夜天を引き裂く #10
いくつかの壁を突き破り、十秒とかからずに橘静夜は悲鳴の発生源に到着した。
下駄箱が連なる一角で、饐えた匂いが立ち込めている。
「ヒッ、ひぃ……っ!」
一人の男子生徒が、尻餅をついている。
その視線の先には――案の定、堕骸装である。
――ぶるぶるぶるぶるぶる! ぶるぶるぶるぶるぶる!
巨大な芋虫そのものの頭をしきりに振り立てながら、汚猥な粘液を撒き散らしている。
頭の先からは、細かい繊毛の生えた触手が数本伸びているようだった。
いや、それを頭と称しても良いものか。人間の上半身を多い尽くすように、あらゆる方向へ巨大な芋虫が顔を出しているのだ。
冒涜の肉花。
足元には、槍衾のように無数の孔が穿たれた血まみれの死体が三つ、転がっていた。
いずれも、制服を着ている。顔もわからないほどの損壊ぶりであった。
ぎりり、と、巨大な拳を握り締める。
《静夜、魔戦が始まれば、こういった光景は何度でも繰り返されることになります》
頭の中で、ザラキエルの声がする。
『わかっている。速やかに処分しよう』
怒りを努めて抑えながら、応える。
静夜は恐慌に陥っている男子生徒の襟をつまむと、強引に立ち上がらせた。
『どこかに隠れていろ』
「ひぇぇ~!」
こけつまろびつ走り去ってゆく。
――ぶるぶるぶるぶるぶる!
次の瞬間、矢のように飛んできた触手群を一握で掴み取った。
雷光のごとき動き。静夜以外の誰にも不可能な反応速度。
『さて……お前たちが悪いわけではないが――』
ぐじゅりと握り潰しながら、睨みつける。
『――少し、痛い目を見てもらおうか』
力を込めて、腕を引く。
こちらにつんのめる堕骸装。
床を砕く勢いで踏み込んだ静夜は、異形の巨腕を開き、五つの禍々しい鉤爪を撃ち込んだ。
まるで豆腐のような手ごたえと共に、黄土色の体液が盛大に吹き上がる。芋虫の頭がいつくか抉り飛ばされ、床で激しく痙攣した。
振り抜いた腕を、今度は裏拳の形で薙ぎ払う。
濡れ雑巾を叩きつけたような音とともに、醜怪な肉花は吹き飛んでゆく。
――こんなものだ。
凶器に等しい両腕を苛烈に振るいながら、静夜は苦い思いを噛み締めている。
もとより、相手にならないのだ。堕骸装と霊骸装の間には、厳然とした差がある。
自己認識の有無――つまり自らが存在していることへの本質的な理解があるかどうか。
これが万全に備わっている人間(ほとんどがそうなのだが)と悪魔が契約すれば、認識の循環構造の中に自らを組み込むことにより、自動的に認識子を生み出す回路を構築できる。生産速度に限界はあるものの、半永久的に認識子を安定供給できるし、それを戦闘に利用すれば、
――まぁこの程度にはなる。
芋虫の集合体に拳を深々と打ち込む。体液が吹き上がる。
しかし、堕骸装にはそんなことはできない。人間側の認識能力に不備が生じているため、認識子の生産回路が構築されず、その力は自ずと限定されたものとなってしまう(この不備を補うため、堕骸装は本能的に人間を殺傷し、その中に蓄えられた認識子を吸収しようとする)。
だから、静夜は堕骸装に苦戦したことがない。強敵として記憶されるのは、例外なく霊骸装である。
――にも関わらず。
異形の肉塊を殴り潰し、削り潰し、叩き潰しながら、静夜は歯噛みする。
『俺は、いつも間に合わない……』
ぞぶり、と緑の腐肉の中にガントレットを突っ込み、そのまま持ち上げると、背後の壁へと振り向きざまに叩き付けた。
轟音。コンクリート壁が脆い土のように粉砕される。黄色い粘液が、放射状に飛び散る。
それが、とどめとなった。原形もわからぬほどに破壊しつくされた肉花は、わずかに発光しながら蒸発してゆく。
認識子の貯蔵が底を突き、骸装態を維持できなくなったのだ。抉り飛ばされた肉片や体液も、風に吹かれるように消えてゆく。
だが、その横に顔もわからぬほど損壊した死体が転がっている事実が、静夜の奥歯を噛みしめさせる。
間に合わなかった者たち。守れなかった者たち。彼らは今後も静夜の胸の裡に累々と横たわり、虚無に満ちた死に顔を見せてゆくことだろう。その目に恨みがましい色すらなく、ただひたすら無意味な空虚を湛えていた。
