夜天を引き裂く 一気読み版
いじめを苦に自殺、などというフレーズが、たまさかネット上を飛び交うことがある。
馬鹿ではないのかと思う。
ただの無駄死にである。
遺書に恨みつらみなど書いたところで、どうせ犯人たちの名はメディアには載らないのだ。どの道死ぬならすっきりしてから死のうと、なぜ思わないのか。
《あはは、うける~》
水音が聞こえる。
苦しげなうめき声が混じる。
久我絶無は、無表情のまま小用を済ませ、手を洗っていた。
……私立孤蘭学院における防音対策は、本来ならば万全のはずである。
壁一枚を隔てた女子トイレで何が起ころうが、ここまで聞こえてくるはずがない。
はずがないのだが、何故か断片的に聞こえてくる。
《……ひっ……ひっ……》
か細い嗚咽。
絶無は流れる水から手を引っ込め、温風装置に手を伸ばす。
《あっれ~? どうして黒澱さんは泣いているの~?》
《ほら、早く舐めろよどんくさいな!》
水滴が完全に散ったのを確認すると、絶無は鏡を見ながら眼鏡の手入れを始めた。
目つきの鋭利な少年が、こちらを睨んでいる。表情筋がよく引き締まり、今まで一度も緩めたことなどないような面持ちだ。造形そのものは柔らかい丸みを帯びており、十七という年を考えればずいぶん幼く見える。
もう少し硬質な印象が欲しかったところだが、まぁ先天的な特徴に文句をつけても仕方あるまい。
《黒澱さんってさぁ、ずるいよね。泣けばいいと思ってるんだもん》
《約束やぶったオメーが悪いんだろ!?》
《きゃは♪ 汚いんですけどマジー》
繊細な手つきで眼鏡を拭きながら、思う。
――お前が自殺をすれば、いじめの犯人たちは今までの行状を後悔するかもしれない。
そして反省するかもしれない。
犯人たちは、痛みを乗り越えて、お前と言う存在を少しずつ忘却の淵に押しやりながら、やがて人間的に成長し、「人並みの幸せ」とやらを掴むことだろう。
自らの子供を撫でながら、「自分がされて嫌なことはしちゃダメだよ?」などと訓戒を垂れるようになるのかもしれない。
「……よし」
絶無は身だしなみを終えると、眼鏡を鼻に乗せた。中指で軽く押し上げると、鏡の中の少年は光の反射によって目元を隠された。
男子トイレから外に出る。何の迷いもなく女子トイレへと歩みを進めた。
見慣れた男子トイレと鏡合わせの構造だが、小便器は存在せず、すべて個室だ。
そこに、数名の少女がたむろしていた。
絶無はずんずんとそこに近づいてゆく。
見れば、絶無と同じ二年A組のクラスメートである。
「はぁ? ちょっと何あんた……」
最初にこちらに気付いたのは……確か氷室燐という名だったか。
まぁどうでもいい。
ひゅっ、と鋭い呼気とともに、絶無は大きく踏み込んだ。人差し指の第二関節が突き出された拳を、すくい上げるような軌道で、腹にめり込ませた。
「ぐぅ……っ!?」
横隔膜経由で胃袋に衝撃が伝わり、氷室燐はうずくまって痙攣、嘔吐した。
――反吐を吐かせるのは有効だ。
当人にとって苦痛と屈辱が非常に大きく、かつ目立つ場所に打撲痕が残らない。
直線的に胃を狙ったのでは、肋骨と乳房に阻まれて大した効果が見込めない。生きて動いている相手をすばやく的確に嘔吐させるのはなかなかに難度が高く、習得に二週間ほどかかってしまったものだ。
「苦しいか? 大丈夫か?」
絶無は手刀を形作り、断頭台のごとく振り下ろした。それをうなじに受けた氷室燐は、自らの吐瀉物に顔を突っ込ませるように倒れ、意識を失った。
「久我……!? なんなんだよテメー!」
「え……? あ……?」
残る三人――菱村奈央、水無月千佳、冴島玲子は一斉にこちらを向いた。
皆、目を白黒させている。
――話にならない愚かしさだ。
今の行動を見れば、絶無が自分たちの敵であることなど自明の理であるはず。
にもかかわらず実際的な行動を何も起こさない判断の遅さ。なんだろうな。白痴?
「こんにちは白痴。そしてさようなら」
微笑みとともに前蹴り。
水無月千佳の鳩尾につま先がめり込み、盛大に胃の内容物が散布された。
――汚らわしい。
不浄の液体がかかる前に脚を引っ込めると、うずくまる水無月の後頭部に軽く踵を落とし、意識を吹き飛ばした。
「ひっ……!」
菱村奈央は強張った顔で自らの鳩尾をかばった。
それを見て、絶無は拳を握り締める。
「それは顔面に行っても良いという意思表示だな?」
「ち、ちがっ……!」
全身の筋肉を瞬発させ、一気に間合いを侵略する。拳を後方に引き絞る。
菱村奈央は小さく悲鳴を上げ、防御を顔面に移した。
――カスが。
絶無は心中で嘲る。
――僕がそんな目立つ位置に打撲痕を残すわけがないことぐらい気付け、無能。
再び人差し指を立てた拳を腹に撃ち込み、嘔吐を誘発。
すばやく旋回して背後に回り込み、首筋を手刀で斬りおとす。
かくして瞬く間に三人を無力化。時間にして十秒弱。
ひどい茶番だ。ここまで危機管理の出来ていない連中とは。何がしかの護身術を習得していれば、こうも簡単に征圧されることなどなかったはずだ。
ダッ、と慌しい足音。
最後に残った冴島玲子が、この場からの逃走を図ったようだ。
視線もやらずに、絶無は腕を伸ばして彼女の茶髪を掴んだ。
「っ……誰かッ! 助……ッッ!?」
本校の防音対策は完璧であるが、さっきの例もある。ここは慎重を期して、大きな声は出させないようにしよう。
髪を思い切り引っ張ってこちらに引き寄せると、伸ばした四指を冴島玲子の口に突っ込んだ。即座に指を直角に曲げ、閉じられないようにする。
「ごっ」
「ほら、歩けよ」
そのまま下顎を鷲づかみにし、そばの個室に彼女を引っ立ててゆく。
――氷室燐、菱村奈央、水無月千佳、冴島玲子。
この四人は、絶無のクラスでのスクールカーストにおいて頂点に位置するグループである。四人とも天性の美貌とやらを持ち、垢抜けたファッションセンスと立ち振る舞いで男子の憧れの的らしい。
馬鹿ではないのかと思う。
この程度のクズをありがたがっている連中の脳みそもたががしれるが――まぁしょうがないのかもしれない。
――僕とこの学校の蒙昧どもでは、人間としての完成度が違いすぎるのだ。価値基準が噛み合わないのも当然である。
とにかく女子トップグループ(笑える単語だ)の四人のなかでも、冴島玲子はかなり強力な主導権を発揮しており、平たく言えば支配者階級なのである。
当然、いじめの主犯もこいつであると見て間違いない。
念入りな制裁が必要である。
薄っすらと笑みを浮かべながら、個室に入ろうとして――絶無は障害物を発見した。
全身ずぶぬれの女子生徒が一人、そこにいた。一直線に切り揃えられた黒髪が垂れ下がり、目元を隠している。
黒澱瑠音。いじめを受けていたのはこいつのようだ。いつもクラスの端で読書をしている根暗である。極端な無口と鈍くさい立ち振る舞いが特徴的な女。そのうちいじめられるだろうなとは思っていたが、案の定だ。
――まぁそれはいい。僕は無害なクズには寛容なのだ。
しかしこいつのせいで自分の行動が阻害されている点に関しては怒りを表明しておこう。
「……どけよ、ノロマ」
低く、恫喝する。
「ぅぁ……っ」
黒澱瑠音は飛び上がると、怯えた鼠のように個室から逃げ出していった。
これで心置きなく制裁ができるというものである。
その後、時間をかけて念入りに冴島玲子の精神を痛めつけた。
具体的には、便器の中にゲロを吐かせ、そこに顔を突っ込ませた。汚らわしい飛沫がいくらか自分の体にかかってしまったが、まぁ今回は我慢しよう。
何度かそれを繰り返すとさすがに内容物が残っていないのか、胃液しか吐いてくれなくなったので、しょうがなく切り上げた。
スマホのカメラで反吐まみれの無様な姿を念入りに撮影したのち、今後自分の命令に服従することを誓わせた。
しかし、こんな無能など配下に加えた所で何の役にも立ちそうにない。
――放置確定だな。
あと記憶領域がもったいないので画像は即消去だ。
●
晴れがましい気持ちで女子トイレから出ると、黒澱瑠音が廊下にいた。
相変わらず全身ずぶ濡れで、渦巻く黒髪の先端から雫が滴っていた。
「……っ」
こちらの姿を確認すると、小動物のように飛び上がり、まごまごしている。
どうでもいいので無視して通り過ぎた。
確か、体育系クラブハウスにシャワールームがあったはずだ。
●
不浄の液体を丹念に洗い流すと、制服を着、眼鏡をかけ、外に出た。ブレザーにはいまだ冴島玲子の吐瀉物が付着しており、実に汚らわしい。
さっさと家でしかるべき処置を行わねばなるまい。
と――何か、視線を感じた。
振り返ると、黒澱瑠音がそこにいた。こいつもシャワーを浴びてきたようだ。
「……っ、……っ」
口をぱくぱくさせて、何かを言おうとしているのだが、声にはならない。
絶無は無視して通り過ぎた。
●
帰路。柔らかな夕日が、街を洗っている。
左手に広がる市民公園も、黄金に燃えているようだ。
絶無は、この色が好きだった。瑞々しい翠色が、暖色系に照らされて、何とも玄妙な色彩を結実させている。
美しいものは素晴らしい。美しいものは守らねばならない。
――それはともかく。
黒澱瑠音が電信柱から半身だけ出してこっちを見ていた。
無視して通り過ぎた。
●
舌、とは、高度に完成された感覚器官である。
熱を感じ、触覚を備え、触れた物体の組成までおぼろげながら読み取ることができる。
人体の中でも最もフレキシブルに動く場所であり、対象と密着し、その詳細を余すところなく脳に伝えてくれる。
小さな子供が何でも口に入れてしまうのは、眼で見て、手で触れる以上の情報をもたらしてくれるのが舌だけであることを本能的に知っているからだ。
絶無は小皿に注がれた味噌汁を口に含みながら、そんなことを考えていた。
上品な甘みと塩み、なめらかなコク、かすかに香るかつおだしの風味。
「……素晴らしい」
たまに自分の優秀さが恐ろしくなる。
これほど完璧な味噌汁を作れる人間が、果たして世界に何人いることであろうか。
「絶くん絶くんっ」
誰かが後ろから絶無の腰に飛びついてくる感触。
小皿の味噌汁が揺れる。
「聞いて聞いてっ! さっきね、身長測ったらね、昨日より二ミリも伸びてたよっ。おねーちゃんここにきて成長期かなっ?」
「どう考えても誤差だね」
溜息まじりに応える。
「も~、そんなことないよっ! なんか勇気が出てきたから、おねーちゃん毎日プロテイン飲むことにするよっ! モデル体型だよっ!」
一体どこを目指しているんだ。
「どうでもいいけど料理ができないよ、姉さん」
腰をゆすってみるが、離れない。
「やーだよっ。まったくもー今日はおねーちゃんの当番なんだよっ? なんで勝手に作り始めちゃうかなっ?」
「いいじゃないか。今日と言う喜ばしい日の締めくくりに納得のいくものを食したいんだよ。姉さんの料理は当たり外れが激しすぎる」
「ところで絶くんは相変わらず背骨美人さんだねっ。こう、このカーブが、すりすり~」
「話聞いてる?」
背中に手をまわしてべりべりと引きはがす。
「も~っ! おねーちゃんに好きな時に背骨すりすりさせない子は将来いい大人になれないんだよっ」
振り返ると地団太を踏む少女の姿があった。栗色のポニーテールが揺れている。
久我加奈子。
立ち振る舞いに落ち着きがないのでそうは見えないが、三つ上の姉である。隣町の音大に通う作曲家志望。昔からやたら年上風を吹かして世話を焼きたがるのだが、平均身長を明らかに下回る背格好のせいでまったく格好がついていない。どう見ても小学生である。
あと相手を問わず抱きつき癖がひどい。隙あらば飛びつこうとする。オナモミの実のごとき女だ。これがもうすぐ成人を迎える人間とは信じたくない。
「……って、喜ばしい日? なんかいいことあったのかなっ?」
「あぁ、この世からまたひとつ汚物が消滅した歴史的一日だったよ」
「んん~?」
首をかしげている加奈子を尻目に、絶無は煮魚用のだし汁を合わせている。
と、手が止まる。
「……ちょっと待ってくれ」
眉をひそめる。
「んゆ? どしたのっ?」
「醤油が切れている。一体どういうことなんだ姉さん。許されざる背信だ。釈明を聞こうか」
「あ~、ゴメンゴメン、買うの忘れてたよっ」
たはーっ、と頭をかきながら照れ笑い。
「しょ~がないなぁ~、おねーちゃんが買ってきてあげるよっ!」
世話を焼くのがうれしくてしょうがない風情。親戚の幼児と遊んでいる小学生でももう少し感情は抑えると思う。
「やれやれ、僕が行くよ。もう暗いし」
「えぇ~っ」
「その間ごはんを炊いておいて。水は少なめにね。べちゃべちゃとだらしのない飯が出てきたら、もうひどいからね」
「ひどいこと? たとえば?」
「寝ている間に姉さんの眉毛を剃り落とす」
「普通にひどいっ!」
玄関を開けると、日はすっかり暮れていた。
「あ、そーだっ。優しい優しい絶くんは帰りにケーキを買ってきてくれるっておねーちゃん信じてるからねっ!」
「やれやれ、またチーズケーキかい?」
「んーんっ。モンブランがいいなっ」
タルト生地のやつにしろだのマロングラッセ乗ってないと駄目だの小うるさい注文を振り切って外に出た。
ふと、電信柱の影から視線を感じた。
無視して歩き出した。
調味料専門店から純正生醤油(こいくち)を無事入手し、チェーン展開しているケーキ屋で適当にモンブランを見繕うと、自宅への近道となる市民公園を通りがかる。
その瞬間。
――絶無は悪趣味な冗談に遭遇した。
●
これほど醜い生き物を、見たことがなかった。
眉をひそめ、前方の闇にわだかまる何かを眺める。
――これは一体、何の悪意だ?
酸性の臭気を放つ肉塊。
おおまかな姿形は人間のものだ。私立孤蘭学院の男子制服を身につけている。
しかし――その頭部は異常に膨れ上がっていた。
肩幅よりも巨大な頭。
薄っすらとピンク色の、それは脳だった。
頭蓋骨を内側から押し破り、異形と化すまでに膨張した、思考のための器官。無数の皺を粘液が伝い、地面に糸を引いている。
くちゅり、くちゅりと粘着質の音を立てながら、それ自体が一つの生き物のようにみじろぎしている。あたかも巨大なミミズが球状に固まって蠢いているようだ。公園の外灯に照らし出され、周囲の闇から浮かび上がっている。
「……あー」
ここで成すべきは、目の前の奇妙な生物が果たして危険な存在であるか否かを見極めることである。恐慌に駆られ、夢であることを疑ったり、自らの正気を疑ったりするのは、惰弱な精神の現実逃避に過ぎない。まったき無駄である。そんなものに現を抜かして何ら意味のある行動を取らないような輩はクズでありゴミでありカスであり、生きる価値のない人間未満である。
と、絶無は思う。
とはいえ――
実際問題、見極める必要などなかった。
なぜならその足元には、五体を寸断された人体の残骸が転がっていたからだ。スーツの切れ端が纏わりついていることから、仕事帰りのサラリーマンだろうか。肉片と臓物の野放図な散乱。日の下で見れば、さぞや醜悪な色彩に満たされているのであろう。
……人間の惨殺死体というものを始めてみたが、存外に味気のない光景であった。
誰がこの惨状を作り出したのかは明白である。この脳を露出させた醜怪な生物は、人体をたやすく引き裂くだけの力と、その意志があるのだ。
絶無は肉塊をひとしきり眺め、溜息を付き、手にしていた買い物袋とケーキの箱を地面に置いた。
――あぁ、面倒だな。
ぼんやりと、そう思う。こいつの正体がなんであるかはひとまず置いておくとして、自分の前で人を殺したのはマズかった。それだけはやめて欲しかった。
――殺さにゃならんではないか。
別段、奴の足元に転がっているサラリーマンと知り合いだったわけでもないし、その不条理な死に怒りを感じたわけでもない。
感情ではなく、主義の問題として、絶無は人殺しを見かけたらその場で殺すことにしている。
この怪物は何なのか。なぜこんな凶行を働いたのか。一切考慮しない。人殺しの存在を決して許容しない。そのための人殺しは許容するし、そのことに何の矛盾も感じない。
衣服の左袖口に、右手の指先を沿わせながら、ゆっくりと歩みを進める。
「――覚悟には、二種類ある」
宣戦布告の意を込めて、声を掛ける。
怪物は胡乱な動きでこちらに向き直った。どうやら知覚能力はさほどのものでもないようだ。構わず言葉を続ける。
「ひとつは、『クズの覚悟』だ」
頭部が重過ぎるのか、肉塊は不安定な足取りでこちらに歩み寄ってくる。
にちゃり、にちゃり、と足音が近づく。生物としての整合性に欠けた、無様な動きだ。
思わず、眉を歪める。どれだけプライドのない生き方をしていればこんな姿になるのだろう。
「予想される不幸を受け入れる心。避けられない困難に対して戦いを放棄し、こんなもんさと肩をすくめる行い」
唾棄する。
「――馬鹿ではないのかと思う。格好つけて自らの無能から目を逸らしているだけだ。まさにクズとしか言いようがない卑劣卑小の生き方だ」
醜い。姿形はもちろん、その行いも極めつけに醜い。
足元の惨殺死体を見れば一目でわかる。
パーツがすべて揃っているのだ。
つまり、捕食をするために殺したのではない。ただ無残な死を演出するためだけにこれを成したのだ。
C級以下のホラー映画でも見ているような気分だった。
「お前はどっちだ? 僕はもう決めているが」
瞬間――
絶無は地面を蹴る。肉塊に向け、猛然と突進する。
――ぎゅぐろぉぉぉぉ!
応えるように、液体が泡立つような咆哮を上げて、巨大な脳が襲い掛かってきた。
巨大なピンク色の後ろから、まるで花が開くように、六本の腕が振りかざされた。
あたかも昆虫の足のように、二つの関節と外骨格を備えた、硬質の腕だ。先端はノコギリのような刃になっている。
即時、跳躍。
直前まで絶無の足があった場所を、黒い何かが薙ぎ払った。
七本目の腕。恐らくは。
目視すら不可能な超高速の斬撃。空中で曲げられた両足を、風圧がなぶっていった。
……獲物の目を自らの頭部に引き付けておき、その隙に足首を切断。逃げ足を奪う。
恐らくはそういう魂胆だったのだろう。
「ほらっ」
絶無は空中で制服の袖口から武器を抜き放つと、脳天の中心に叩き込んだ。
即座にスイッチを最大電圧まで押し込む。
――ぎゅぐぎぎぎぎぎげぇ!
