかく、見極めねばならない。
アンゲロスは、果たしていかなる存在なのか。
「というわけで伺いたいのですが、アンゲロスとはどういう生き物なのでしょう?」
絶無は横に顔を向けた。
ビクッ、と少女は震え、飲んでいたウーロン茶でむせる。
昼休み。学校の中庭である。
ベンチでひとりぽつねんと昼食を摂っている黒澱さんを見かけ、声を掛けたのだ。
例によって例のごとくあたふたと要領を得ない反応だったが、特に嫌がっているそぶりではないので、隣に座り弁当を広げたところである。
黒澱瑠音はひとしきり咳き終えると、愕然とこちらを見ていた。顔の下半分しか見えないにも関わらず、表情豊かな人である。
どうしてその名を知っているのか、と問いたげだ。声には出さず、眼も見えないのだが、なんとなくわかる。
「あの無骨な鎧甲冑の男が口を滑らせてくれたからですが……あの、大丈夫ですか? 僕はあなたを困らせていますか?」
彼女はぶんぶんぶん、と過剰に首を振る。前髪が舞い上がって一瞬どきりとしたが、残念ながら目蓋は固く閉じられていた。
「ふむ。質問を絞りましょう。黒澱さんは昨晩のアレ以外にアンゲロスを見たことはありますか?」
こくこく。
「そのアンゲロスは殺人を働きましたか?」
一瞬ためらってから、こくり。
「アンゲロスとは概してそういうものなのですか?」
どうしてそんなことを聞くんだろう、と言いたげな沈黙。
のちに、こくり。
絶無は思わず頬を歪めた。歯が軋る。
――ならもう、遠慮はいらないな。
ここからは、アンゲロスが誰なのかを特定する段階だ。
「アンゲロスは、自分が負った負傷を短期間で治す手段を持っていますか?」
彼女はたじろく。
「……っ」
あたふたと身振り手振りで何かを伝えようとするのだが、よくわからない。
イエスかノーで表現できる答えではないらしい。
「わからないということですか?」
ふるふる。
「基本的には回復手段を持っているけれど、状況から考えて昨晩の個体がその能力を行使できる可能性は低いということですか?」
こくこくこく。
「……ほほう」
絶無はポケットからスマホを取り出すと、アドレス帳から「下僕」のカテゴリを探し出してコールする。
一秒もしないうちに相手が応じた。
『絶無さま、お電話ありがとうございます。何か御用でしょうか?』
花の潤みを含む、落ち着き払った少女の声だった。
「手を借りたい。頼めるか」
『あら、光栄ですわ。華道部一同、絶無さまのために粉骨砕身働く所存でございます』
即答である。
「相変わらず躊躇わない女だな。今日、脚に怪我を負って学校を休んだ男子生徒がいるはずだ。そいつの名と居場所を調べ上げてくれ」
前回の接敵において、絶無はアンゲロスの脚(節足ではなく人間の方の脚)を関節技で外してやった。
何らかの事情により回復能力を行使できないのであれば、今も負傷はそのままのはずだ。
『了解しました。すぐに調査を開始いたします。その方は、絶無さまの前にお連れすればよろしいでしょうか?』
「いや、接触はやめろ。お前たちは調べるだけでいい。今日中に報告をくれ」
『了解しました。……それで、絶無さま? たまには部に顔を出して頂けませんと、他の子たちに示しがつきませんわ?』
「わかっている。次の花展用の構成について聞きたいこともあるしな。今回のことが終わったら、久々にお前たちの活けた花を見に行こう」
『お待ちしておりますわ。それでは失礼いたします』
「ああ、苦労をかけるな」
『あらあら、ふふ』
通話が切れた。
隣で黒澱さんが戸惑いまくった顔をしている。
絶無は肩をすくめる。
「情報網、というものを構築してみようと思ったことがあるのです。まぁ、結果出来たのはまったく違うものでしたが」
運動部の主将や各委員会の重役、教師、事務員、用務員など、学内に影響力を持つ人物に対し、あるときは力ずくで、あるときは言葉で、またあるときは弱みを握り、餌をちらつかせ、心を折り、ありとあらゆる手管を用いて自らの指示に従うよう馴致した。
もちろん、学校などという矮小な社会で実権を握ったところで大した意味などない。まさに井の中の蛙である。
実社会に出たときのための予行演習のつもりだったが……思わぬところで役に立った。
華道部以外の「下僕」――柔道部、空手部、剣道部などの武闘派――にも手早く電話をかけ、次々と同じ指示を下す。
「これでよし。すぐにでもアンゲロスの素性は特定されると思われます。雑事は下僕どもにまかせ、我々はどっしりと構えておきましょう」
といっても、昨晩の重騎士がすでにあのアンゲロスを滅ぼしている可能性も考えている。その場合は残念ながら自分の手で醜悪な存在を抹殺できなくなってしまうわけだが、致し方あるまい。
ただ、現状を見るにその可能性は低い。生徒が一人殺されたのなら、さすがに今この時点まで学校から何の音沙汰もないのは不自然だ。
ふと、視線を感じた。
いつのまにか黒澱さんは昼食をもそもそと平らげ、傍らの鞄からノートを取り出していた。
こちらに掲げられた書面は、
『堕骸装は人間です』
……そういう字なのか。
「えぇ、そのようですね」
彼女が何を言いたいのかわからず、相槌を打つ。
『あまり乱暴なことはちょっと』
「確かに。戸籍を持った人間を殺すのは相応のリスクが伴いますね。しかしリスクを恐れて大事は成せません」
「っ! ……っ……」
ぶんぶんぶんっ。
そしていそいそとノートに書き付ける。
『堕骸装とは、動物や赤ちゃんのように自己認識を持たない生命や、眠っていて極端に意識レベルが下がっている人間などと不正規な契約を交わしてしまったがために、認識子を生産する回路が構築されず、慢性的な飢餓によって暴走している悪魔のことです。』
いきなり話が難しくなってきた。
ひとしきり書面を睨み、要点をまとめる。
「……目を覚ました人間となら、正規の契約を交わすことができ、認識子とやらを生産する回路が構築され、飢餓に陥らず、暴走状態にもならずに済むということですか?」
こくこくこく。
うなずく彼女。