犠牲者たちの最奥に、五体満足の少女がひとり、腰の後ろで手を組んで佇んでいる。静夜と同じく白髪白皙の、悠然たる微笑みを浮かべた娘。
――カフ=ギメル。
反射的にその少女の名を口走りそうになって、静夜は猛烈な危機感に襲われる。駄目だ。今その名を言ってはいけない。思い出してしまうから。思い出してはならないことを。
振り払うように首を振る。
《静夜、あなたは現状ではよくやっています。必要以上に自分を責めるべきではない》
低く深い声が、ようやく無意識下の地獄から静夜を引き上げてくれた。
思わず、息をつく。
『……だがな、ザラキ。俺はこれに関して、妥協なんかすべきではないと思う』
刻々と舞い散ってゆく光の粒子の中から、横たわった少年が現れる。顔を横に傾けながら、のんきなイビキが聞こえてくる。
堕骸装の宿主だ。
《まぁ、向上心があるのは良いことです。もう少し半端な覚悟でヒーローやったほうが、あなたのためには良いと思いますがね》
『無用な気遣いだ。次、行くぞ』
《あ、言い忘れていましたが、ザラキエルです。最後のエルが重要なのです》
両肩で認識子の炎を勢い良く噴射。次なる敵を探して、鋼鉄の騎士は一個の弾体と化した。
……と。
その瞬間、学校中のスピーカーが一斉に音声を発した。
『あー、あー、生きる価値ゼロなゴミ野郎の代表格であるところの界斑璃杏に告ぐ。生きる価値ゼロなゴミ野郎の代表格であるところの界斑璃杏に告ぐ。聞こえているか? このカスが』
少しくぐもっていたが、紛れもなく久我絶無の声だった。
『辛抱の足らんフナムシ風情の考えることは本当にお粗末だな。脳みそをママの腹に忘れてきたのか? そんなだから僕の住所ひとつ特定できないんだよ間抜け。ウジムシ。下衆下郎。さて、今回の放送の意図を、愚かで哀れでこの先生きていたって何一つ良いことなどないであろうオマエでもわかるように説明してやろう。泣いて喜ぶべきだ』
――何をやっているんだあの莫迦は! 死にたいのか!
静夜は拳を握り締め、急激に方向転換。放送室に向かう。
『――僕はここにいる。僕を殺したいのなら来るがいい。もちろん罠だがな』
言いたいことだけ言って、ぶつりと放送は切れた。
●
――界斑璃杏。
その名を聞いたとき、秋城風太は自分の肩がびくりと震えるのを感じた。
「界斑、さん……?」
それは甘い痛みを伴った名前。
退屈と不安で満たされた日常に、突如現れた少女。
――風太お兄ちゃんはぁ、璃杏ちゃんの堕骸装なんですぅ!
キラキラとした目を風太に向けながら、彼女はそう言った。
――おねがい、璃杏ちゃんと一緒に戦って? ね、ね、おねがい~。
現代に生きる高校生のご多分に漏れず、閉塞感の奴隷と化していた風太は、むしろ自分から頼む勢いで、嬉々として彼女の軍門に下った。
堕骸装という言葉の意味も知らずに。
――これで、変わる。
きっと僕は、彼女と共に苦楽を乗り越え、なにか生きる力のようなものを成長させられるのだろう。
選ばれたのだ。
そう、思っていた。
だが。
「……っ」
たまらないものがこみ上げる。
――お前は特別なんかじゃない。あの女は、お前以外にもたくさんの男に同じことを言い、手駒にしているんだよ。
久我絶無の言葉が、重くのしかかってくる。
「どうすれば良かったっていうんだ……!」
あの人には、弱い人間の気持ちなんて、わからないのだ。
歯を食いしばる。
――確かめよう。
界斑さんが、本当に久我絶無の言うような人なのかどうか。
風太は立ち上がると、窓枠を乗り越えて病室から抜け出した。
●
――どいつもこいつも役立たずばっかりですぅ。
界斑璃杏は、こめかみをひくつかせる。
久我絶無の不愉快極まる放送を聞いた彼女は、この挑発に乗ることにした。どうせ相手は悪魔憑きでもなんでもないただの人間である。本来ならば手駒の堕骸装を一体差し向けるだけで十分すぎるのだが、「もちろん罠だがな」などとあからさまな挑発を行ってきた以上、それなりの備えはあるのだろう。
相手を舐めてかかるのはやめる。学校の各所で虐殺を繰り広げている手駒たちを一斉に放送室へと向かわせた。
のだが。
ぎりり、と歯が軋る。
『久我ァ! どこだッ!』
青銀色の巨体が、放送室で暴れ回っている。
――なんでこいつがここにいるですか!