七本の節足が、痙攣しながら出鱈目に振り回される。しかし絶無は、敵の身体構造を十全に見切っていた。
後頭部から生え、体を回り込んで襲い掛かる七本の脚。
つまり、密着すれば当たらない。
少なくとも、絶無が次の行動を起こすまでの間は。
両足で相手の首に絡みつき、露出した脳に拳を叩き込む。
ぐじゅっ!
柔らかいものが潰れる感触とともに、灰色の汁が吹き上がる。汚らわしいが我慢。
もう一発。
ぐじゅっ!
もともと頭部に重心が偏っていた上に、絶無に飛びつかれて殴られれば、当然の理としてバランスを崩す。
追撃を加えることなく、絶無は素早く身を離した。
直後、ノコギリ状の節足が振り下ろされ、自身の体に突き刺さった。血液の代わりに黄色い液体が飛沫く。
――ぎゅぐるぅぅぅががげっ!
絶無は再接近。悶絶する敵の脚に自らの脚を絡みつかせ、
「よいしょっ…と」
てこの原理を利用して足首の関節を一気に外した。鈍い感触が伝わってくる。
アンクルホールド。
目的を果たした瞬間にはすでにその場を離脱。襲い掛かる節足はまたしてもこちらを捉えることはなかった。
これで、奴はもはや満足に移動もできない。
「すなわち生ゴミの出来上がりというわけだ」
後は節足の範囲外から煮るなり焼くなり、好きなように処理すればよい。
どうするか。
――やはり焼殺だな。
ガソリンでもかけて丸焼きにしてやろう。絶無は自らの考えにしみじみとうなずく。
――火は良い。良いものだ。
どんな醜い生ゴミ野郎でも、乾いた灰に変えてくれる。何より赫々と揺らめくその姿は美しい。浄化の象徴としてもてはやされたのもわかろうものだ。
確か、近くのホームセンターで灯油を取り扱っていたはずだ。想定外の出費になるが、醜いものをこの世から抹殺するためならば惜しくはない。
踵を返し、歩みだす。
と――その瞬間。
突如として全身を衝撃が貫いた。
「――!?」
それが凄まじい破裂音であることを一瞬で悟った絶無は、反射的に伏せる。
「ち……っ!」
両の耳から血が噴き出す。水中に没したかのように世界から音が遠ざかり、耳鳴りだけが荒れ狂っている。
鼓膜が、破壊されたのだ。
直後に木屑が降りかかってきた。
上を見ると、イチョウの樹にサッカーボール大の穴が穿たれている。
丁度、絶無の頭があった位置だ。
――改めなければならない。
絶無は歯を軋らせながら素早く身を起こした。
脳の怪物が、こちらに頭を向けていた。
そう――認識を改めなければならない。
今まで絶無は、敵の身体特徴から解剖学的見地によって弱点・死角を割り出し、一方的に処刑を展開していた。
だが、それだけでは駄目なのだ。
この生き物は、そういう常識で測ってはならない存在なのだ。
今の攻撃の正体が何であれ、何かを飛ばして敵を殺傷するものであることは間違いない。
だが、奴の体に何かを射出できそうな器官は見当たらない。巨大すぎる脳と、七本の節足だけだ。そもそも、これほどの威力を叩き出す遠距離攻撃手段が、生物の肉体に生得的能力として備わっているとは考えづらい。だからこそ絶無はこの能力の存在を予期できなかった。
すなわち、イチョウの樹に大穴を開けたアレは、既存の物理学に収まりきらない現象である可能性が高い。
――超常的存在!
よもやそんなものが実在しようとは。
この事実を受け入れるのに、絶無は一秒も要さなかった。
だが、逆に言えば一瞬だけとはいえ動きが止まったということだ。
……避けきれなかった。
巨大脳の前面、三十センチほど離れた空間が、窄まるように収束してゆく。あたかもガラス製の漏斗がそこに浮いているかのように、怪生物の姿が歪んで見える。
直後、撃発。
闇をつんざく破裂音が遠く響き渡る。
都合、三発。
一発目は耳を千切り飛ばし、二発目は肩の肉をえぐり――
その時点で絶無は大きく横に跳躍。同時に三発目が来る。
直撃は――回避した。
直撃だけは。
「ごふっ」
最初は、ぼわっとした灼熱感があった。
脇腹の肉がごっそりと食い破られ、しめ縄のような大腸がまろび出ている。腹の底から溢れだす血が喉を灼き、口の端からこぼれおちる。
絶無はそれらの情報を一時的に脳内から追い出し、太い樹木の影に転がり込んだ。
根元に背を預け、うずくまる。
「む……う」
腹圧で外に出ようとする自らの臓物を抑えつける。
満身創痍の体で、次々とこみ上げてくる激痛を受け止めた。
血が抜けてゆく、おぞましい寒さ。怒り。苦痛。そして高揚感。沸き立つ血が肉を燃やし、無限とも思える活力が汲み出される。
この瞬間、主義に感情がともなった。
――あの生ゴミが、憎い。
激しく眩く、醜いものへの憎悪が胸中に燃えている。
苛烈に荒ぶる、自らの美意識。誰のためでもない、そのために動く。そのために生きる。
絶無は木陰から飛び出した。仇のように地面を踏みしめ、風を巻き起こす速度で疾駆する。
勝算は、ある。
あの空気弾とでもいうべき能力は確かに強力だが、ひとつ腑に落ちない点がある。
――なぜ最初から使わなかったのか?
絶無の存在に気付いた時点で不意打ちのように使っていれば、造作もなく射殺できたはずだ。
敵の戦力を推察する。
――恐らく、撃つたびに何がしかのリソースを激しく消耗するのだ。
一発撃つのにすら本能的に躊躇いを覚え、なるべく自らの肉体で獲物を殺傷しようと考えるほどの、巨大なリスク。
弾数制限があるだけで、連射自体はできるのか。
ある程度のインターバルを置けば無限に撃ち続けられるのか。
そこまでは判断がつかないが、奴にとって空気弾は切り札のようなものであり、気軽に使えるものではないことだけは確実だ。
付け入る隙は、ある。
――速攻だ!
時間とともに血と体力は失われてゆく。動けなくなる前に勝負を決める。俊敏なフットワークを持って、狙いを撹乱し――
破裂音。
回避――可能!
頬の肉が張り裂けて、歯茎が露出するも、疾走はやめず。
四肢が無事ならば問題ない!
そして目に入る、生存権を無残に踏みにじられた惨殺死体。絶無は懐に手を突っ込むと、小さなプラスチックの塊を握りしめ、被害者に向けて投げつけた。
――よし!
残った頬に鬼相を宿し、絶無は一気に間合いを詰める。すでに脇腹を押える手も離し、スタンガンを拾い上げている。
久我絶無は感じていた。
ただの人間であればおいそれとは感じることのできぬ、至高の感覚を。
すなわち、生きることのテーマを。生まれおちた意味を。
体に力が満ちている。心に風が吹いている。
――『王の覚悟』よ。
父より伝えられた、人生の指標。
自らの肉体を含む、あらゆる事物を「手段」と捉える生き方。
犠牲を恐れず、目的を貫く。そして欲するものを必ず手にする。
――勝利のため、美しく生きるため、お前を殺すため!
彼我の交戦距離はすでに重なっている。次の瞬間、結果が定まる。
絶無は、吠えた。運命のように烈哮した。
「くれてやる! 僕のすべて!」
瞬間、青銀の閃光が走った。
――違う!
絶無は眉をひそめた。
黄色い体液が大量に吹き上がった。赤子の断末魔のような悲鳴を上げて、脳怪物はたたらを踏む。
――僕ではない。
見ると、大きすぎる脳みそが斜めに寸断され、後背から伸びる節足も何本か千切れ飛んでいる。
今の一瞬でここまで巨大な欠損を生じさせるような手段など、絶無は持っていない
再び、閃光。何かが視認も不可能な速度で走り抜け、脳人を幾度も引き裂いてゆく。
黄色い血飛沫と、醜怪な絶叫。でたらめな方向によろけ、欠損が増えてゆく。
襲い来るものの数は、どうやら二つのようだ。怪物の周囲を飛び回りながら、凄惨なヒット&アウェイ。
絶無は素早く周囲に目をやり――
――直後、目の前に銀色の巨影が落下してきた。
衝撃で地面がめくれ上がる。あおりをうけて、絶無は後ろに倒れた。
それは、曲線的なフォルムの部品が有機的に噛み合い、ひとまとまりの影を形作っていた。
鈍い銀色の金属で構成された、巨体。
それは、むくりと顔を起こした。両腕を左右に伸ばし、それぞれの方向から飛来してきた銀青色の閃光をキャッチする。
瞬間、それが片膝をついた人型であることに、絶無はようやく気付いた。
しかるのちにそれは悠然と立ち上がる。決して素早くはないが、その気になれば途轍もない速度で動くことを予感させる、なめらかな所作。
――神話の英雄が、姿を現していた。
雄々しくもしなやかなフォルムの、男性を模した姿だった。砂時計のようにくびれ、盛り上がった上腕。逆三角形を成す胴体。引き締まった輪郭。
そして、質実剛健とした要塞を思わせる、広大な肩幅。丘のように盛り上がった僧房筋。そこに半ば埋まるように、小さく見える頭部がちょこんと乗っかっていた。濃紺のフードに覆われ、顔の造形はわからない。巌のような上半身に比べると、下半身はすらりとした印象だ。
すべては鈍い光沢を放つ金属に覆われている。――と言うよりも、鍛え抜かれた筋肉そのものが金属化しているような印象があった。前腕、両肩、すねなどはひときわ分厚い装甲に覆われ、鋭く力強いシルエットを形作っている。高度にセグメント化された装甲の継ぎ目に添うように、異形の文字列が刻み込まれていた。恐らくヘブライ語だが、いくつか見慣れぬ紋様もある。
重騎士。そんな言葉が似合う佇まいであった。
『……また堕骸装か』
深く鋭いエコーのかかった声が、失われた鼓膜の奥で、遠く響いた。
あんげろす、というのが、目の前の脳怪物を指す言葉であろうことはわかる。しかし、
――「また」……? 他にもいるのか?
怪訝の念を強くする絶無の前で、重騎士は銀青色の金属片を握り締めたまま、両腕を交差させた。肘から手の甲にかけて、重厚なガントレットに鎧われている。禍々しい鉤爪が生えた指先もあわせて見ると、アンバランスなまでに大きな手だった。掌の中に人間の頭部をたやすく握り込めてしまうだろう。
そのまま、金属片を両肩の突起に引っ掛けた。刃が途中で折れ曲がり、重騎士の肩装甲の一部と化す。
それを合図にしたわけでもないだろうが、脳の化け物はぐちゃりと地面に崩れ落ちた。
絶無は、自らの体の冷たさを自覚する。血を流しすぎたようだ。
舌打ち。乱入者の重厚な姿に目を奪われているうちに、ずいぶん消耗が進んでしまった。
度し難い失敗だ。
不意に、重騎士がこちらを振り返る。濃紺のフードが作る影により、顔はまったく見えない。ただ黄金の魔眼だけが鋭く灯っていた。
その眼が一瞬細められた。絶無をじっと見ている。
やがて、沈鬱そうに首を振った。
『とどめがほしいか?』
一瞬、自分に向けて話しかけてきたことに気付かなかった。
だが、絶無はすぐに重騎士を睨みつける。
「それは、僕に対する、侮辱だ。そういう『クズの覚悟』は、しない主義、なんだよ……」
『……失言だった。忘れろ』
ただそれだけのやりとりだったが、絶無はこの男に少し好感を抱いた。
瞬間、豪壮な甲冑の後背で火花が散った。
重騎士がおもむろに振り返ると――四本の節足を突き出し、健気にも反撃を試みた生ゴミの姿があった。
舌打ちひとつ。ぎりりと音をたてて、巨大すぎる拳を握り締めた。空間を握り潰さんばかりの力がそこにみなぎっている。
鋼鉄の具足が地面を蹴り砕き、巨体を一瞬にしてトップスピードに加速。砲弾じみた一撃が、腹の底に響く音を伴って、炸裂した。耳障りな絶叫を後に曳きながら、冗談のように肉塊が吹っ飛んでゆく。
それを追って茂みへと分け入る直前、重騎士は、絶無をちらりと一瞥した。
『久我……残念だ』
直後、闇の中へと姿を消した。
●
体が、重い。いくら呼吸をしても、体に酸素が廻っている気がしない。
絶無は立ち上がろうとし、膝から崩れ落ちた。四肢に力が入らない。
――後悔は、ない。
この一生を何度繰り返そうと、あの場面で「逃げに走る」という選択肢は絶対に選ばない。
とはいえ少々難儀な状況には違いない。
――人通りのある場所まで這って進めれば……
頭に血が行き渡らないせいか、そんな程度のことしか思いつけない。
まぁいい、行動指針が決まったのならすぐ実行に移すまでだ。たとえそれがどれほど絶望的で儚い希望であろうと、「諦めて死を受け入れる」などという惰弱な思考停止はしない。
と――破壊された鼓膜の奥で、耳小骨が物音を捉えた。
同時に視界の端を、何者かの脚がかすめた。近い。すぐ目の前だ。
「だれ、だ……」
そう問いかけるが、果たしてきちんと声になっていたかどうかはわからない。
渾身の力を込めて、体を仰向けにする。
その一瞬。
――絶無は、すべてを忘れた。
全身の致命傷を忘れた。ここはどこなのかを忘れた。今はいつなのかを忘れた。どうして自分が倒れ伏しているのかを忘れた。自分が何者なのかを忘れた。
すべての現実認識を、捨て去った。
目を奪われていた。心を奪われていた。
それは、悪魔の炎。
骨肉を凍りつかせ、魂を甘く灼き喰らう。
深い奥行きと、胸が締め付けられるほどの透明感を湛えた、燐緑色の炎。
それが、二つほど、宙に浮いていた。
――眼、か……
絶無は感嘆を漏らしながら、その正体を推察する。
よくみれば、それは少女の顔だった。あまりに眼の色が印象的過ぎて、そこに顔があることを一瞬認識できなかったのだ。
「黒澱、瑠音……」
少女の名を呼ぶ。
妖しい艶を持つエメラルドの宝玉が、見開かれた。絶無のかたわらに膝をつき、じっと覗き込んでくる。
青白い膝が、絶無の腕に触れた。
瞬間。
《生きてる/きれい/生きてる/内臓が/こわい/きれい/どうしよう/どうしよう/内臓が》
それは言葉というより、生のままの感情が直接流れ込んでくるような心地だった。
胸をたゆたうそれらの情動を聞き流しながら、絶無は目を細めた。
蛍火にも似た眼球だ。
暗みゆく視界の中で、こちらを見下ろす彼女の佇まいだけが、ひどく鮮明に脳へと焼きつけられる。真冬の星空、艶めく花々、古い記憶を閉じ込めた鉱物、人の手による神韻縹渺たる芸術――さまざまな意味での美をその魂に刻んできた絶無だが、夜の森にひっそりとたたずむ彼女の怜姿は、今までに感じたいかなる事物よりも美しい光景だった。
――月だけがそれを照らす。
●
――幼少の頃から、周囲の人間がどいつもこいつも馬鹿にしか見えなかった。
文武いずれの分野においても、絶無は自分に比肩する者に出会ったことがない。
なぜ周りの人間はこんなにも無能ぞろいなのか、不可解の極みだった。
とはいえ、最初からその思いを公言していたわけではない。
高校に進学する前あたりまでは、物腰柔らかな人畜無害として通っていたのだ。
常に微笑みを浮かべ、決して他人と衝突せず、困っている奴がいれば何でも手を貸してやり、場の中心から少しだけ外れた所で空気に同調しているだけの子供であった。
内心では溜息ばかりついていたけれど。
――仕方のないことなのだ。
異常なのは彼らではない。自分のほうなのだ、と。
僕は彼らとは違う。僕は父の至尊なる血を受け継いだ、生まれながらの天才である。
しかし、彼らはそうではない。もはやスタートラインからして違うのだ。
生まれつき恵まれた者が、生まれつき恵まれなかった者にかけてやれる言葉など、なにひとつない。
――彼らは彼らなりに精一杯頑張っているのだ。それでいいじゃないか。
そう思い、内心の侮蔑を押し隠しながら、外面ではニコニコしていたのだ。
あぁ、今にして思えば、この時代は僕の汚点である。
我ながら、なんて愚かな勘違いをしていたんだろう。
今でも悔恨の念に歯軋りしそうになる。
●
沈んでいた体が、水面へと引き上げられてゆくような心地がした。
「う……」
ゆっくりと、瞼を開いた。
毎日見慣れた天井が飛び込んでくる。しかしぼやけて詳細は見えない。
――助かった、のか?
思考がまとまらない。
すると、横合いから姉の加奈子が顔を出してきた。
「おーっ! 目を覚ましたーっ!」
――姉さん、声が頭に響くよ。
と、言いたかったが、咄嗟には口が回らない。
身を起こし、周囲を見渡す。古臭い木天井と漆喰の壁。天井まで届く巨大な本棚。
どうということはない。絶無の自室である。
「ほいっ、これっ」
加奈子が眼鏡を差し出してくる。
「……あぁ」
応じて、眼鏡を鼻の上に乗せる。途端にクリアになる視界。
――さて。
絶無は即座に、この状況の奇妙さを認識する。自分は確かに致命傷を負っていたはずだ。
布団の中で、脇腹に手をやる。傷なし。大腸はきちんと腹の中に納まっているようだ。
なぜ治っているのか。なぜ家にいるのか。
現状を把握するために、加奈子に問いかける。
「……僕は、どのくらい寝ていた?」
「ん? 二時間くらいかなっ?」
「僕はどうやって家に帰ってきた?」
「えーっと、それはそのー……」
加奈子は、すすす、と左方向に身を寄せ――そこにもう一人いた少女に抱きついた。
黒澱瑠音だ。なぜかそこにいる。
「……っ」びくん、と身を震わせる黒澱瑠音。相変わらず前髪で表情が読めないが、どうやら慌てているようだ。
「るーちゃんのおかげだよ~」
るー……ちゃん……
うん、まぁ、うん。
抱きついたまま頬ずりを始める加奈子。初対面だろうがお構いなしである。やられるほうは完全に硬直している。
「な~んか絶くんがケンカして気を失っているところを、るーちゃんが親切にも連れてきてくれたわけっ! 見た目によらず力持ちだねるーちゃんっ」
――そんな馬鹿な。
絶無は決して小柄ではない。男子高校生としてはごく標準的な体格である。それをこんな、吹けば飛ぶような貧弱が運んできた……だと……?
「……どういうことだ?」
本人に水を向けると――
「っ! ……っ……」
口をぱくぱくさせながら挙動不審な動きを見せるだけで、一向に会話にならない。
いつもそうだ。彼女と同じクラスになってから数ヶ月になるが、絶無は彼女の肉声を聞いたことがない。誰かに話しかけられてもこんな調子でまったく話にならない。孤立すべくして孤立したようなものだ。
舌打ちをこらえ、身を起こす。
ともかく、こいつが何か知っているのは間違いないようだ。恐らく一般人には聞かせづらい話になるだろう。
「姉さん、腹が減った。晩御飯の支度を頼む」
「おー、それならここに持ってきて進ぜようっ」
「普通でいいよ」
「ちぇー、介抱し甲斐のない奴っ!」
ぶつぶつ言いながら部屋を出る姉から視線を外し、黒澱瑠音を睨みつける。
「……さて、喋ってもらうぞ。何故負傷がなくなっているのか。どうやって僕をここに運んできたのか」
「ぇぅ……っ」
変な声で呻くと、黒澱瑠音はそばに置いてあった自分の鞄からノートをあたふたと取り出し、盾にするかのように広げて見せた。
『ごめんなさい。もうしません。』
「……」
黒澱瑠音は普段から筆談の用意をしているらしい。
突っ込んでもしょうがないので、そのまま会話を試みる。
「謝られてもわからない。僕の質問に答えろ」
少女はいそいそとシャーペンを出し、ノートに何事か書き始めた。
『ごめんなさい。久我さんに寄生しちゃいました。ごめんなさい。』
……早い。このセンテンスを書くのに一秒もかかってない。
そして凛冽な気品を感じる文字だった。止めや跳ねの運用や、全体のバランス、そして意図的な崩し等、優美な気位を保ちながら、見る者に必要以上の緊張を強いないよう考え抜かれた字体だ。
しかし発言内容は意味不明だった。
「何を言っているのかわからない」
『ごめんなさい。最近思い出したんですけど、わたし人間じゃないみたいです。ごめんなさい。』
「いちいちごめんなさいを付けるのをやめろ。卑屈は死ね」
「……ひぅ……っ」
か細い嗚咽。黒澱瑠音はよろめきながら後ろに手を突いた。
こめかみがひくつく。男の涙は稀に美しい場合もあるが、女の涙は見苦しいだけだ。
泣くな卑屈野郎、と罵りかけて、彼女の前髪がずれているのが目に入った。
――それが、露わになった。
澄んでいるような、濁っているような、深い色合いを湛えた、悪魔の炎。
否応もなく視線を引き付ける、深緑の双眸。
涙を一杯に溜めて、ぐらぐらと揺れながらこっちを見ている。
こっちを、見ている。
冷たく燃えるようなその視線が向けられていることを認識し、絶無はどこか敬虔な気持ちを胸に抱いた。苛立ちが、嘘のように消えてゆく。
「……まぁ、いい。急に問いただして悪かった。今は細かくは詮索すまい」
目を閉じ、息を吐く。
「質問を二つに絞ろう。まず、僕が瀕死の重傷を負っていたのは事実なのか?」
黒澱は、いそいそとノートにペンを走らせる。
『ぜんぶ、本当です。夢じゃないです。』
「では、君が僕の命を救ったのか?」
彼女はややためらいながら、こくん、とちいさく頷いた。
絶無は腕を組み、黙り込んだ。
「……?」
不安げに揺れる魔性の燐炎。
ひとつ頷き、絶無は立ちあがった。自分が寝ていた敷き布団を畳み始める。
「??」
手早くひと抱えほどの布の塊にまとめ上げると、押し入れの中に放り込んだ。
それから座布団を一枚引っ張り出して、黒澱の前に置いた。
彼女をじっと見据えながら、ぽんぽん、と座布団を叩く。
「……ぅ……?」
怪訝そうに眉を寄せ、やや迷いを見せたのち、黒澱瑠音はおずおずと座布団の上に白い膝を落とした。
絶無は重々しく頷くと、彼女の正面、一メートル程度離れた畳の上に正座。
二人は見つめ合う。
よくよく観察してみれば、なかなか趣のある佇まいである。華美ではないが、青白磁を思わせる膚が、病的なまでに鮮やかだ。目元が黒髪で隠れているのも、その奥に妖しくも柔らかな翠色が秘められていることを知れば、なにやら一層目を惹き付けられる趣向に思えてくる。
他人の視線に慣れていないのか、うつむく黒澱瑠音。肩を縮こまらせ、所在なさげだ。小さく閉ざされた口が恥ずかしげに波打っている。
喩えるならば、人の通わぬ岩洞の中、月光のみを浴びて咲いた待宵仙翁か。
絶無は眼鏡を外した。
ゆっくりと、頭を下げ始める。自然と両手が前にゆき、床に掌をつけた。
古式ゆかしい座礼である。綺麗な三角形を形作る両手を間近に見ながら、絶無は厳かに口を開いた。
「このたびは命を救っていただきありがとうございます。心からの感謝をあなたに捧げます」
「~~~っ!?」
ひどく混乱している気配。
「これまでの無礼な態度をお許しください。この久我絶無、人を見る眼には自信を抱いていましたが、あなたという人間の格を見抜けなかったことは一生の不覚と言えましょう」
恩も恨みも十倍返し。今までそうやって生きてきたし、これからもそうするつもりである。だが、命の恩義に対してどう報いればいいのか。
絶無はそれを考えていた。
加えて、彼女は絶無の体をごく短期間で完璧に治療してみせた。それがどのような手段によるものなのかまるで見当もつかないが――少なくとも自分には一生努力を重ねたとて不可能と断言できる行いである。
この一点でもって、絶無は黒澱瑠音に敬意を持って接することを決めた。「自分にはできないことができる人間」というものが、絶無の人生においては極めて少ない。ありとあらゆる勝負事で負けた経験がなく(じゃんけんを公平な乱数決定だと思っている無能と話すことなど何もない)、学業で満点以外を取ることも稀だ(教科書を丸暗記するというただそれだけのことができない周囲がおかしい)。
だから――この出会いはちょっとした衝撃である。
――自分より優れた人間は、父だけだと思っていた。
絶無は今、ときめくような気持ちで、目の前の少女を見ている。
――父さん、ついに出会えたかもしれません。
自らと同格か、それ以上の人間。迷いなく敬意を捧げられる人間。
「これより、あなたに頂いたこの命を使い、あなたの剣となり盾となって、あなたの幸福のために尽力することをお許しください」
「……っ! ……っ!」
そういえば、彼女に反応を期待するのはご法度であった。むしろ彼女に何か要求するなど不遜の極みである。彼女が喋りたくないことは一生喋らなくてよいのだ。
絶無は顔を上げる。
案の定、黒澱瑠音は顔を真っ赤にしてあたふたしていた。口を魚のように開閉させながら、目の前の空気をかき回すように両手を動かしている。残念なことに、印象的な緑の眼は前髪に隠れて見えない。
――それでいい、と思う。
いつも見えていたら、ありがたみがないというものだ。
彼女はいそいそとノートに書き込み始める。
『おつちいてください』
「落ち着いています」
『きゅうにこまります』
「あなたを困らせるつもりは一切ありません。これは僕の勝手な決意表明です。あなたは何の義務も負っていません。ご不要なようでしたら、僕はいないものとして扱ってください」
『そんなことしません』
「素晴らしい。お仕えし甲斐があるというものです」
絶無は口の端を吊り上げ、ふたたび座礼。
「これからよろしくお願いします、黒澱さん」
すると、ガラリとふすまが開いた。
「おーっす絶くんっ! おねーちゃんは晩御飯の支度を完了しましたよっ! ……って、なに、この状況」
上半身を床と平行に倒し、平伏する絶無。それをおろおろと見守る少女。
「しかるべき人にしかるべき敬意を払っているんだよ。ここは姉さんも黒澱さんに平伏しないと」
「えっ!?」
「さあ、早く」
「えー……」
釈然としない表情で、加奈子も絶無と並んで礼。
その後、「もう時間も遅いしさ、お泊りしようよるーちゃんっ」と子供のようにゴネる加奈子を引き剥がし、絶無は敬愛すべき黒澱嬢を家まで送っていった。
「それではまた明日。学校でお会いしましょう」
余裕のない挙動でぺこぺこ頭を下げる黒澱さん。
絶無は目を細めてその様を見ていた。少し、いたずら心が沸く。
微笑みながら、手を差し出した。
どんな反応をするのか、少し気になったのだ。もちろん、彼女が困ったような素振りを見せたらすぐに引っ込めるつもりだった。
ところが。
んく、と彼女が小さく喉を鳴らし、絶無の手を凝視しているのがわかった。滴る欲望の混じった視線だった。
そろりと彼女の手が伸び、細かく震えながら絶無の握手に応えた。
瞬間。
《指/ほっそり/指先/おなかすいた/きれい/指/おいしそう/指先/かわいい爪/おなかすいた/おなかすいた》
感情が、流れ込んでくる。絶無にはあまり縁のない、粘着質な欲望。
一瞬、くらっときた。
これは、何だ?
疑問に思った瞬間、彼女はぱっと手を離した。一歩二歩とあとじさり、石畳の段差につまづきそうになる。
「……ぁっ」
ぺたりと尻餅をつく。その顔は、耳まで真っ赤になっていた。
立ち上がると、もう一度頭を下げ、逃げるように家の中へと入っていった。
「ふむ……?」
絶無は顎を掴み、首を傾げる。
●
黒澱瑠音は後ろ手で玄関を閉めるや否や、へなへなとその場に崩れ落ちた。
心臓が早鐘を打っている。今日は色々なことがありすぎだ。
「くが、ぜつむ……」
その響きを、口の中で転がす。
不思議な人だった。
いつも自分をいじめるあの人たちや、夜の公園で遭遇した堕骸装などに対しては苛烈な攻撃衝動を露にするのに、なぜか自分には優しくしてくれた。
彼がどういう基準で人に接するときの態度を決めているのか、よくわからない。
しかし――ちょっと忘れられそうにない個性の持ち主である。
ごくり、と喉が鳴る。
――指先が、綺麗な人だった。
久我絶無について最も印象に残っているのは、その点である。
凶暴さと繊細さを併せ持つ、まるで彼そのもののような指先。人の手では捕らえがたい、美しい獣のような、あの指先。
「……っ」
思い出した瞬間、瑠音は衝動的に自らの体を抱きしめた。
右手は脇腹に。左手は胸元に。
想像する。
この手は、あの人の手だと。この指は、あの指なのだと。
触れられた箇所が熱を持ち、ぞくぞくとした震えが背筋を走る。
――飢餓のもだえ。
彼女は飢えていた。
認識されることに、飢えていた。
――黒澱瑠音は、悪魔の一柱である。
比喩ではない。
伝承や伝説、外典や黙示録などで語られるデーモン、シャイターン、ディアボロス。そのモデルとなった種族の一員である、らしい。
そして悪魔たちは、自らを霊骸装と呼んでいる、らしい。
らしい、というのは、彼女自身にもその記憶が曖昧であるからだ。
霊骸装としてではなく、人間として生を受けた。何も知らずに幼少期を過ごし――しかし最近になって、超常存在としての記憶が蘇ってきた。
部分的ながらも。
――認識子が、足りない……っ
やっとの思いで自室のベッドにたどりつくと、瑠音は力なく身を投げ出した。
久我絶無が何を思ったかいきなり堕骸装に挑みかかり、瀕死の怪我を負ったとき、瑠音は物陰からその様子を見ていたのだ。
正直、焦った。まだお礼も言っていないのに。いやそんな場合ではない。
初めて見る人間の無残な姿。流れ出た鮮血、裂けてささくれた肉、はみでる臓物。
きもちわるいと思った。恐ろしいとも思った。だが胸の奥底で、きれいだという思いがまったくなかったと言い切れるだろうか。
そんな自分が、ショックだった。悪魔の一員であることを、不意に思い知らされた気分だった。
だから、否定したかったのかもしれない。ムキになってしまった。
霊骸装としての権能を、このとき初めて使った。
生まれて、初めて。
――ここまで消耗するなんて……っ
人一人の傷を癒すのに、これほど活力が失われるとは思いもしなかった。
早急に認識子を補充する必要がある。
だが――その方法が問題だ。
認識子とは、「人間が物事を認識した際に発生する力」である。第五のゲージ粒子であり、プネウマともルーアハとも呼称されてきたが――その本質は単純だ。
簡単に言えば、人間に認識されればされるほど、認識子を得ることが出来る。
人間が持つ五感――視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚。それらさまざまな感覚を通じて、悪魔たちは生きる活力を得ているのだ。
しかし、ここまで消耗したとなれば、ただ見られるだけでは不十分である。
積極的に人間と触れ合う必要がある。
瞬間、瑠音は絶無の指を思い出した。あの指と触れ合った時に流れ込んできた、ねっとりと熱く暗い認識子の甘美。
もしも、握手だけで終わらず、それ以上のことをしてもらえたら――
「~~~~~っ!」
耳まで真っ赤になった顔を、枕に押し付ける。
――無理無理無理無理無理!
幸いにして、瑠音自身にも人間としての認識能力が備わっており、自分で自分を認識することによってある程度の認識子を得ることはできる。
しかし、霊骸装として存在を保つためのエネルギー量は、彼女の自意識から生産されるエネルギー量と等しいため、待っていてもこの状況は改善されない。
「……ぁ……ぅ……っ」
闇の中、一人悶々と、魂の飢餓に耐えつづけた。
●
箸を口に運びながら、久我絶無は考える。
――アンゲロスとは何か。
昨晩の観察結果から、絶無はあの生ゴミの正体について思いを巡らせてみる。
……愚鈍カツ本能的ナ挙動カラ、大シタ知能ハナイダロウトイウコト。巨大ナ脳ノ下ニ制服姿ノ肉体ガアッタコトカラ、人間ガ何ラカノ事情デ変異シタモノト思ワレルコト。アルイハ人間ニ寄生シタモノデアロウコト。ソノ目的ハ人間ノ殺傷デアッテ、捕食デハナイコト。何ラカノ有限ノリソースヲ消費シテ、物理ヲ超越シタ怪能力ヲ発揮デキルコト。以上ノ情報カラ類推ヲ進メル。アレホド特異ナ生物ガ社会ニ認知サレテイナイ現状ヲ考エルニ、ホボ間違イナク人間ノ姿ニ戻ルコトガ出来ルト思ワレル。シカシ、「大シタ知能ハナイ」トイウ前提ニ照ラシ合ワセテミルト、タダノ学生ノフリヲ長期間ツヅケルノハ難シイ。怪物ノ姿ニナッテイル間、凶暴ナ別人格ガ肉体ヲ支配シテオリ、アンゲロス本人ハ自分ガ超常存在トナッタ自覚ガナイノカモシレナイ。非常ニ驚クベキ生態ト言エルダロウ。最モ特筆スベキハ、奇妙ナ現象ヲ引キ起コス能力デアル。昨晩戦ッタ個体ガ発揮シタ空気弾ノ破壊力ヲ見ルニ、尋常ナ生命活動カラ捻出デキルエネルギーノ限界ヲ明ラカニ超エテイタ。ツマリアンゲロスハ、通常ノ生物トハマッタク異ナル代謝系ヲ持チ、エネルギーノ補給方法モ単ナル食事ナドデハナイト考エラレル。ソシテ、知能ガ低ク、本能的ナ判断シカデキナサソウナ様子ヲ鑑ミルニ、ソノ行動ハスベテ自ラノ生命維持ニ直結シテイルハズダ。スナワチ人間ヲ殺傷スル生態ハ、エネルギー補給ト無関係デハナイノカモシレナイ……
結論:よくわからない。
無意味な思考活動であった。
「ふむ」
気にかかるのは、昨晩重騎士が発した『またアンゲロスか』という一言である。この言葉からは二つの事実が浮かび上がってくる。
ひとつ、アンゲロスは複数いる。
ふたつ、重騎士の本当の標的はアンゲロス以外の何かである。
極めて重大な事態と言わざるを得ない。もしもアンゲロスというものが昨日遭った脳怪物のようにアホくさい殺人行為を繰り返す存在であるのなら――
――残念ながら絶滅してもらうより他にないな。
ともかく、見極めねばならない。
アンゲロスは、果たしていかなる存在なのか。
「というわけで伺いたいのですが、アンゲロスとはどういう生き物なのでしょう?」
絶無は横に顔を向けた。
ビクッ、と少女は震え、飲んでいたウーロン茶でむせる。
昼休み。学校の中庭である。
ベンチでひとりぽつねんと昼食を摂っている黒澱さんを見かけ、声を掛けたのだ。
例によって例のごとくあたふたと要領を得ない反応だったが、特に嫌がっているそぶりではないので、隣に座り弁当を広げたところである。
黒澱瑠音はひとしきり咳き終えると、愕然とこちらを見ていた。顔の下半分しか見えないにも関わらず、表情豊かな人である。
どうしてその名を知っているのか、と問いたげだ。声には出さず、眼も見えないのだが、なんとなくわかる。
「あの無骨な鎧甲冑の男が口を滑らせてくれたからですが……あの、大丈夫ですか? 僕はあなたを困らせていますか?」
彼女はぶんぶんぶん、と過剰に首を振る。前髪が舞い上がって一瞬どきりとしたが、残念ながら目蓋は固く閉じられていた。
「ふむ。質問を絞りましょう。黒澱さんは昨晩のアレ以外にアンゲロスを見たことはありますか?」
こくこく。
「そのアンゲロスは殺人を働きましたか?」
一瞬ためらってから、こくり。
「アンゲロスとは概してそういうものなのですか?」
どうしてそんなことを聞くんだろう、と言いたげな沈黙。
のちに、こくり。
絶無は思わず頬を歪めた。歯が軋る。
――ならもう、遠慮はいらないな。
ここからは、アンゲロスが誰なのかを特定する段階だ。
「アンゲロスは、自分が負った負傷を短期間で治す手段を持っていますか?」
彼女はたじろく。
「……っ」
あたふたと身振り手振りで何かを伝えようとするのだが、よくわからない。
イエスかノーで表現できる答えではないらしい。
「わからないということですか?」
ふるふる。
「基本的には回復手段を持っているけれど、状況から考えて昨晩の個体がその能力を行使できる可能性は低いということですか?」
こくこくこく。
「……ほほう」
絶無はポケットからスマホを取り出すと、アドレス帳から「下僕」のカテゴリを探し出してコールする。
一秒もしないうちに相手が応じた。
『絶無さま、お電話ありがとうございます。何か御用でしょうか?』
花の潤みを含む、落ち着き払った少女の声だった。
「手を借りたい。頼めるか」
『あら、光栄ですわ。華道部一同、絶無さまのために粉骨砕身働く所存でございます』
即答である。
「相変わらず躊躇わない女だな。今日、脚に怪我を負って学校を休んだ男子生徒がいるはずだ。そいつの名と居場所を調べ上げてくれ」
前回の接敵において、絶無はアンゲロスの脚(節足ではなく人間の方の脚)を関節技で外してやった。
何らかの事情により回復能力を行使できないのであれば、今も負傷はそのままのはずだ。
『了解しました。すぐに調査を開始いたします。その方は、絶無さまの前にお連れすればよろしいでしょうか?』
「いや、接触はやめろ。お前たちは調べるだけでいい。今日中に報告をくれ」
『了解しました。……それで、絶無さま? たまには部に顔を出して頂けませんと、他の子たちに示しがつきませんわ?』
「わかっている。次の花展用の構成について聞きたいこともあるしな。今回のことが終わったら、久々にお前たちの活けた花を見に行こう」
『お待ちしておりますわ。それでは失礼いたします』
「ああ、苦労をかけるな」
『あらあら、ふふ』
通話が切れた。
隣で黒澱さんが戸惑いまくった顔をしている。
絶無は肩をすくめる。
「情報網、というものを構築してみようと思ったことがあるのです。まぁ、結果出来たのはまったく違うものでしたが」
運動部の主将や各委員会の重役、教師、事務員、用務員など、学内に影響力を持つ人物に対し、あるときは力ずくで、あるときは言葉で、またあるときは弱みを握り、餌をちらつかせ、心を折り、ありとあらゆる手管を用いて自らの指示に従うよう馴致した。
もちろん、学校などという矮小な社会で実権を握ったところで大した意味などない。まさに井の中の蛙である。
実社会に出たときのための予行演習のつもりだったが……思わぬところで役に立った。
華道部以外の「下僕」――柔道部、空手部、剣道部などの武闘派――にも手早く電話をかけ、次々と同じ指示を下す。
「これでよし。すぐにでもアンゲロスの素性は特定されると思われます。雑事は下僕どもにまかせ、我々はどっしりと構えておきましょう」
といっても、昨晩の重騎士がすでにあのアンゲロスを滅ぼしている可能性も考えている。その場合は残念ながら自分の手で醜悪な存在を抹殺できなくなってしまうわけだが、致し方あるまい。
ただ、現状を見るにその可能性は低い。生徒が一人殺されたのなら、さすがに今この時点まで学校から何の音沙汰もないのは不自然だ。
ふと、視線を感じた。
いつのまにか黒澱さんは昼食をもそもそと平らげ、傍らの鞄からノートを取り出していた。
こちらに掲げられた書面は、
『堕骸装は人間です』
……そういう字なのか。
「えぇ、そのようですね」
彼女が何を言いたいのかわからず、相槌を打つ。
『あまり乱暴なことはちょっと』
「確かに。戸籍を持った人間を殺すのは相応のリスクが伴いますね。しかしリスクを恐れて大事は成せません」
「っ! ……っ……」
ぶんぶんぶんっ。
そしていそいそとノートに書き付ける。
『堕骸装とは、動物や赤ちゃんのように自己認識を持たない生命や、眠っていて極端に意識レベルが下がっている人間などと不正規な契約を交わしてしまったがために、認識子を生産する回路が構築されず、慢性的な飢餓によって暴走している悪魔のことです。』