鋼鉄の巨腕が振るわれるたびに堕骸装たちの肉体は裂け、潰れ、色とりどりの体液がしぶく。豪壮な体格に似合った、重く鋭い踏み込みによって放送室は揺さぶられ、寒気を催すほどの力で手駒が壁に叩きつけられる。
界斑璃杏は、この霊骸装を知っている。
これまで手駒の堕骸装たちを何体も葬り去ってきた、ヒーロー気取りのくそ虫ちゃん。
今回の襲撃は、もともと久我絶無を惨たらしく殺すために行ったものである。この重騎士が介入してこないように、空間閉鎖能力を持った手駒に学校を封鎖させていたはずなのだ。
なのに、なぜ。
首を振り、懊悩を追い出す。
『今は勝つことだけ考えるですぅ!』
《いいと思うよ》
璃杏と契約した悪魔――ツァバエルも同意した。
全身を充溢する認識子を練り上げ、事象変換。離れた場所にいる手駒どもに璃杏の指示を飛ばす。
タイムラグは一切なく、慣れれば対象が自分そのものであるかのような精度で操ることが出来る。《平穏の座》に連なる悪魔としては珍しい、強力な精神操作系能力である。
『認識子送ってやるですぅ! そのクソ虫ちゃんをバラバラにしちゃうですぅ!』
《いいと思うよ》
霊的な径を通じて、手駒たちに活力を分け与える。
放送室に集結させた手駒は七体。そのうち二体はすでに重騎士によって倒されている。
残る五体に、璃杏とツァバエルの認識子が供給された。損壊した肉塊の傷口からぐじゅぐじゅと再生が始まる。
『むっ……』
重騎士は、フードが形作る闇影の奥で、黄金の魔眼をしかめた。堕骸装が再生能力を発揮するとは思っていなかったのだろう。
『……いいだろう、倒れるまで潰し続けるとしよう』
破城槌を思わせる拳を握り締め、身を屈めた。瞬間、背中から認識子が噴射され、爆発的に突進。
向かう先には、口と眼と鼻と耳から異常に長い舌を生やした堕骸装がいた。人間の面影を残す姿だが、白くぶよぶよとした体は肥大化し、歪んでいる。
重騎士は空中で身を捻り、拳を大きく振りかぶった。
砲弾を凌駕する一撃が、激震する。
濡れた雑巾を叩きつけたような音。手駒の頭部が消し飛ぶ――と同時に、別の堕骸装が横合いから爪を閃かせた。
火花が上がる。青銀の前腕部装甲に受け止められたのだ。
冗談のような反応速度。
さらに四方から肉塊が殺到する。触手、節足、爪牙、毒棘――あらゆる攻撃器官が襲い掛かる。
硬質の悲鳴が連続する。
『ちっ』
璃杏と重騎士の舌打ちが、同時に響く。
――外れている。
五体がかりの同時攻撃に、重騎士は対応して見せた。巨大なガントレットが、重量を感じさせない速度で動き回り、すべての襲撃を止め続けている。鈍い光沢の装甲には、傷ひとつつかない。
――どれだけガンジョーな骸装態ですか!
『えぇ~い! このまま押し切ってやるですぅ~!』
《いいと思うよ》
恐らく、頑丈なのは前腕部のみだ。いそがしく両腕を動かして防御行動をとっていることからも、それは明らかだ。ならば、いつかは敵の集中力も途絶え、こちらの一撃が通るはずである。
そう思い直し、璃杏は次々と手駒たちに指示を飛ばした。
が。
『……面倒だ』
重騎士を中心に光の爆発が起こった。
実際には幾筋もの閃光が走り抜けただけなのだが、数の多さと眩さから、璃杏の眼には爆発のように感じられたのだ。
群がっていた手駒たちが一斉に吹き飛んでゆく。
『ひっ』
反射的に、璃杏は手駒とのチャンネルを切った。激しい光を直視するのは、まずいのだ。非常にまずい。
数瞬後、恐る恐るチャンネルを回復させる。
四方に吹き飛ばされた手駒たちが、のろのろと立ち上がりかけているところだった。
震える音叉にも似た唸りが、殷々と放送室を満たしている。
『今の、なんですぅ……?』
見ると、重騎士の周囲に、半透明の円盤が浮遊していた。
その数、四つ。
薄く、眩く、鋭く、冷たく。
凍えるような光を湛えて、円盤は漂っている。
あたかも騎士に仕える従者のごとく。完璧な秩序のもとに運行する星々のごとく。
『四つまで使うことになるとはな。統率された堕骸装がここまで厄介とは思わなかった』
重騎士は静かに言葉を紡ぐ。
『が――駄目だ。志のない刃を何度連ねようと、俺たちの命には届かない』
黄金の魔眼が、手駒たちを――その奥の璃杏を――睨みつけた。
一瞬、呼吸を忘れるような眼差しだった。
『お別れだ』
瞬間、四つの円盤が攻撃的な唸りを発しながら殺到してきた。
閃光の乱舞。
黄色い粘液が盛大に噴き上がる。
一瞬にして、堕骸装たちの体が刻み裂かれた。
鋭角的に軌道を変化させ、大気に燐光の軌跡を描きながら、斬撃光輪は殺戮の舞踏を繰り広げる。
恐らく――その正体は高速回転する刃物。
鎧の一部が変形し、自在に動く投刃と化しているのだ。
『こ、こ、この、この……!』
璃杏は、自らの痙攣を感じていた。
頬が、こめかみが、目蓋が、鼻孔が。
びくびくと、びくびくと。
苦労して産み落とした手駒たちが、次々と肉塊に変えられてゆく。
その事実が、不可解であった。
『許せないですぅ! どうしてそんなひどいことするですかぁ~!』
最後に見た光景は、唸りを上げながら迫りくる鋼鉄の拳。
指の付け根――拳骨部分から鋭い突起が突き出した、凶悪な拳であった。