いきなり話が難しくなってきた。
ひとしきり書面を睨み、要点をまとめる。
「……目を覚ました人間となら、正規の契約を交わすことができ、認識子とやらを生産する回路が構築され、飢餓に陥らず、暴走状態にもならずに済むということですか?」
こくこくこく。
うなずく彼女。
――それにしても、自己認識、か。
人間と、ごく一部の高等生物しか持っていない、特殊な意識のありようである。
自己認識を持つ生物は、鏡に映った像を自分だと判断できる。「自分がここに存在している」ということを理解しているのだ。しかし、自己認識を持たない大多数の生物は、鏡に映った像を他者だと思い込んで、警戒したり威嚇したりする。彼らの意識には「自分」がなく、「状況」だけがその思考を占めているためだ。
絶無は、自らの顎をつかむ。
「いったい、悪魔とは何なのですか?」
悪魔と自己認識。珍妙な取り合わせである。
『わかりません。わたしも悪魔の一員みたいですが、変な生まれ方をしたせいか、記憶が曖昧です。悪魔たちは自らを霊骸装と呼んでいるようです。ここ数年でたくさんの悪魔がこの世界に転生し、何か大きな目的のために動いているみたいです。』
「言葉尻から察するに、霊骸装たちは人間と契約しなければ力を発揮できないようですね」
こくり。
『ファウストとメフィストフェレスの関係に代表されるように、悪魔が人間を誘惑して力を与えるストーリー類型の大本はここにあります。実際には、力を与えているというよりも、人間の力を借りないと何も出来ないだけみたいですけど。』
重騎士を思い出す。恐らくあれは霊骸装なのだろう。尋常な人間と正規の契約を結んだ姿があれなのだ。
脳怪物を思い出す。恐らくあれは眠っている人間とうっかり変則的な契約を交わしてしまった姿なのだろう。
「……ということは、堕骸装は宿主が眠っている間にしか表に出てこない、と?」
こくこく。
『起きている間にきちんと自分の状況を教えてあげれば、ひょっとしたらなんとかなるかもしれないです。』
●
三日が経った。
堕骸装の宿主自体は、すぐに見つかった。
一年D組。秋城風太。
華道部(の名を借りた絶無子飼いの諜報機関)によれば――
小柄。内気。地味。いじめを受けている疑いあり。成績は下の上。卓球部。両親は共働き。
心の底からどうでもいい情報ばかりだった。
現在は街の市民病院で怪我の治療にあたっているらしい
「はいはい、秋城さんは、えーと403号室ですね。さっきもう一人お友達が来られましたよ」
受付の様子からして、病院ではまだ暴れだしていないようだ。
それも時間の問題であろうが。
エレベーター経由で403号室が存在する四階までたどり着く。
と、ロビーの長椅子に、長身の人物が座している様子が目に入った。
「ふむ」
日本人離れした白皙の肌に、氷のような白髪が印象的な、若い男だった。両肘を膝の上に乗せ、じっと秋城の病室を睨みつけている。
獰猛な眼つきだ。左右の瞼から頬にかけて、縦に引き裂いたような傷跡があり、まるで涙の跡か道化の化粧である。
さっき受付が言っていた「もう一人のお友達」か。しかし華道部のプロファイリングからすれば、秋城風太がこいつのような人種と関わりを持つとは思えないが。
絶無は、この男の名を知っていた。
橘静夜。
私立孤蘭学院高等学校は一般的にエリート校と言われているが、隔絶された社会は必ずその中で上下関係を生み出し、落ちこぼれの役割を欲する。
橘静夜もその一人だ。
どこにでもアウトローはいる。暴力的な噂の絶えないこの男は、畏怖と敬遠の対象である。
絶無は無言で橘に近づいてゆく。
青年はこちらに気付き、わずかに視線を流してくる――
――瞬間、大きく目を見開いた。
隠し切れぬ驚愕の表情。視線は絶無に固定されている。
その時点で、絶無はすでに何事かを察していた。
「……ふふん」
薄ら笑いを浮かべ、歩み寄る。
そして橘の前で立ち止まった。
――こちらの姿を見ただけで驚愕する理由など、ひとつしかない。
この不良は今まで「久我絶無は死んだ」と思っていたのだ。
そしてそんな誤解を抱くには、公園での戦闘現場に居合わせていなければならない。
「あの時は取り逃がしたようだな」
まるで天気の話しでもするかのように、絶無は声を掛ける。
「……何のことだ? ここに何の用だ久我絶無」
鉛のような声だった。うまく動揺を押し殺したようだが、視線を合わせないようでは片手落ちだ。
橘の手のひらが持ち上がり、自らの胸を抑えた。
庇うような動き。
絶無はそのさまを見るともなく見ながら、畳みかける。
「戦闘能力は申し分ないが、追跡術は不得手か? 学校をさぼって何をしているかと思えばずいぶん刺激的な毎日を送っているようだな、橘静夜」
橘は突発的に立ち上がり、身構える。途端に空気が引き締まり、剣呑さを帯びた。
見上げるほどの背丈だ。しかし巨漢という表現は似合わない佇まいだった。痩身で、手足が長い。鞭のようにしなやかな筋肉が、全身で寄り合わされている。
絶無は中指で眼鏡を押し上げた。
――この男。
かなり荒事に慣れているようだ。いや、慣れているなどというレベルではない。動作の端々に無理も無駄もない落ち着きが見えた。自らの恵まれた体格を、完全に使いこなしている。明らかに殺害を意図した格闘技能を極めている佇まいだ。
――ほんの少しばかり、僕より強いかも知れん。
絶無は頬を歪め、拳を握り締めた。
瞬間。
『よしなさい、静夜。その少年はもう我々の正体に気付いているようです』
かすかなエコーの入った壮年の男の声がした。
声は、今度は絶無に語りかけてくる。
『少年よ、お初にお目にかかります。小生の名はザラキエル』
――何だ? どこにいる?
姿は、見えない。声だけが滔々とつづく。
『《矜持の座》の第二世代として生を受け、現在は《遊歴の座》に属する悪魔の一柱です。この時代ではサリエルと名乗った方が通りは良いでしょうかね?』
余裕と品格を兼ね備えた、耳に快い声だった。
どうやら橘静夜の左腕から聞こえてきているようだ。
「……急にしゃべるな、ザラキ」
橘静夜は眉をひそめながら自らの左腕を見やる。
そこには、銀青色の太い手錠がかけられていた。左腕にしか付けられていない上に鎖もない。動きを拘束するためのものではないようだ。
『ザラキエルです。最後のエルが重要なのです。もっと敬意を持って呼んで頂きたい』
どうでもよさそうに手を振る橘。絶無に鋭い目を向ける。すでに無関係を装うつもりはないようだった。
「……久我、あれからどうやって助かった?」
認めた。この男が重騎士の正体なのだ。
絶無は肩をすくめる。
「そんなことはどうでもいい。いま話すべきなのは、お互いの目的についてだ」
橘は、いぶかしげにこちらを見ている。
「目的?」
「なぜここにいる? 秋城風太をどうするつもりだ? お前の目的は何だ?」
「決まっている。悪魔が表に出てくるのを待ってから殴り倒し、引き剥がす」
断固とした口調。この男はそうやって正義の味方じみたことをしてきたのだろう。
絶無は鼻で笑った。
「つまらん対処だな」
「どういう意味だ?」
「お前らは今までそうやって対症療法的に堕骸装を狩ることしかしてこなかったのか? 『また堕骸装か』と言っていたな。あの醜い怪物が何体も出現するその原因を究明しようとは思わなかったのか?」
少し考えればわかることだ。堕骸装とはその存在自体がイレギュラーのはずである。何しろ悪魔側にも人間側にもメリットが何ひとつない。認識子が欲しいなら起きている人間に契約の話を持ちかければいいのだ。あれほどの圧倒的な力、人間からすれば引く手あまただろう。
それすらできなかった、というのは通常考えられない事態である。
「橘静夜、今までにお前が狩ってきた堕骸装は何体だ?」
「……五体」
「堕骸装として契約せざるを得ないような状況がこの近辺で五回も発生するなど、確率的に言ってあり得ないだろう。何かあるんだよ、秋城風太の背後にはな」
『ほう、なかなか鋭い読み……と言いたいところですが、その程度のことに我々が気づいていないとでもお思いか?』
鋼の手錠――ザラキエルとやらがかすかな笑みを含ませて言った。
「だったら糸口を見つけてやるよ。これから僕がやることをそこで黙って見てろ」
『ふむ?』
絶無は立ち上がり、無造作に病室のドアを開けた。殺風景な個室が、目の前に広がる。
窓から入る光に照らされて、ギプスと包帯にまみれた少年がそこにいた。
「え……」
アニメ絵のキャラクターが描かれた文庫本を広げたまま、その少年――秋城風太はこっちを見て、固まっていた。
絶無は中指で眼鏡を押し上げる。
――雑魚だな。
今のわずかな動作から、この少年の実力を見て取る。多分こいつが十人いても橘静夜一人に敵わないだろう。まして、脚を怪我している今では何をかいわんや。
「だ、誰ですか?」
高校生にもなって声変わりも迎えていないようだ。体格にふさわしい、実に貧相な声である。絶無は無言で少年のそばまで歩み寄ると、おもむろにその腕を取った。
「え」
親指の付け根を圧迫する。
「ぎ……っ!?」
声にならない悲鳴。文庫本が床に落ちる。
すかさずもう一方の手を秋城風太の首にやり、二本の頚動脈を塞ぎにかかる。
「おい久我! いきなり何をしている」
橘静夜が後ろから肩に手をかけてきた。
「黙って見ていろと言った筈だぞ」
「了承すると言った覚えはない」
「かっ……」
脳への血流が塞がれ、秋城風太は速やかに意識を失った。
絶無は橘の手を振り払うと、ポケットに指先を突っ込んだ。
「さぁ、来いよ」
冷めた目で、待つ。宿主が意識を失えば、堕骸装が姿を現すはずだ。
『無茶なことを……』
隣で橘静夜が青銀の手錠に手をかけていた。
ごぼり、と。
秋城風太の頭が、まるで凹凸のある鏡に映った像のように歪んだ。瞼が引き伸ばされ、眼球が剥き出しになる。
堕骸装への変化。想像通り、実に醜い眺めである。
ごぼりごぼりと、皮膚の下で次々と気泡が湧き出ているかのように、少年の頭部が異形と化してゆく。
そして、
『……ガイ、ソウ……』
鋭いエコーのかかった声。橘でもザラキエルでもない。喉で汚泥が絡まっているかのような、不快な声だった。
瞬間、秋城風太の頭が破裂し、内部からピンクの肉塊が爆発的に膨張しだした。その後ろから、花開くように七本の節足が伸びる。
絶無は、相手の変化が終わるのを待ちはしなかった。
おもむろにスマホを取り出し、画面に現れた文面をわざとらしい棒読みで声に出す。
「洞慕町逢音二丁目の3‐14。煉瓦意匠のモダンな邸宅。表札には『界斑』と書かれている……」
瞬間、堕骸装の動きが、止まった。
「郊外の一等地か。ずいぶんいいところに住んでいるなクズ野郎」
絶無は口の端を釣り上げた。
化け物は硬直している。まるで、弱点を知られて衝撃を受けているかのように。
「……どういうことだ」
『どういうことですか?』
隣で橘とザラキエルが訝しげな目を向けてきたが、無視。
「僕の言うことを聞くつもりがあるのなら、その醜い顔を仕舞え」
一瞬の間。そして節足と脳がにわかに動きを見せた。巻き戻された映像のように、脳と節足は折りたたまれ、縮小し、秋城風太の頭部へと収まってゆく。
最後に破裂していた頭蓋が口を閉じ、瞑目した人間の姿を取り戻した。
ゆっくりと、目を開く。
途端、空気が、濁った。
さっきまで見せていた、間抜けな面構えは消え去り、どこか切れ長の目つきになっている。
『……おまえ、いつから気付いていたですか?』
秋城風太が口を開く。どことなく舌足らずな口調。
安っぽい駄菓子のような甘みを持った声。
絶無は肩をすくめる。
「堕骸装は宿主が眠っている時に表に出てくる。そして堕骸装に理性的な思考はできない。この二つの情報から考えれば、すぐにわかることだ」
理性のない怪物が夜毎に行動するのであれば、まっさきに襲われるのは秋城風太の家族であるはずだ。ところが、下僕どもに調べさせてもそんな事実は浮かび上がってこなかったし、家族が惨殺されたとあればもっと大きな騒ぎになっていなくてはおかしい。
堕骸装となった秋城風太が殺したのは、自身と接点のない人間だけである。
ここに、理性的な打算を感じた。堕骸装の殺戮本能とは別の、第三の意志がなければありえない事態である。
すなわち、秋城風太は何者かによって意図的に操られているのだ。
『たったそれだけで璃杏ちゃんがいることに気付いたですか?』
たったそれだけ、である。わからないほうがおかしい自明の理だ。
それよりも、
「気持ち悪い喋り方をするな。見ていて救いようがない」
一人称が名前+ちゃんなどと、生きていて恥ずかしくないのかと思う。
くすくすと少年の体に取り憑いた何者かは笑う。
『璃杏ちゃんはホントは女の子なんだもん。今は風太おにいちゃんの体を借りてるだけだもん』
「どっちにしろ救いようがない。中学生にもなってあり得ない。気持ち悪い」
『うぅ、おまえ、ひどいですぅ。璃杏ちゃん泣きそうですぅ』
「やってみろよウジムシ。指差して笑ってやる」
「おい、久我」
重い声が、降りかかってきた。
見ると、橘静夜は床に落ちたアニメ絵の文庫本を拾い上げ、しげしげと立ち読みしていた。そんな姿ですら、ある種の荘厳さを失わない。太古の英雄を思わせる威容の男であった。
「くだらん罵倒はそのあたりにしておけ。話が進まん。最初に言っていた住所は一体なんだ。なぜ住所を聞いてこいつは動きを止めたんだ」
絶無は肩をすくめる。これだから思考の鈍い奴の相手は疲れるのだ。
「決まっているだろう。このおぞましい一人称を使う下等生物の住所だよ。下僕どもを駆使して調べ上げた」
「待て久我。どうもお前の言葉には飛躍と要約が多いな。堕骸装を操る黒幕がいると断定する根拠はわかったが、そこからどうやってこいつの居場所を突き止めたのだ」
この三日間に絶無と下僕どもが行った諜報活動のすべてを語っていたら三十分はかかるので、適当に要約する。
――あの夜。
絶無と脳怪物が死闘を演じ、そこへ重騎士が乱入したあの夜。
公園にはサラリーマンの惨殺死体が残されていたはずだ。もちろんそんなものを黒幕が放置するはずがない。必ず何らかの方法で証拠の隠滅にかかるのは確実だ。黒澱さんを家に送ったその足で調べに向かうと、案の定そこには不自然に掘り返された地面だけがあった。恐らく、黒幕は秋城風太以外にも何体か堕骸装を従えているのだろう。そいつらに死体を回収させたと見て間違いない。
「……それ自体が罠とも知らずになァ……」
携帯電話の部品を使って自作したGPS発信機。
死闘の最中、絶無はそれを被害者の死体に紛れ込ませていたのだ。
発信機の電波は、洞慕町を見下ろす山中にて消滅した。
すぐさまそこに向かい、死体を掘り起こして発信機を回収すると、周囲に残された足跡を徹底的に調べ上げた。
「残された足跡は三種類。そのすべてが孤蘭学院の制式運動靴。サイズからして全員男。調べてみたら、学校では去年から靴のスパイクの位置が微妙にマイナーチェンジされていたらしく、それらはすべて一年生のものだった」
後は下僕どもによる人海戦術だ。一年の運動部の男子生徒の家に連絡を取り、問題の日、問題の時刻にアリバイがあったかどうかを聞き出し、振るいにかけた。
残った名前は七つ。これに秋城風太を加えた八名の生徒の動向・交友関係を徹底的に調べ上げた。
「その結果――八人中六人の周囲に、最近とある女の影がちらついていたことが判明した」
絶無は右眼だけを真円に見開き、獰悪な笑みを浮かべた。
「それが界斑璃杏。お前だよ」
沈黙が、大気を凝らせた。
煮えたぎる酸のような視線が、絶無の全身を撫でていった。
界斑璃杏は、おもむろに細い腕を持ち上げる。
『……あ、虫♪』
そして、ぺちん、と自らの頬を叩いた。
『こんなところにキタナイキタナイ虫ちゃんがいるですぅ』
ぺち、ぺち。
音高く頬が鳴る。
『まったくこの病院はフエイセイなのですぅ。病室にこんな生物がいるなんてありえないですぅ』
ぺち、ぺち、べちっ。
『キタナくて臭くて醜くて、グズでノロマで何の役にもたたないですぅ』
ぺちぺちべちべちべちべち。
ごっ。
音が変わった。
『ホント、さいしょから、この虫ちゃんは、璃杏ちゃんの、足を引っ張る、ことばかりっ!』
音節ごとに、鈍い音が響く。
拳を固め、自らの顔面を殴打していた。頬が腫れ、鼻血が噴出す。
『えいっ♪ えいっ♪ 死んじゃえっ♪ 死んじゃえっ♪』
爪を立てて、顔を偏執的に掻き毟る。
紅い筋が幾重にも刻まれてゆく。
「おい、何をしている。やめろ」
橘が、その腕を掴み上げた。
『離すですぅ。くそ虫ちゃんを潰すですぅ。それ、潰れろっ♪ 潰れろっ♪』
もう一方の手で、なおも顔を引っ掻き続ける。
「やめろと言っている。おい久我、ナースコールだ」
両腕をまとめて拘束しながら、橘は絶無に顔を向けた。
深い深い溜息をつき、絶無は界斑璃杏に語りかける。
「慈悲深い僕は、一応話を聞いてやろうと思う。他人に堕骸装を植え付けて操り、無関係な人間を惨殺するその理由はなんだ?」
『――殺す』
ぽつりと、界斑璃杏は言った。
『おまえ、嫌い。殺す。いつか殺しちゃうですぅ』
「話聞けよガキ。これだから自我が強いだけのクソカスは嫌いなんだ」
『うっさい死ね、ばーか。殺す。殺してやる』
フッ、と。
秋城風太の体から力が抜け、倒れ掛かった。
「う……」
額に手をやり、持ち直す。
「うぅ……あれ?」
秋城風太はキョロキョロと周囲を見回し、不安げに眉を寄せた。
「だ、誰ですか?」
『ふむ、見たところ秋城風太本人のようですね』
「う、腕輪がしゃべった!?」
「おい、お前」
絶無は風太に歩み寄る。橘を押しのける。
「な、なんですか? 誰なんですかあなたたちは!?」
「黙れ。質問するのはこっちの方だ。界斑璃杏からもらった物を僕に渡せ」
風太の目が見開かれた。
「い、いやだ!」
「ほう、その反応を見るに、心当たりはあるわけか」
風太の腕を取り、素早く背後に回ると、捩じり上げた。
「痛たたたたたた!」
「――まず、小指だ」
耳元で囁きかける。同時に指を逆方向に曲げてゆく。
「関節をひとつずつ折り砕いてやろう」
「ひッ……!」
それだけで十分だった。
「わかった! 渡す、渡します!」
風太は首にかかっていた紐を外し、そこからぶら下がっていた小瓶を差し出してきた。
掌の中に納まる程度の、ごく小さな瓶だ。中に何かが入っていたが、光の反射で絶無からは見えなかった。
「ふん」
絶無はそれを掴み取ると、すぐにポケットに突っ込んで踵を返した。
「ま、待ってください! それをどうするつもりなんですか!?」
後ろから、風太が腕を掴んできた。
軽くため息をつき、絶無は振り返る。
「手を放せ。無能がうつる」
「それは……それは界斑さんと僕との接点なんです! 特別な、絆なんです……」
「……はぁ?」
どれだけ現状認識を欠いていればそんな妄言が吐けるのか。
「お前は特別なんかじゃない。あの女は、お前以外にもたくさんの男に同じことを言い、手駒にしているんだよ」
「そんなこと……!」
「お前は自分が何をさせられていたのかわかってない。最近夢遊病の気はなかったか? 妙にリアルで禍々しい夢を見なかったか? ニュースの血生臭い報道にデジャビュを感じたことは? 朝起きたときにわけのわからない血糊や粘液がこびりついていたり、あるいは裸足で外を出歩いたような形跡は?」
風太の眼が、見開かれてゆく。
「な……んのことですか……それが何だっていうんですか!」
思わず、こめかみがひくついた。
ここまで言ってもまだ認めないつもりか。いつまで逃げ続けるつもりなのか。
「これらの状況証拠が何を意味しているのか、僕からは特に何も言わない。ただ、ひとつ個人的な愚痴を聞いておけ」
胸倉を掴み上げた。
「ぐ……!」
真正面の至近距離から、絶無は風太を睨み付けた。惰弱で柔弱で、卑屈で未練たらしく、すぐに伏せられそうな眼だった。
美しさの欠片もない眼球だった。
「こうなる前になんとかする機会は、いくらでもあった。決して、お前は何も出来ないわけではなかった。なのにお前は何もしなかった。それだけは肝に銘じておけ。低能」
乱暴に手を離すと、絶無はもはや振り返ることもなく、病室から出て行った。
●
予鈴のチャイムを聞きながら、黒澱瑠音は朦朧としていた。
意識に霞がかかり、ふと気を抜くと頭が傾いている。姿勢を保つのに集中力が必要だった。
――おなか、すいた。
ここ数日、気づけばそればかりを考えている。
認識子の補充が、遅々として進まなかった。
悪魔は、人間から認識されることで活力を得る。
しかし、もともと自己主張は苦手である。そこにいるにも関わらず認識されない「空気」になりがちだ。
視界の端にちらりと見える程度ではまったくもって焼け石に水。空腹時に塩をなめているようなものであり、よりはっきりと空腹を自覚する役にしか立っていない。
頭の中で欲望が渦巻く。
――認識されたい。認識されたい。認識されたい。認識されたい!
これまで黒澱瑠音に認識子を提供し続けてきたのは、冴島玲子をはじめとする女子グループであった。
いじめという形とはいえ、積極的に瑠音を認識してくれたし、暴力が振るわれる際には肌と肌の接触もあったわけで、いやもちろんいじめられるのは惨めで苦しい気持ちになるのだが、この粘っこい炎のような欲望をある程度満たしてくれていた点はいかんともしがたく……
ところが、最近、そういうことが一切なくなった。
考えるまでもなく、久我絶無の乱入制裁による抑止効果だ。
冴島玲子たちは、もはや瑠音に視線を向けることすらしなくなっていた。
学校にいる間感じていた、わけのわからない苛立ちと憎しみの混じった視線が、ふつりと途切れてしまったのだ。
おかげで心穏やかに日々を過ごせるわけだが、認識子の供給が段違いに減少した現状は、少々深刻である。
どうして誰も自分を認識してくれないのか。
いや、わかっている。
――こんな暗そうなのなんて、誰も相手にしたくないんだろうな。
これぐらいのことは気付いている。日常生活の九割を頭蓋骨の内側で展開している瑠音にしてみれば、自省などほとんど本能と同レベルだ。
なぜ暗そうに見えるのか。これも理由は明白だ。前髪で目元を隠しているからダメなのである。
――でも。
他人に目を見られるのは嫌だった。
それだけは、どうしても嫌だったのだ。
――どうすれば、いいんだろう。
「おはようございます、黒澱さん」
心臓が、縮み上がる。
いた。
そういえば、自分を積極的に認識してくれそうな人がひとりいた。
頬が熱くなる。
自分は今なにを考えていた?
ぼんやりした頭を振り払う。
と。
視界に久我絶無の指が入った。
ぐにゃりと、視界が歪む。
頭の中を垂れ込める霧が濃くなり、酔ったように思考が鈍くなる。
彼が何かを言っているような気がしたが、よく理解できなかった。
けたたましい鼓動が内側から打ち付け、ふっくらした胸を震わせたような気がする。ブレザーの制服が、なぜかとても心もとなく感じた。衣服に包まれた自分の肢体を、強く意識した。
飢餓の悶えが、呼吸を早くさせる。
――指。
泣きたくなるほどしなやかな、彼の指。
自分の全感覚が、そこに集中しているのがわかる。繊細なシルエットを目に焼きつけ、先端が机の上をすべるかすかな音を拾う。
もどかしかった。
どうして人間の五感は、こんなにも不完全なんだろう。
そして、どうしてわたしは、こんなにも苦しい思いをしているのだろう。
あぁ、そうだ。
いじめられなくなったから、おなかがすいているんだ。
――責任、とってもらうんだから。
ふつりと、脳の中で何かが切れた。重く張った胸乳の奥で、欲望は正当化される。
この指の、肌触りが知りたい。匂いが知りたい。
――あじが、しりたい。
そろそろと、自分の手がのびてゆく。かるく曲げられた彼の指のしたに、自分の掌をさし込んで、もちあげる。
やわらかな体熱と、甘い肉につつまれた骨の硬さに、陶然となる。
彼がまたなにか言っていたが、すぐ目のまえまで迫ったこの指先よりだいじなことなんて、この世にない。
黒く熱い吐息が唇から漏れ、いただきます、と口の中で呟いた。
「はむ」
しあわせが、舌のうえにひろがった。
怖気のような多幸感が、背筋をそそけ立たせる。
●
マグマに指を突っ込んだ気がした。
黒澱さんの口の中では、さまざまな欲望が煮えたぎり、溶け崩れていた。
《あまい/やわらかい/ねっとり/こりこり/すべすべ/あまい/こいい/あまい/しょっぱい/ねっとり/しあわせ/しあわせ》
――ふむ。
絶無は食べられていない方の手で眼鏡を押し上げ、甘い煮汁のようなその思考を受け止めた。
彼女が自分の指に執着を抱いていることは知っていたが、いやはや、ここまでストレートな挙に出るとは予想していなかった。
熱い舌が、子猫のように絶無の指へと体をこすりつけてくる。
舌、とは、高度に完成された感覚器官である。
認識の相互作用からエネルギーを取り出して生きている悪魔にしてみれば、この行為には何か生命維持に関わる重要な意味があるのだろう。その相手に自分を選んでもらえたのは、とても光栄なことだと思う。
周囲が騒然とざわめき始めた。無粋な連中である。
彼女はそれに気付かない。音も立てずに、絶無の指をねぶっている。靄がかったように陶然とした表情が、とても美しかった。
と、急に黒澱さんは身震いをした。
《え/え?》
目を白黒させながら、周囲に向ける。
……ようやく気付いたようだ。
クラスの蒙昧どもの驚きと好奇の視線が、矢のように集中していた。
途端、嵐のような動揺が伝わってくる。
《みられてる/どうしよう/どうしよう/やだやだ/わたし/どうしよう/みられてる/どどどうしよう》
「よし、取れました」
絶無は彼女の口から手を引いた。指先と唇の間が、透明な糸で結ばれる。
黒澱さんは一瞬切なそうに眉をひそめたが、やがてパニックに陥ってあわあわとあてどなく両手を動かしはじめた。
「急に不躾なことをして申し訳ありません。大丈夫ですか? 口の中刺されていませんか?」
とりあえず、飛来したハチが彼女の口の中に入り込んだので咄嗟に指を突っ込んで摘出した――という設定でごり押すことにした。
すでに濡れた指は握り締められている。
『ごめんなさい。もうしません。』
顔を隠すように、彼女はノートを広げている。
「いえ、僕のほうこそ、申し訳ありませんでした。念のため保健室に行きましょう」
彼女の腕を取って、丁重に教室の外へとエスコートした。
好奇の視線は、完全には消えなかった。
引き戸を閉め、しばらく歩いてから、拳をゆっくりと開いた。
彼女の唾蜜が風に当たり、薄荷のようにひんやりとしている。ずくん、ずくん、と脈拍に合わせて甘い痺れが指先を苛んでいた。
「いつでも、どこでも、何度でも、好きなだけ」
脈絡もなく、絶無は口を開く。
こちらに目を向けた黒澱さんへ微笑みかけながら、
「お召し上がりください。こんな指でよければ」
見る見る彼女の頬が紅潮してゆく。
ふるふるっ、と首を振る。
「そうですか? とても美味しそうに召し上がっておられましたが」
ふるふるふるふるっ。
「僕は今、とてもうれしいのです。ようやくあなたにご奉仕できる事柄が見つかったのですから」
ぶんぶんぶんぶんぶんっ。
「次は誰もいないところで、二人きりでじっくりとご賞味ください」
「~~~~っ!」
彼女はノートを取り出すと、急いた手つきで何かを書きつけた。
『わすれてください。さっきはどうかしてたんです。』
もちろん、絶対に忘れるつもりなどなかった。
●
昼休み。
中庭のベンチにて、絶無は黒澱さんと並んで弁当を広げている。
すでに病院での顛末はあらかた話し終えていた。
「そしてこれが、秋城風太から強奪したモノです」
掌を開いて、彼女に差し出す。
奇妙な物体だった。親指よりやや大きい程度の小瓶である。中にはミイラのように痩せ細った小動物が入っていた。
一見するとネズミのようにも見えるが、前肢から皮の翼が生えている。干乾びてほとんど破れていたが、万全の状態なら空を飛ぶことも出来そうだ。全身は古びた紙のようにぱさついており、すでに死んでいるようにも見える。しかしよくよく目を凝らせば時折苦しげに痙攣していた。
小瓶を持つ手を通じて、認識子を流し込んでやりながら、黒澱さんはノートをこちらに掲げる。
『間違いありません、この子は悪魔です。微弱な認識子の波を感じます。』
「では、もはや秋城風太が堕骸装となることはないと考えて良いようですね」
こくこく。
残る問題は、悪魔を堕骸装に貶めてバラまいている黒幕。
――界斑璃杏。
病室での一幕の後、絶無は橘静夜と共に、界斑璃杏の家へ乗り込んだ。
しかし案の定、すでにもぬけの殻であった。家宅捜索の結果、いくつか興味深い事実が判明したが――まぁそれはともかく。
現在は、下僕数人を奴の家の周囲に張り込ませ、さまざまな角度から交代制で監視させているものの、動きはない。
まぁ、どうでもいいことであった。
正直、あんなクズのために脳細胞を働かせるのは大いなる浪費である。
それよりも、目の前にいる美しいものを愛でる方がよほど有意義と言わざるを得ない。
認識子の供給が終わったのか、黒澱さんはふぅ、と息をつく。見ると、干乾びたコウモリはわずかに血の気を取り戻し、苦しげな痙攣も鳴りを潜めている。彼女自身にもそれほど余裕があるとは思えないのだが……絶無には想像を絶する心理である。
黒澱さんに手を伸ばす。
「おや、落ち葉が」
もちろん嘘である。
わざと彼女の目の前を通るように手を移動させ、反対側の肩を軽く払う。
息を呑むかすかな音。ぬるぬるとした視線が触手を伸ばし、絶無の指先に絡みつく。
「珍しいですね、こんな季節に」
「……っ」
ぷいっ、と。
彼女は顔をそむける。すでに鮮やかな紅が頬にあしらわれている。
「いやぁ、しかし暑くなってきました。そろそろ夏服も検討に入れなくてはなりませんね」
心にもないことをうそぶきながら、黒澱さんの顔を手で扇ぐ。
悪魔の炎を隠す黒絹のような前髪が、わずかに揺れる。
その時、絶無のスマホがドナドナの着メロを奏で始めた。
思わず、舌打ちする。いいところで。
このメロディは、下僕からの連絡か。通話ボタンをドラッグする。
『絶無さま。ご報告いたしますわ』
華道部部長の詩崎であった。声を潜めている。
しかし、華道部には今のところ命令など与えていない筈である。界斑璃杏の家を、念のため下僕どもに交替で監視させてはいるのだが、この時間は華道部の当番ではない。
「なんだ。重要なことか」
『はい、先日、絶無さまの捜査をお手伝いさせて頂いた折、六名の殿方が重要人物として浮かび上がってきたかと思います』
「あぁ、それがどうかしたのか」
片手で黒澱さんの顔を扇ぎつづけながら、絶無は問いかける。
『その六名を含む十人程度の集団が、今しがた校門を乗り越えて学校内に進入いたしました』
絶無は眼を細めた。
「その中に女の姿はあるか?」
『はい、一人だけ。とても可愛らしい女の子ですわ』
――仕掛けてくるつもりか。
もはや扇ぐと言う体裁もなしに黒澱さんの目前で指をふらふらと振りながら、絶無は眉をひそめる。
界斑璃杏と彼女の制御下にある堕骸装たちがどのような能力を持っているのか、絶無にはわからない。
「そいつの風体は」
『ええと、ごすろり、というのかしら? あの装い。黒いふりふりしたドレスを着ていて、お人形みたいなお化粧をしておられました。背丈はとてもちっちゃいものです』
重い重い溜息をついた。
なに、それ。
暗澹たる気分になってくる。
浮世離れした残虐な美少女でも装いたいのか? チョイスが短絡的で、底が浅すぎる。
どうせゴシックの精神性など欠片も理解せずになんかそれっぽいから着ているに決まっている。
反吐が出そうだ。
「そいつらは危険人物だ。絶対に近寄るな。距離をとって女を監視しろ」
『了解しましたわ。動きがあったら連絡いたします』
はむっ、と。
指先に、熱く湿った感触が広がった。ぷにぷにした味覚器官が柔軟にうねり、指の質感をなぞっている。
「釣れた……」
『なんですの?』
「こっちの話だ。何かあれば連絡しろ」
通話を切る。
隣に目をやる。
《あまい/あまい/こりこり/ふにふに/しあわせ/ぬるぬる/ねっとり/あまいの/こいいの/しあわせなの♪》
甘美な予感。このままじっとしておけば、きっと自分の指先は、甘やかに溶けてなくなり、彼女の一部となるのだ。
その想像に、ぞくぞくとした。
「食べても、いいですよ?」
声を掛けると、彼女はびくりと肩を震わせた。
《えっ/あれ/うそ/たべていい?/あれ/やだやだ/どうして/たべてもいいの?/やだやだ/はずかしい》
「ほら、歯を立てて。ゆっくりと顎に力を込めましょう。皮膚は破れ、肉は痙攣しながら潰れ、甘い血が口の中いっぱいに広がりますよ……」
んく、と彼女の喉が動いた。
強烈な葛藤が、黒澱さんの中で渦巻きだす。
やがて、前歯が震えながら指の付け根に、あてがわれた。
全身の血流が、ごうごうと音を立てるような心地。
――その時、足音がした。
巨大な影が二人を覆う。
「おい久我、昨日のことだが……て、お前は何をしている?」
『静夜、男女の絆にはさまざまな形がありうるのです。あまり気にしないのが一番です』
「~~~~~~~っ!」
両手で顔を覆い、逃げ去ってゆく黒澱さん。
「……デリカシーのない野蛮人どもめ。貴様らのせいで黒澱さんが逃げてしまったではないか」
わりと本気の殺意を漲らせながら、絶無は闖入者を睨みつける。
色彩という概念を削ぎ落とされたような肌と白髪。長身痩躯。しかしそれは極限まで凝縮された筋肉が強靭に漲っている証左でもあった。
橘静夜。制服姿が似合わないことこの上ない偉丈夫である。
「邪魔をしたのは悪かったが、命を狙われている時に女といちゃつくのはどうなんだ」
「ふざけるな。あの方を喜ばせる以上に重要な案件などこの宇宙に存在しない」
『意外ですね。あなたは自分が一番大切な人間かと思っていましたが』
「ついこないだまでなら、誇りを持ってそうだと断言していたところだがな」
『ふふ、相変わらず人間とは不合理な生き物ですね。そんなところが実に愛おしい。今風に言えばブヒるというやつです』
なんだこいつ。
「……それで、何の用だ。くだらんことならお前らの耳を引き千切るぞ」
無論、本当に耳を引き千切る理由など宇宙のどこを探しても見つかりそうにないが、「こいつならやりかねない」というイメージ作りを普段から行っておくのは重要である。万事につけて意志を押し通しやすくなる。
しかしそんな恫喝も、橘にはいかほどの感銘も与えなかったようだ。
「そうやって自分から他人を遠ざけて何がしたいんだお前は。……昨日のやりとりで、敵の狙いはお前に絞られた。つまりお前のそばに張り込んでおけば、黒幕の、あー、界斑なんとかとかいう女に行き当たるわけだ」
「いらん。失せろ。あのカスは僕が始末する」
「勘違いするな。お前のためではない。いや……ついでに守ってやるくらいならやぶさかではないが、俺たちの目的はあくまで界斑なにがしの凶行を止めることだ」
『極論すれば、あなたをオトリにして敵をおびき出したいわけです』
道化の化粧のように刻み付けられた目元の傷跡が、目蓋の動きにあわせて伸び縮みする。
絶無はじっとその様子をねめつけながら、ひとつ息を吐き、腕を組んだ。
「……何故だ?」
「何故、とは?」
「お前らは何故そんなことをする? 何か得があるのか? それとも何かの信念のもとに動いているのか?」
しん、とした沈黙が、降り積もってきた。校舎から聞こえてくるざわめきだけが、遠く大気をどよもしている。橘静夜は無言で、絶無の隣に腰を下ろした。
「……かつて、奪われ踏みにじられる側だった。力を得た今でも、その時の悲しみと惨めさを忘れたくないと思っている」
重い石を吐き出すような口調だった。ゆっくりと、自らの胸を抑える。
そこに、なにかあるのだろうか。庇うような手つきだった。
明らかに無意識の動作である。常日頃から胸を庇いつづけているようだ。
――心臓、か? 病気というわけでもなさそうだが。
絶無は目を細めた。
「その正義感だけで、自分を犠牲に出来るか?」
「さてな。はっきりいってザラキは強い。大抵の悪魔は一蹴できる。今まで『自分の命を投げ打たなければ他人の命を救えない』ような状況に陥ったことがそもそもない。だから、いざそのときになって自分がどういう行動を取るかは、正直わからん」
――ほう。
絶無は少しこの青年を見直す。偽善者は、嫌いじゃない。少なくとも、善意を表明する勇気は評価できる。発狂した猿のように偽善偽善言いながら他者の荒探しをするだけの無能と比べたら、人間的にはずっと格上である。
「まぁ、二者択一を迫られたときバカ正直に片方しか選べないような奴は、ヒーローとしては二流だと思うがね」
気負いもなく、そう言ってのける。
絶無は、軽く目を見開いた。
それから目を閉ざし、深く呼吸した。空気の味が、どこか変わっている。肺腑に清澄な気が満ちている。
「同感だな。危機管理ができてないからそういう破目に陥るんだ。怠惰な無能だけが『葛藤』とやらを神聖視する」
「そりゃ言いすぎだ」
「ふん」
絶無は静夜の腕に目をやった。青銀色の分厚い手錠がはめられている。
「で、お前は? なぜこの男に力を与えた?」
『さて、小生はとりあえず認識子さえ頂ければ特に文句はありませんので』
――嘘だな。
即座に見抜く。そして、こちらが見抜いていることを、ザラキエルは見抜いている。要するに、何か確固とした目的があるのだが、それを今この場で教えるつもりはない、と。
そういう意思表示なのだろう。
「……そうか」
視線を前に戻す。校舎の陰から、黒澱さんが顔をのぞかせてこっちを見ている。
まぁそれはともかく。
「久我、次はお前の番だ」
「なに?」
「お前には戦う理由などないように見えるがな。なぜそこまで悪魔のいさかいに首を突っ込もうとする?」
「理由ね、ふん」
絶無は、目を細める。
今までずっと渦巻いてきた思いを、どうにか言葉にしようと、思案を巡らせる。
「――才能、というものについて、お前は考えたことがあるか?」
「さい、のう? 持って生まれた、の才能か?」
うなずく。
「僕はな、橘。中学のある時期まで、自分のことを天才だと思っていたんだ。周りの同級生たちに比べ、僕はありとあらゆる分野で圧倒的なまでに優れていたからな」
「……それで」
「加えて、僕の父親は『人としての臨界を極めた』と称しても過言ではないほどの万能者であった。彼の業績をいちいち列挙することは避けるが、この国に息づく国債や株式の半分は彼を盟主に仰ぐ組織によって買い支えられていた――という控えめな表現は付け加えておくとしよう。無邪気にして単純な当時の僕は、自らを生まれながらの強者であり、偉大な父の偉大な血によってあらゆる成功を約束された存在なのだと考えていたんだ」
「……その父親話の真偽はともかくとして、それで? 中学で自分以上の天才にでも出会ったのか?」
「いいや、会えなかった。会えていればどんなに良かっただろうと思うがな。周りの連中の低脳ぶりに対しても、当時の僕は寛容だったよ。『彼らは自分とは違って、天才ではないのだ。だから仕方ないのだ。彼らは彼らなりに精一杯頑張っているのだ。仕方ないのだ』……そう自らに言い聞かせながら、誰に対してもニコニコと愛想良く接していたものさ」
今にして思えば、まったく、我ながら吐き気を催すほど醜悪な精神だった。
「だが――違ったんだ」
「違った?」
「ある日、父は僕に言ったよ。よく頑張っているね、と。感心感心、とも」
静夜は不可解そうに眉をひそめた。
「それが、なんなんだ? よくわからんが、父が子にかける言葉としては普通のもののように思えるが」
「僕は、こう返した。なにも頑張ってなどいません。すべてはあなたの血がもたらした成功です、と。それは偽らざる本心だった」
そして、その事実が、突きつけられた。
「父はしばらく黙った後、こう言った」
●
――そろそろ、話してもいいかもしれないね。
腕を組み、父は穏やかに微笑んだ。
――絶無くん。君はきっと、謙遜をしているつもりはないんだろうね。謙遜とは卑怯者のすることだと、そう考えているね?
もちろんです、と絶無はうなずいた。死んでも謙遜なんかしません。
――だけどね、君の今の発言は、図らずも謙遜になってしまっているんだよ。悲しいことにね。
どういう、ことですか?
――絶無くん。僕の愛しき子よ。よく聞くんだ。君は、僕の血を引いていない。
え。
――君はね、昔死んだ僕の戦友の、忘れ形見なんだ。僕と君は、本当の親子じゃないんだよ。
それまで絶無を優しく包んできた世界に、罅が入った。
ひょっとしたら、それは世界などではなく、卵の殻に過ぎなかったのかもしれない。
――絶無くん。僕はね、ちょっと心配になっているんだ。君はあまりにも〈彼〉に似ている。
〈彼〉……
――そう、君の血縁上の父親のことさ。
いったい、どんな人物でしたか。やはり僕と同じく天才でしたか。
――〈彼〉はね、ひたむきな頑張り屋さんだった。僕に比べれば恐ろしく不器用で、要領の悪い奴だったけど、それでも人の十倍努力し、人の十倍有能だった。君と同じだね。
そんなはずはない。僕はクラスの面々と同じだけの努力しかしていません。なのに僕のほうが圧倒的に優秀です。つまり僕は天才なのです。
――絶無くん。例えば君は、テストで百点を取るためになにをしている?
教科書を丸暗記します。誰でもしていることです。
――いや、しないよ? 普通の人は教科書丸暗記とかそういうことはしない。文法とか公式とか、核となるシステムだけを覚えてなんとかやりくりしているんだ。
馬鹿な。それじゃあ完璧には程遠いじゃないですか。失点を犯すリスクが大きすぎる。
――そうだよ? だから彼らは満点が取れないんだ。君と違ってね。当然の帰結さ。
な……に……?
●
「わかるか、橘」
「さっぱりわからん。要点を言え」
「僕のこの卓越した万能性は、生まれながらに父から受け継いだものなんかじゃなかったということだ」
拳を、握り締める。やりきれないものを感じる。
「それを知ったときの、僕の気持ちを、どう言い表せばいいだろう」
「……」
「まず最初に、誇らしい気持ちになった。僕が同級生の蒙昧どもより十倍も優れているのは、要するに十倍努力したからだったのだ。僕はこの優秀性を、自らの意志で勝ち取ったのだ。生まれながらに与えられたのではなく、自分の意志で!」
「それはめでたいな」
「そして次の瞬間――絶望した」
「なぜ」
「なぜ、だと!? わからないのか。今まで尊厳ある人間社会の中で生きてきたと思っていたら、実は豚小屋の中に放り込まれていただけだったという事実をいきなり突きつけられたんだぞ!?」
「……何が言いたいのかよくわからん」
「周囲の連中が低脳なのは、才能がなかったからじゃない。努力してないからだ。僕より遥かに努力せず、必然の結果として僕より遥かに劣るような連中のご機嫌をなんで伺ってやらねばならんのだ。ふざけるな、と思ったね。それが普通だと言うのなら、世の中ってのはずいぶん下らないんだな。まるで世界すべてが不潔な豚小屋だ。これが絶望せずにいられるか」
「駄々をこねて泣き喚く子供そのものだな。他人が自分に合わせてくれることを期待しすぎだ。大人になれ」
「お前の言う大人とは何だ? 節を曲げて他人にへつらう生き方のことを言っているのか? だとしたら一生涯そんな下等生物になる気はない」
「お前が言っているのは強者という立場に寄りかかったポジショントークにすぎない。誰しもそういうエゴを飲み込んで折り合って生きている。お前はそれをいいことに、一人だけ我を通して得意がってるだけだ」
「世の中ポジショントークの押し付け合いでバランス取ってんだろうが。他人に一切エゴを押し付けない人間なんて存在してないも同然だろ。一人分の酸素が無駄だから死んだほうがいい。エゴを押し付けられたくないのなら、腕力でも権力でも知力でも財力でも何でもいい、自分のエゴを守れるだけの強さを得るよう努力すべきだ。努力はしないがエゴは押し付けられたくないなんていうその思考が根本的に甘ったれてんだよ。無理だから、それ」
「努力しなければならないことぐらい誰でもわかっている。しかし、誰しもがお前のように努力できるわけではない」
「それでもな、橘……」
絶無は、声を落とした。
こみ上げてくるものを堪えながら、言葉を紡ぐ。
「それでも……いたんだよ」
「何がだ」
「何の才能もなく、家は貧困の極みで、ヒキガエルみたいなニキビ顔をし、ひどい吃音を持ち、愚鈍極まる挙動で、あらゆる人間から蔑まれ、罵倒され、学校にいる間中嫌がらせを受け、それでもなお必死に努力を続けた……そういう弱者は、いたんだよ」
――おれ、は、おまえ、が、嫌いだ。だから、ありがとう、は、言わ、ない。
そいつの言葉が、今も胸にこびりついている。どれほど洗い流したくとも、決して落ちぬ。
怒りとともに。恨みとともに。
「だからこそ……だからこそ、だ。橘」
絶無は立ち上がり、静夜を正面から見据えた。
「怠惰な無能を憎悪している。死ねばいいのにと常々思う。だけどな、人の心は複雑なんだ。昨日までしょうもない豚野郎だったのが、今日は懸命に修練を積み上げる人間になっているかもしれない。そうならないとは誰にも断言できない。だからな、橘。僕はな。目の前にうごめく弱者どもが、毅然と胸を張って運命に立ち向かう意志を獲得する、その可能性がほんのわずかでもある限り、そいつらの命が脅かされようとしている時は、命をかけて弱者を守る。気の進まない限りだが、それが僕の主義だ。人殺しは殺す。例外はない。どんな事情があろうが斟酌しない。必ず、殺す」
「……傲慢にもほどがある」
「おやおや、珍しく素直な褒め言葉が出たな」
口の端を吊り上げた。
絶無は、思う。
――橘静夜とザラキエルは、『王の覚悟』を持っているのかも知れない。
受け取るのではなく、勝ち取ることに意味を見出す心持ち。四肢をもがれ、目と耳と鼻を潰されようと、力の限り前へと這い進む心持ち。
もしも、こいつらがそうなのだとしたら――
絶無は、自らの中に、今まで感じたことのないような気持ちがあることを自覚した。
力強く沸き立つ、快い昂ぶり。
腹の底に蓄積された高揚感を吐き出すように、絶無はゆっくりと息を吐いた。
「ならばお前たちは、僕の人生に現れた、最初の友になるのかもしれない」
口の中で、そう呟く。
●
『ならばお前たちは、僕の人生に現れた、最初の友になるのかもしれない』
頭の中に、声が響く。
秋城風太は、病室に居ながらその言葉を聞いていた。
隠し切れない喜びを、どうにか隠そうとしている口調だった。
――きっと、人を褒めることに慣れてないんだろうな。
そう、思う。
『……なんだ? 今何か言ったか?』
不審そうな橘静夜の声。
『黙れ野蛮人。独り言にいちいち反応するな』
風太の頭の中で、こういう奇妙な声がするようになったのは、昨日からだ。久我絶無という人の周りで起こる物音や音声が、なぜか克明に聞こえ始めたのだ。
恐らくは――界斑璃杏に貰った、コウモリのミイラが原因である。
あれを久我絶無に強奪されてから、このテレパシー現象がずっとつづいている。コウモリの耳に入った音が、病室にいる風太の元まで届いているのだ。
どういう仕組みなのかは、よくわからない。
ただ、今は手元にないあのコウモリと、見えない絆のようなものを感じている。
脳内に響く久我絶無の会話内容から察するに、どうやら超自然的な事態に自分は巻き込まれたらしい。
プライバシーもなにもあったものではないが、自分の意志で止められないのだからどうしようもない。
……少し、羨ましかった。
音だけとはいえ、擬似的に久我絶無の生活を体感し、さまざまなことがわかった。
彼は、悩まない。
そうした心の動きを、怠惰な人間が自分の無能さから目をそらすために行うもっとも卑劣な行為であると考えている。
問題の本質を理解し、情報を集め、対策を考案し、断固として実行する。
そういうプロセスが、ほとんど本能と一体化しているのだ。
――それは、人の在り方ではない。
風太は軽く息をつく。
他人と目を合わせるだけでも勇気が必要な性分だ。何をやっても人並み以下。そのくせ自尊心だけは普通にあるのだからたまらない。屈辱に耐え、うつむきながら、嫌なことが通り過ぎていくのを待つ。それが風太の人生における基本姿勢である。
――きっとこの人は、なんでも苦労せずにできてしまうんだろうな。
膝を抱えながら、そう思う。
足首はもう、治っていた。もともと脱臼しただけだったので、数日の入院で歩く分にはほぼ支障がないレベルまで回復している。医師は驚異的な回復速度だと驚いていたが、ぴんとこない。
明日、退院だ。
また、学校に行かなければならない。
気が重くなる。
「学校なんて、なくなればいいのに」
陰々と、つぶやく。しかし学校をやめて自分の人生を模索できるような度胸も能力もないのであった。
『……なんだ、これは』
『ふん、来たか』
不穏な声が、数キロの距離を隔てて聞こえてくる。
――なんだろう……?
風太は耳をそばだてた。
●
校舎は、騒然としていた。
不安げなざわめきが、そこかしこで上がっている。
「……なんだ、これは」
「ふん、来たか」
絶無と静夜は、中庭のベンチに座ったまま、その様子を見ていた。
……辺りは、濃厚な闇に包まれていた。
ついさっきまで昼の日差しが降り注いでいたにも関わらず、一瞬にして夜になってしまったのだ。空には月も星もなく、押し潰されそうな漆黒がどこまでもつづいている。
――界斑璃杏か。
即座に直感する。
『恐らく、堕骸装の事象変換ですね。界斑璃杏の手駒の一人でしょう』
「つまり襲撃か? 今ここで?」
静夜が不可解そうに眉をひそめた。
絶無は鼻で笑う。
「どうやらあの愚図の捜査能力では、僕がこの学校に通っていることまでしか突き止められなかったようだな。辛抱の足らんガキはこれだから困る」
「しかし、大勢に見られるぞ。界斑なにがしはどうやってもみ消すつもりなんだ」
『隠蔽するつもりなどないのでしょう。この夜天化能力は、《平穏の座》に連なる悪魔に多く見られる事象変換です。周囲一帯を世界から切り離し、入ることも出ることも不可能な空間を作り出しているわけですね』
静夜が立ち上がった。
中庭を囲む校舎で、ぽつぽつと明かりが灯り始めている。
「つまり、あれか? 学校を閉鎖空間にして逃げ場を絶ち、中にいる人間を皆殺しにしようと?」
『えぇ、見過ごしては置けません。第三世代より古い悪魔ならば、通常の物理法則に加えて何らかのルールを空間内に押し付けることができる個体も多くなります。小生も前回の魔戦では彼らに苦労させられたものです』
瞬間、恐怖に満ちた悲鳴が、学校を引き裂いていった。
静夜は小さく毒づく。
「……久我、少し離れていろ」
「ふん」
立ち上がって五メートルほど後ろに下がる。
静夜は体を半身に開き、分厚い手錠に手をかけていた。
鋼の環が、自ら鮮烈な光を放つ。
「――骸装」
静夜の口から、深く鋭いエコーのかかった声が広がる。決して大きくはないが、周囲に殷々と反響してゆく声だった。
蛍火のような光の粒子が、静夜の周囲にぽつぽつと出現してゆく。燐色の軌跡を曳きながら、無数の光点が衛星のように回り始めた。
回転速度は急速に上がってゆく。まるで光の竜巻のようだ。同時に回転半径も小さくなってゆき、ぎゅっと収縮。そして静夜の体に重なった瞬間――
ひときわ眩い閃光が中庭を白く灼いた。大気が押し広げられ、壁のような風圧が全方位に発散。
絶無は顔を庇いながら、じっと見ている。
やがて、光が収まる。
――そこに、人型の要塞が出現していた。
亀裂のような黄金の魔眼が、絶無を捉える。
『久我、お前はどこかに隠れていろ』
城壁のように厳めしい肩を軽く回す。校舎から漏れ出る電灯の光が、青銀色の総身に複雑な光沢を与えていた。
重厚な具足で中庭を踏みしめ、やや前屈姿勢をとる。
即座に両肩の装甲が展開。青白い炎を激しく噴出し、鋼鉄の巨体は弾かれたように飛び出した。
校舎のコンクリート壁を発泡スチロールのように突破。悲鳴の方へと一直線に突貫する。
「やれやれ、ドン・キホーテめ」
肩をすくめ、絶無は別の方向に歩みだした。
もちろん、大人しく隠れるつもりなど毛頭なかった。
校舎の陰にいる黒澱さんと合流。
恐怖と不安の色が濃い彼女に、微笑みかける。
「大丈夫。僕がなんとかします。あとはどれだけ人死にを抑えられるかの問題です」
――まず、夜天結界が覆っている範囲について。
私立孤蘭学院高等学校の敷地を完全に覆い尽くす巨大なお椀を仮定してみる。
結界を作り出している堕骸装の居場所として真っ先に想起されるのは、なんといっても半球の中心点であろう。
いささか根拠には欠けるが、至極妥当な推論と言うものである。
――第一校舎西側あたり、か?
出来れば結界の外周を確認して孤の角度から正確に中心点を算出したいところだが、今はそんな時間はない。
絶無は、今後の指針について思案した。
「……まず、用務員室。次に放送室へ向かいます」
こくこくこく。
「はぐれると危ないので、お手を拝借してもよろしいでしょうか?」
こ…こくこく。
少し頬を染めた黒澱さんは、おずおずと青白い手を差し出してくる。
世の中にこれほど柔らかいものがあるのかと感嘆を覚える手触りを、ふにふにといつまでも味わっていたい気持ちになるが、自省。彼女の手を引き、校内を駆け出した。
そこかしこで、恐慌と悲鳴と残虐の気配が漂ってくる。
界斑璃杏と、奴の制御下にある堕骸装たちが、思うさま認識子の詰まった血袋を食い散らかしているのだ。
生徒たちが、殺されてゆく。
――可能性が、喪われてゆく。
歯が、軋る。
《おこってる/すごく/まもる?/弱いもの/わたしみたいな/おこってる/あれほどきらっているのに?/まもる?/たすける?/それでも?》
――それでも、です。
可能性の亡者たらんと、自らに課するのだ。殺人とは可能性への究極的な冒涜である。断固とした姿勢で挑まねばならない。
人殺しは殺す。必ず、殺す。
●
いくつかの壁を突き破り、十秒とかからずに橘静夜は悲鳴の発生源に到着した。
下駄箱が連なる一角で、饐えた匂いが立ち込めている。
「ヒッ、ひぃ……っ!」
一人の男子生徒が、尻餅をついている。
その視線の先には――案の定、堕骸装である。
――ぶるぶるぶるぶるぶる! ぶるぶるぶるぶるぶる!
巨大な芋虫そのものの頭をしきりに振り立てながら、汚猥な粘液を撒き散らしている。
頭の先からは、細かい繊毛の生えた触手が数本伸びているようだった。
いや、それを頭と称しても良いものか。人間の上半身を多い尽くすように、あらゆる方向へ巨大な芋虫が顔を出しているのだ。
冒涜の肉花。
足元には、槍衾のように無数の孔が穿たれた血まみれの死体が三つ、転がっていた。
いずれも、制服を着ている。顔もわからないほどの損壊ぶりであった。
ぎりり、と、巨大な拳を握り締める。
《静夜、魔戦が始まれば、こういった光景は何度でも繰り返されることになります》
頭の中で、ザラキエルの声がする。
『わかっている。速やかに処分しよう』
怒りを努めて抑えながら、応える。
静夜は恐慌に陥っている男子生徒の襟をつまむと、強引に立ち上がらせた。
『どこかに隠れていろ』
「ひぇぇ~!」
こけつまろびつ走り去ってゆく。
――ぶるぶるぶるぶるぶる!
次の瞬間、矢のように飛んできた触手群を一握で掴み取った。
雷光のごとき動き。静夜以外の誰にも不可能な反応速度。
『さて……お前たちが悪いわけではないが――』
ぐじゅりと握り潰しながら、睨みつける。
『――少し、痛い目を見てもらおうか』
力を込めて、腕を引く。
こちらにつんのめる堕骸装。
床を砕く勢いで踏み込んだ静夜は、異形の巨腕を開き、五つの禍々しい鉤爪を撃ち込んだ。
まるで豆腐のような手ごたえと共に、黄土色の体液が盛大に吹き上がる。芋虫の頭がいつくか抉り飛ばされ、床で激しく痙攣した。
振り抜いた腕を、今度は裏拳の形で薙ぎ払う。
濡れ雑巾を叩きつけたような音とともに、醜怪な肉花は吹き飛んでゆく。
――こんなものだ。
凶器に等しい両腕を苛烈に振るいながら、静夜は苦い思いを噛み締めている。
もとより、相手にならないのだ。堕骸装と霊骸装の間には、厳然とした差がある。
自己認識の有無――つまり自らが存在していることへの本質的な理解があるかどうか。
これが万全に備わっている人間(ほとんどがそうなのだが)と悪魔が契約すれば、認識の循環構造の中に自らを組み込むことにより、自動的に認識子を生み出す回路を構築できる。生産速度に限界はあるものの、半永久的に認識子を安定供給できるし、それを戦闘に利用すれば、
――まぁこの程度にはなる。
芋虫の集合体に拳を深々と打ち込む。体液が吹き上がる。
しかし、堕骸装にはそんなことはできない。人間側の認識能力に不備が生じているため、認識子の生産回路が構築されず、その力は自ずと限定されたものとなってしまう(この不備を補うため、堕骸装は本能的に人間を殺傷し、その中に蓄えられた認識子を吸収しようとする)。
だから、静夜は堕骸装に苦戦したことがない。強敵として記憶されるのは、例外なく霊骸装である。
――にも関わらず。
異形の肉塊を殴り潰し、削り潰し、叩き潰しながら、静夜は歯噛みする。
『俺は、いつも間に合わない……』
ぞぶり、と緑の腐肉の中にガントレットを突っ込み、そのまま持ち上げると、背後の壁へと振り向きざまに叩き付けた。
轟音。コンクリート壁が脆い土のように粉砕される。黄色い粘液が、放射状に飛び散る。
それが、とどめとなった。原形もわからぬほどに破壊しつくされた肉花は、わずかに発光しながら蒸発してゆく。
認識子の貯蔵が底を突き、骸装態を維持できなくなったのだ。抉り飛ばされた肉片や体液も、風に吹かれるように消えてゆく。
だが、その横に顔もわからぬほど損壊した死体が転がっている事実が、静夜の奥歯を噛みしめさせる。
間に合わなかった者たち。守れなかった者たち。彼らは今後も静夜の胸の裡に累々と横たわり、虚無に満ちた死に顔を見せてゆくことだろう。その目に恨みがましい色すらなく、ただひたすら無意味な空虚を湛えていた。
犠牲者たちの最奥に、五体満足の少女がひとり、腰の後ろで手を組んで佇んでいる。静夜と同じく白髪白皙の、悠然たる微笑みを浮かべた娘。
――カフ=ギメル。
反射的にその少女の名を口走りそうになって、静夜は猛烈な危機感に襲われる。駄目だ。今その名を言ってはいけない。思い出してしまうから。思い出してはならないことを。
振り払うように首を振る。
《静夜、あなたは現状ではよくやっています。必要以上に自分を責めるべきではない》
低く深い声が、ようやく無意識下の地獄から静夜を引き上げてくれた。
思わず、息をつく。
『……だがな、ザラキ。俺はこれに関して、妥協なんかすべきではないと思う』
刻々と舞い散ってゆく光の粒子の中から、横たわった少年が現れる。顔を横に傾けながら、のんきなイビキが聞こえてくる。
堕骸装の宿主だ。
《まぁ、向上心があるのは良いことです。もう少し半端な覚悟でヒーローやったほうが、あなたのためには良いと思いますがね》
『無用な気遣いだ。次、行くぞ』
《あ、言い忘れていましたが、ザラキエルです。最後のエルが重要なのです》
両肩で認識子の炎を勢い良く噴射。次なる敵を探して、鋼鉄の騎士は一個の弾体と化した。
……と。
その瞬間、学校中のスピーカーが一斉に音声を発した。
『あー、あー、生きる価値ゼロなゴミ野郎の代表格であるところの界斑璃杏に告ぐ。生きる価値ゼロなゴミ野郎の代表格であるところの界斑璃杏に告ぐ。聞こえているか? このカスが』
少しくぐもっていたが、紛れもなく久我絶無の声だった。
『辛抱の足らんフナムシ風情の考えることは本当にお粗末だな。脳みそをママの腹に忘れてきたのか? そんなだから僕の住所ひとつ特定できないんだよ間抜け。ウジムシ。下衆下郎。さて、今回の放送の意図を、愚かで哀れでこの先生きていたって何一つ良いことなどないであろうオマエでもわかるように説明してやろう。泣いて喜ぶべきだ』
――何をやっているんだあの莫迦は! 死にたいのか!
静夜は拳を握り締め、急激に方向転換。放送室に向かう。
『――僕はここにいる。僕を殺したいのなら来るがいい。もちろん罠だがな』
言いたいことだけ言って、ぶつりと放送は切れた。
●
――界斑璃杏。
その名を聞いたとき、秋城風太は自分の肩がびくりと震えるのを感じた。
「界斑、さん……?」
それは甘い痛みを伴った名前。
退屈と不安で満たされた日常に、突如現れた少女。
――風太お兄ちゃんはぁ、璃杏ちゃんの堕骸装なんですぅ!
キラキラとした目を風太に向けながら、彼女はそう言った。
――おねがい、璃杏ちゃんと一緒に戦って? ね、ね、おねがい~。
現代に生きる高校生のご多分に漏れず、閉塞感の奴隷と化していた風太は、むしろ自分から頼む勢いで、嬉々として彼女の軍門に下った。
堕骸装という言葉の意味も知らずに。
――これで、変わる。
きっと僕は、彼女と共に苦楽を乗り越え、なにか生きる力のようなものを成長させられるのだろう。
選ばれたのだ。
そう、思っていた。
だが。
「……っ」
たまらないものがこみ上げる。
――お前は特別なんかじゃない。あの女は、お前以外にもたくさんの男に同じことを言い、手駒にしているんだよ。
久我絶無の言葉が、重くのしかかってくる。
「どうすれば良かったっていうんだ……!」
あの人には、弱い人間の気持ちなんて、わからないのだ。
歯を食いしばる。
――確かめよう。
界斑さんが、本当に久我絶無の言うような人なのかどうか。
風太は立ち上がると、窓枠を乗り越えて病室から抜け出した。
●
――どいつもこいつも役立たずばっかりですぅ。
界斑璃杏は、こめかみをひくつかせる。
久我絶無の不愉快極まる放送を聞いた彼女は、この挑発に乗ることにした。どうせ相手は悪魔憑きでもなんでもないただの人間である。本来ならば手駒の堕骸装を一体差し向けるだけで十分すぎるのだが、「もちろん罠だがな」などとあからさまな挑発を行ってきた以上、それなりの備えはあるのだろう。
相手を舐めてかかるのはやめる。学校の各所で虐殺を繰り広げている手駒たちを一斉に放送室へと向かわせた。
のだが。
ぎりり、と歯が軋る。
『久我ァ! どこだッ!』
青銀色の巨体が、放送室で暴れ回っている。
――なんでこいつがここにいるですか!
鋼鉄の巨腕が振るわれるたびに堕骸装たちの肉体は裂け、潰れ、色とりどりの体液がしぶく。豪壮な体格に似合った、重く鋭い踏み込みによって放送室は揺さぶられ、寒気を催すほどの力で手駒が壁に叩きつけられる。
界斑璃杏は、この霊骸装を知っている。
これまで手駒の堕骸装たちを何体も葬り去ってきた、ヒーロー気取りのくそ虫ちゃん。
今回の襲撃は、もともと久我絶無を惨たらしく殺すために行ったものである。この重騎士が介入してこないように、空間閉鎖能力を持った手駒に学校を封鎖させていたはずなのだ。
なのに、なぜ。
首を振り、懊悩を追い出す。
『今は勝つことだけ考えるですぅ!』
《いいと思うよ》
璃杏と契約した悪魔――ツァバエルも同意した。
全身を充溢する認識子を練り上げ、事象変換。離れた場所にいる手駒どもに璃杏の指示を飛ばす。
タイムラグは一切なく、慣れれば対象が自分そのものであるかのような精度で操ることが出来る。《平穏の座》に連なる悪魔としては珍しい、強力な精神操作系能力である。
『認識子送ってやるですぅ! そのクソ虫ちゃんをバラバラにしちゃうですぅ!』
《いいと思うよ》
霊的な径を通じて、手駒たちに活力を分け与える。
放送室に集結させた手駒は七体。そのうち二体はすでに重騎士によって倒されている。
残る五体に、璃杏とツァバエルの認識子が供給された。損壊した肉塊の傷口からぐじゅぐじゅと再生が始まる。
『むっ……』
重騎士は、フードが形作る闇影の奥で、黄金の魔眼をしかめた。堕骸装が再生能力を発揮するとは思っていなかったのだろう。
『……いいだろう、倒れるまで潰し続けるとしよう』
破城槌を思わせる拳を握り締め、身を屈めた。瞬間、背中から認識子が噴射され、爆発的に突進。
向かう先には、口と眼と鼻と耳から異常に長い舌を生やした堕骸装がいた。人間の面影を残す姿だが、白くぶよぶよとした体は肥大化し、歪んでいる。
重騎士は空中で身を捻り、拳を大きく振りかぶった。
砲弾を凌駕する一撃が、激震する。
濡れた雑巾を叩きつけたような音。手駒の頭部が消し飛ぶ――と同時に、別の堕骸装が横合いから爪を閃かせた。
火花が上がる。青銀の前腕部装甲に受け止められたのだ。
冗談のような反応速度。
さらに四方から肉塊が殺到する。触手、節足、爪牙、毒棘――あらゆる攻撃器官が襲い掛かる。
硬質の悲鳴が連続する。
『ちっ』
璃杏と重騎士の舌打ちが、同時に響く。
――外れている。
五体がかりの同時攻撃に、重騎士は対応して見せた。巨大なガントレットが、重量を感じさせない速度で動き回り、すべての襲撃を止め続けている。鈍い光沢の装甲には、傷ひとつつかない。
――どれだけガンジョーな骸装態ですか!
『えぇ~い! このまま押し切ってやるですぅ~!』
《いいと思うよ》
恐らく、頑丈なのは前腕部のみだ。いそがしく両腕を動かして防御行動をとっていることからも、それは明らかだ。ならば、いつかは敵の集中力も途絶え、こちらの一撃が通るはずである。
そう思い直し、璃杏は次々と手駒たちに指示を飛ばした。
が。
『……面倒だ』
重騎士を中心に光の爆発が起こった。
実際には幾筋もの閃光が走り抜けただけなのだが、数の多さと眩さから、璃杏の眼には爆発のように感じられたのだ。
群がっていた手駒たちが一斉に吹き飛んでゆく。
『ひっ』
反射的に、璃杏は手駒とのチャンネルを切った。激しい光を直視するのは、まずいのだ。非常にまずい。
数瞬後、恐る恐るチャンネルを回復させる。
四方に吹き飛ばされた手駒たちが、のろのろと立ち上がりかけているところだった。
震える音叉にも似た唸りが、殷々と放送室を満たしている。
『今の、なんですぅ……?』
見ると、重騎士の周囲に、半透明の円盤が浮遊していた。
その数、四つ。
薄く、眩く、鋭く、冷たく。
凍えるような光を湛えて、円盤は漂っている。
あたかも騎士に仕える従者のごとく。完璧な秩序のもとに運行する星々のごとく。
『四つまで使うことになるとはな。統率された堕骸装がここまで厄介とは思わなかった』
重騎士は静かに言葉を紡ぐ。
『が――駄目だ。志のない刃を何度連ねようと、俺たちの命には届かない』
黄金の魔眼が、手駒たちを――その奥の璃杏を――睨みつけた。
一瞬、呼吸を忘れるような眼差しだった。
『お別れだ』
瞬間、四つの円盤が攻撃的な唸りを発しながら殺到してきた。
閃光の乱舞。
黄色い粘液が盛大に噴き上がる。
一瞬にして、堕骸装たちの体が刻み裂かれた。
鋭角的に軌道を変化させ、大気に燐光の軌跡を描きながら、斬撃光輪は殺戮の舞踏を繰り広げる。
恐らく――その正体は高速回転する刃物。
鎧の一部が変形し、自在に動く投刃と化しているのだ。
『こ、こ、この、この……!』
璃杏は、自らの痙攣を感じていた。
頬が、こめかみが、目蓋が、鼻孔が。
びくびくと、びくびくと。
苦労して産み落とした手駒たちが、次々と肉塊に変えられてゆく。
その事実が、不可解であった。
『許せないですぅ! どうしてそんなひどいことするですかぁ~!』
最後に見た光景は、唸りを上げながら迫りくる鋼鉄の拳。
指の付け根――拳骨部分から鋭い突起が突き出した、凶悪な拳であった。
『ひっどぉ~い! ひどいひどいひどい!』
《いいと思うよ》
手駒を介した遠視が途切れ、界斑璃杏は自らの肉体に戻ってきていた。
蟻走感にもにた苛立ちを振り払うべく、半透明の腕を薙ぎ払った。校舎の壁が粉砕され、盛大に粉塵を撒き散らす。
その姿は、浮遊する巨大なクリオネと言うべきものだった。
光を透過するゼラチン質の巨体。
房錘形の胴体から、ぱたぱたと動く二つのヒレが生え、その上に猫の耳のようなものが生えた丸い頭部が乗っている。
一見、愛らしいとすら言える姿形であったが――
『信じられないですぅ! どーしてあんなに璃杏ちゃんをいじめるですかぁ~!』
《いいと思うよ》
頭部が二つに割れ、中で折りたたまれていた六本の腕が一斉に伸ばされる。
半透明の五指を持つ、優美で繊細な女性の腕。ただしそのサイズは規格外であり、撒き散らされる破壊も尋常なものではなかったが。
『殺す殺す殺す! 殺してやるぅ! 殺してやるぅ!』
《いいと思うよ》
轟音を伴うストレス解消。腕が振るわれる度に、ガラスは割れ、壁は砕け、さっき雑巾みたいにねじり殺してやった生徒の惨殺死体が細切れの肉塊と化してゆく。
胴体の中央には、ねじくれた古い樹木のような硬質の骨格が存在していた。まるで水晶の珠を包む魔女の指のように、球状の空間を作り出している。
その内部に、膝を抱えて胎児のごとく体を丸めた少女が納まっていた。
一糸纏わぬ姿で、まどろむように目を閉じている。艶やかな金髪が、海草のようにうねっていた。幼く整った顔。痛々しいほどに細い肢体。
界斑璃杏の姿である。
ようやく気分が落ち着いてきたのか、荒ぶる腕たちはクリオネの頭部へと収まってゆく。
『……ふふん、まぁいいですぅ。あんなのごく一部ですぅ。そのへんで逃げ惑ってるくそ虫ちゃんたちに堕骸装を植え付けて、手駒にしてやるですぅ』
《いいと思うよ》
ツァバエルはいつも賛同してくれる。璃杏は今、この優しい悪魔と確かな絆を感じていた。
――璃杏ちゃんのことをわかってくれるのは、ツァバエルだけですぅ。
ツァバエルがその胎の中に収めている堕骸装は、残り十五体。これらを片端から学園の生徒たちに産み付けて、重騎士に再戦を挑ませる。
いくらなんでも十五体いれば勝てるはずだ。
界斑璃杏は――霊骸装ツァバエルは、音もなく宙をすべるように移動を開始した。
と――その時、あり得ないことが起こる。
ほとんど廃墟と化すまでに破壊された校舎に、暖かい光が差し込み始めたのだ。
『えっ……?』
空を見上げる。
私立孤蘭学院高等学校全域を覆っていた、漆黒の球殻型結界。
一切の出入りを禁じ、明けない夜のなかに閉じ込めていた処刑場。
それが、錆びて剥落するかのように崩壊してゆく。
『なんでっ!?』
崩壊が進むたびに青空の領域は増えてゆき、周囲は加速度的に明るくなってゆく。
璃杏は、慌てて手駒の一体へと意識のチャンネルを合わせた。
瞬間、信じがたい光景が広がった。
●
もちろん、放送室でぼさっと待っているわけがないのである。
久我絶無は薄ら笑いを浮かべながら、渾身の力を込めて腕を振り下ろしていた。
そのたびに、黄色い体液が吹き上がる。
手に持っているのは、大型のシャベルである。
――予想外なまでに予想通りだ。
界斑璃杏の、あの精神修養の足りなさそうな態度から考えて、放送による挑発に乗ってくるであろうことはほとんど確信していた。
同時に、橘静夜の気質も加味すれば、彼らが放送室で鉢合わせになるであろうことは簡単に予想がつく。
この瞬間、校内に存在する悪魔憑きどもは放送室に集結する形になるのである。
ただし、ふたつほど例外がある。
ひとつは界斑璃杏。わざわざ「罠だがな」などと明言されている場所に自ら向かうほど肝は太くないだろう。まぁこれは仕方がない。
そして、もうひとつ。
学校を閉鎖している、黒の障壁。
これを生み出している堕骸装が、どこかにいるはずである。
もちろん、結界の外側にいる可能性も考えてはいたが……
――ほぼそれはないであろう、と思っていた。
そもそも何故結界など張ったのか。
絶無を逃がさないためもあるだろうが、一番の理由は重騎士の介入を防ぎたかったからだ。界斑璃杏は重騎士が橘静夜であることなど知らないし、最初からこの学校にいることも知らない。外からやってくるであろう最大の敵を警戒して防御壁を張り巡らせていたことは想像に難くない。
――であるならば。
結界を生み出している堕骸装は、結界の内側にいるはずである。
この推論をもとに、パニックに陥っていた下僕どもを叱咤して、校内全域を捜索させ――その結果、あっさりと見つかった。
そして今。
絶無は目の前の奇怪な生物を、容赦なく叩き潰そうとしている。
人間よりも一回り巨大な雄鶏が、断末魔の痙攣を上げている。羽毛はなく、細長い芋のような体つきであった。全身にぶよぶよと膨れた芽を生やし、その先端から大小さまざまな大きさの雄鶏が首を振りたくっている。
無数の嘴が、無数の絶叫を上げていた。
「黙れ。不愉快だ」
一切の慈悲なく、黄色く濡れたシャベルの刃を打ち下ろす。
最初はこの無数の鶏頭を弾丸のように飛ばして攻撃してきたものだが、もはやその体力もないようであった。
全身がぐずぐずに耕され、弱々しい痙攣しかできない。
「動くな。目障りだ」
ひときわ力を込めて、体の端にある最も大きな頭を叩き潰した。
「救いようのない生ゴミがァ……!」
そのままシャベルに足をかけ、踏み砕く。
瞬間、雄鶏の全身が光の粒子と化して、大気に溶け散っていった。
「おやおや、死に際だけはなかなかじゃないか」
冷淡な笑みを浮かべながら、粒子の乱舞を眺めやる。
やがて、横たわる少年の姿だけがそこに残された。腹が立つほどのんきな寝息を立てている。
「絶無さま!」
後ろから、艶やかな声がした。
振り向くと、腰まで届く黒髪を揺らした少女が駆け寄ってきている。
「お見事でございます。偉大な御方とは思っておりましたが、敬服の念を新たにさせていただきますわ」
華道部部長の詩崎鏡香。以前、部がらみのトラブルを解決してやった縁で、自ら絶無に忠誠を誓った女である。
和服の似合いそうな佳人であり、立ち振る舞いも優雅。絶無に敬意を払っていても決して媚びた態度は取らないその人品は、なかなかに見所があった。
彼女の後ろに、華道部の面々も付き従っている。こちらはかなり怯えと憔悴が見える面持ちだった。
「今の生ゴミは戦闘向きの超常能力を何も持ってはいなかった。だから楽に処理できた。他の奴はこうはいかん」
「それでも、偉大な行いでしたわ。ほら、空が元通りになってゆきます」
詩崎の言うとおり、窓から燦々と陽光が差し込んできている。
雄鶏の堕骸装を殺したことにより、結界が消滅したのだ。
「これで避難ができるな。さっさと逃げろ。今回のことはよくやった。お前たちの勇気と忠誠には必ず報いるとしよう」
実際、この混乱の中でまともに絶無の命令を遂行したのは華道部だけであった。
諜報・捜索要員として、ここまで優秀とは予想外である。
「絶無さまはどうなさいますの?」
「まだやるべきことがある」
「で、でしたら、わたくしもお供いたしますわ。何かのお役に立てるやも……」
「いらん。足手まといだ。大人しく自分の命だけ考えていろ」
見れば、彼女の足はかすかに震えている。
常に余裕と気品をもって動く才女も、さすがに閉鎖環境で怪物が殺戮を繰り広げるような異常事態には恐怖を隠せないようだった。
「し、しかし」
「分を弁えろ。お前に期待する働きは荒事ではない。必要ならばこちらから命令する」
「……はい……出すぎた真似をいたしました」
渋いものを飲み込んだ表情で、詩崎は引き下がる。
絶無はシャベルを担ぎなおし、床に落ちていた金属バットを拾い上げると、断固たる決意をもって歩み始めた。
●
――絶無くん。有害なクズは死んでいいと思わないかい?
穏やかで柔らかな声が、絶無の脳裏で反響している。
過去の記憶。己の天才性に疑いを持たず、無垢な幸福に包まれていた頃の思い出だ。
見上げるほど大きな父が、しゃがみこんで絶無と視線を合わせ、微笑んでいた。
おもいますっ、と一切の迷いなく絶無は応えた。
――ありがとう、絶無くん。きみは僕の自慢の息子だ。
大きな手が、くしゃりと頭を撫でてくれた。
――じゃあ、無害なクズはどうする?
まもりますっ、と元気良く絶無は応えた。
いのちにかえてもっ!
……ところが父は、悲しげに首を振った。
――お父さんはその気高き思想に敬意を表するよ。でも、ダメだ。他の誰がやろうとも、きみだけはそれをしてはならない。
どうしてですか? と眉尻を下げて、絶無は聞いた。
――この世にきみより大事な命なんてないからさ。きみは僕のすべてを受け継いで大人になってゆく。つまり史上最も偉大な人物になるんだ。
絶無はただ黙って、父の話に耳を傾ける。
――だから、ダメだ。いくら無害といっても、クズはクズ。至尊の命を放り出してまでそれを救うなんて、許されることじゃあない。きみは自分の価値をもっと自覚すべきだ。
そして最後に、父はこう言った。
――絶無くん、なにかと引き換えになにかを得るなんていうのは、怠惰な無能のやることなんだよ。僕たちは、彼らとは違う在り方をもって世界と対峙しなくてはならない。欲するものはすべて、どんな手を使ってでも勝ち取るべきだ。霊長たる中でも最も高貴な魂を持つ僕たちに課せられた、それは権利にして義務なんだ。もちろん、簡単なことじゃない。世の中の無能どもは口をそろえて無理だと言い立てるだろう。だけど恐れてはならない。きみがきみであるために。
「僕が、僕であるために」
絶無は、目を開けた。
視界には、逃げ惑う生徒でごったがえす校門が映っている。
「父親を尊敬できる人間は、幸福だ」
誰に言うともなく、呟く。
「そして……僕はこの世で最も幸福な人間だ」
思考を切り替える。幸福な追想の残滓を、ひとまず仕舞った。
校舎の影に身を寄せながら、鋭く校門を睥睨する。
……学校内に重騎士がいて、その上結界も破られた。
かかる状況下で、界斑璃杏はどんな挙に出るか?
その答えが、目の前で展開された。
校舎の一角が轟音と共に突き崩れ、粉塵の中から奇妙なシルエットが姿を現す。
太い紡錘形の胴体に、ヒレとも翼ともつかぬものが生えている。その上に、獣の耳のような突起を二つ備えた丸い頭部が乗っかっていた。
氷の妖精などとたわけた通称で知られる巻き貝の一種――クリオネに似ている。
しかしサイズは桁違いだ。普通のクリオネは二センチ以下の生き物だが、こいつは二メートルを優に越えている。
そんなものが空中を滑るように移動しているのだから、かなり眩暈のする光景ではある。
ゼラチン質の体を透かして見える内部には、ねじくれた肋骨のようなものがあり、それに包み込まれるようにして、ひとりの少女が膝を抱えていた。
界斑璃杏か。
――当然、こうなる。
夜天結界は絶無や他の生徒たちを逃がさないためのものでもある。それが破られた以上、慌てて校門前に移動してくることは読めていた。
探しているのだ。
絶無の姿を、血眼になって。
霊骸装がどのような形で周囲の状況を察しているのかは不明だが、核となるのが人間である以上、視覚や聴覚などはそのまま残っていると考えて間違いない。
ここに、絶無の戦略は最終段階を迎える。
ポケットをまさぐり、化学準備室からちょろまかしてきた三本の試験管を握りしめる。
中には、マグネシウムとアルミニウムの粉末その他が詰められていた。
――作戦を確認する。
これから絶無は、校舎の影より飛び出し、界斑璃杏を挑発する。当然、奴は大喜びでこちらに襲いかかるだろう。すかさず試験管の口から伸びる導線に点火、投げつける。敵の目の前で内容物質が燃焼反応を始め、激烈な光を放つ。
もちろん、こんなもので霊骸装が倒せるはずもない。
だが――霊骸装には効かずとも、界斑璃杏には効く。
彼女は、幼少期より光感受性の癲癇を患っている。何らかの刺激に対して、脳の神経細胞が異常な発熱と発電を繰り返し、痙攣症状や意識障害を発生させる病である。
界斑の場合、急激な光の変化に非常に弱い。
――そこを、突く。
卑怯などとはまったく思わない。むしろ、そんなあからさまな弱点がこちらに筒抜けになるような資料を家に残したまま出奔し、その上何の対策も取らずに殺し合いを始める界斑璃杏の神経が理解できない。どれだけ危機意識が欠けているのか。
絶無手製の簡易閃光手榴弾により、造作もなく界斑璃杏は意識障害を引き起こす。
さて――悪魔憑きが骸装中に意識を失った場合、どうなるか。
考えるまでもなく、認識の環が断たれ、堕骸装へと失墜する。
奴の超常能力――ザラキエルの言葉を借りるなら事象変換――は、他の悪魔を堕骸装に貶めて使役する遠隔操作能力だ。直接戦闘の役には立たない。
――つまり、勝てる。
まったく問題なく、絶無はシャベルにて惨殺処刑を執り行うだろう。
もちろん、実際には不測の事態が発生する可能性は十分にありうるが――この他に用意しておいた諸々の保険措置と、自身のアドリブ能力を冷静に評価した結果、命を賭けるに値する勝率であると結論付けた。
絶無は眼鏡を中指で押し上げると、傍らのシャベルを引っ掴み、一歩踏み出す。
「ま、待ってください!」
声がした。どこか聞き覚えのある声だった。
横に目をやる。
ひとりの少年が、息を切らして膝に手を突いていた。
「待って……ください……」
少年は顔を上げた。
秋城風太だ。病院を抜け出てきたのか。
「待たん。僕はこれから、奴を処刑する」
「で、でも……」
口ごもる。
「でも、何だ? 論旨も定まっていないうちから口を開くのはやめろ。阿呆がうつる」
苛立ち混じりにそう吐き捨てると、絶無は風太に背を向けた。
●
――どうすればいいんだ。
秋城風太は半ばパニックに陥っていた。
界斑璃杏の名を聞き、慌てて病院から駆けつけたはいいが、そもそも学校に着いてから具体的にどうするのかということをほとんど何も考えていなかったのだ。
――そもそも僕はどうしたいんだ!
それがよくわからない。界斑さんを助けたいのか? そして彼女に気に入られたいのか? 再び操り人形となって、夜毎に血生臭いことをやらされたいのか?
そういうことでは、ないような気がする。
……目の前で、久我絶無が、歩み去ろうとしている。
まずい。
多分この人は、十分な勝算をもって界斑璃杏に挑もうとしている。
丸一日彼の言動を聴いてきた風太は、久我絶無が卑屈や過信からは縁遠い人物であることをよく知っていた。
どんな作戦を立てているのかはわからないが、恐らくそれは成功するだろう。
たまらない焦りが、ちろちろと肺腑を舐め上げた。
――それはダメだ。
上手く説明できないが、とにかくそれはイヤだった。
「待ってください!」
「待たん」
にべもない。風太は咄嗟に言い返す。
「僕にやらせてください!」
焦りのあまり、売り言葉に買い言葉でわけのわからないことを言ってしまった。
――え!?
自分で混乱する。
「……なに?」
しかも久我絶無は、よりにもよってこの言葉に興味を引かれたようだった。
「こ、コウモリ!」
裏返った声で、とにかく言葉を紡ぐ。
「コウモリ、返してください!」
「つまりこの干乾びた悪魔と改めて契約を結んで霊骸装となり、界斑璃杏と戦おうというわけか」
「う、あ、はい!」
そう言った瞬間、いきなり顔面に衝撃が走った。後ろに倒れ掛かる。
殴り飛ばされた。そう理解すると同時に、襟首を乱暴に持ち上げられた。
「おい、僕の前では心して物を言えヘタレ。逃げ続けるだけの人生を送ってきたお前ごときに、殺し合いが出来るとでも思っているのか? 分を弁えろよ人間未満」
何の含みもない、純粋な嘲りと罵倒が、風太の顔面に吹き付ける。
同時に、心を打ちのめす。
ここまではっきりと言われたのは、初めてのことだった。
「う……ぅ……」
胸の中に、凍えた不快感が生じる。心を押し潰そうと、膨張してゆく。
だが、同時に、歯を食いしばる。
「うぅ……!」
腹の底に、熱い怒りが蓄積されていった。
今まで風太が腹の中に溜め込んできた不満や怒りや悲しみが、急に蠢き始めた。
「そこまで……そこまで言うことないじゃないですか!」
「はっ、事実を指摘して何が悪い。どうせお前のような惰弱は、何も言わずに俯いていればいずれ嫌なことは去ってくれるとでも思いながら生きてきたのだろう。死ねばいいのに」
もちろん、図星である。じわり、と目頭に熱が生じる。
「う……あ……確かに、たしかにそうかもしれないけど! でも、でも、それを克服しようと頑張るのがいけないことなんですか!?」
震え交じりの叫び。
「お、遅いかもしれないけど、無理かもしれないけど、でも、強い心を持ちたいと心機一転して努力を始めるのが、今であってはいけないんですか!?」
無茶苦茶だ。何をいっているのかわからない。
自分でも思う。
だけど、バカにされたまま、言われっぱなしのまま、すごすごと引き下がるのは嫌だった。もしそうすれば、きっとこの人は、もっとバカにしてくるに違いないのだ。
胸倉を、さらに持ち上げられた。
「弱者はいつも決まってそういうことを言う」
その拳が、震えている。
「こんな自分でも、頑張ればひとかどの何かになれるはず――とかなんとか、愚にもつかない繰言を」
顔を上げ、刺すような視線でこちらを射抜く。
「……その考えは正しい!」
不思議な沈黙が、その場に残った。
久我絶無は唇をめくり上げ、さも嫌そうに吐き捨てた。
「だがな、そう言って本当に本気の努力を始める奴がどれだけいるんだよ。いねえだろうが……あぁ? いやしねえだろうが。うんざりなんだよ弱者のその口先だけの決意表明には」
「……あんたには、わからないんだ……弱い人間が、どれだけみじめな気持ちを抱えて生きているか。どれだけ不安か。どれだけ無力感に打ちのめされているか……わかりはしないんだ。だからそうやって平気で我を押しつけることができる」
「僕は弱者から常にそういう嫉妬混じりの人格否定をされつづけ、『弱さこそが人間の証だ』などという論理破綻したエゴを押しつけられ続けているわけだが、それに対して僕は一切反撃も反論もしてはならないし、弱者の屈折を後生大事に尊重しつづけなくてはならないし、その劣等感を刺激するような言説はいかなる論理的妥当性を持っていたとしても絶対に主張してはならないと。ほう。お前はそう言いたいわけか。そして弱者は強者の気持ちを一切理解するつもりはないし歩み寄るつもりもないが、強者には一方的に理解と尊重と負担を求めるわけか。ふうん。へえ。なるほどなぁ。さすが、お偉いお偉いお弱者さまは言うことが違いますなぁ。僕は傲慢さにかけては人後に落ちぬと自負していたけれど、いやいや、その自覚なき身勝手さには負けるな」
「仕方が、ないじゃないか……弱かったら、なにもできない。相手を思いやる余裕も、ないんだ……」
「つまりお前の『弱さ』というパーソナリティには何一つとして利点などないということをお前自身わかっているわけか。ひとついいことを教えてやろう。お前が弱いのはお前のせいだ。何もかもお前が悪い」
「うう……あああ……!」
拳が出た。
いますぐその口を塞ぎたかった。
風太は、生まれて初めて、他人に殴りかかった。
突き進む拳が払われ、手首を掴まれる。そのまま流れるように腕が捩じりあげられ、後ろに回り込まれた。
肘と手首で、悪寒じみた苦痛が弾けた。
「ぎぃぃ……ッ」
「悔しいのなら」
後頭部を掴まれる。
「惨めなのなら」
壁に押し付けられる。
「届かないのなら」
そして、耳元で吠えられる。
「それでもなお、掴みたいのなら!」
目の前に小瓶を突き付けられる。その中には干からびたコウモリが入っている。
「僕に従え。さもなくば抗え。リスクを呑みこみ、己の力とするしかない。当たり前のことだ。傷つく覚悟ができない奴は一生涯何一つ掴むことはない。お前はどっちだ? 僕はもう決めているが」
「う……う……」
震える手を伸ばす。
「もし負けたら――お前は界斑璃杏に生きたまま引き裂かれて死ぬだろう」
うっそりと、暗い熱を込めて久我絶無は続ける。
「もし逃げたら――僕がどんな手を使ってでもお前の居場所を割り出して、『死んだ方がましな苦痛』って言葉の意味を教えてやる」
ビク、と手が痙攣する。
「どうするんだ? リスクを己の力にするとはそういうことだ。傷つく覚悟とはそういうことだ。あぁ、ここで手を出さず、またいつものように俯いてやり過ごす選択肢もあるな。その場合僕はお前に何もしない。ただ一生侮蔑し、無視するだけだ。さぁ、どうするんだ?」
「ううぅぅぅ……ぐ……」
駆け巡る。何一つ掴むことのなかった生を。『ありのままの自分』という揺り籠にしがみつき、目を閉じ、耳を塞ぎ、どこにも向かおうとしなかった自分を。
「……っ!」
小瓶を、奪い取る。
「た、た、戦い、ます。で、でも、勝ち目がなかったら、逃げます。そその結果あなたがどう思おうが、そんなことは関係ない。もしあなたが敵になったとしたら、僕は悪魔の力で、その、あなたと、た、戦います」
ねじりあげられていた風太の腕が、解放された。
●
――認識は。
常に改め続けなければならないものだ。
絶無は口の中で小さく嘆息し、目の前の少年を見た。
秋城風太を、万感の思いを込めて、見た。
「あぁ……お前は」
それを、言うのか。
はっきり言えば、たとえ悪魔の力を持っていようが秋城風太ごときに負ける気などまるでしない。だが、こいつとてそれは織り込み済みで言っているのだ。
リスクを、呑み込んだのだ。
――それでもお前は、行くと言うのか。
不思議に透き通った気持ちが、胸の中に息づいた。
――いかんな。
かすかに苦笑する。
――僕は今、無意味なことを考えている。
自らの裡に生じた、このゆとりと遊び心を、絶無は楽しみながらも客観視した。
――僕の作戦は、完璧なのだ。
そう、完璧なのである。徹底的なリサーチと徹底的なリスクマネジメント。このふたつこそが絶無の不敗を支えてきた最大の要因だ。いつだろうと、何の勝負であろうとも、絶無は勝ってきた。
それは、今回も変わらない。
だが……今はそれが、ひどく退屈な作業に思えてくる。
――僕はひょっとしたら、勝利の美酒に飽いたのか?
変わりに生ずる、不可解な欲求。
まさかこいつに好感を抱くとは思わなかった。
新鮮な驚き。
もちろん、あんな「ちょっとそれらしいこと」を叫んだからと言って秋城風太に敬意など捧げるつもりはない。『王の覚悟』にはほど遠い。実に柔弱で薄っぺらな発言だ。その場の空気に流されただけだ。
だが、それでも。
言ったのだ。
口に出して、自分の意志で発言したのだ。
「……その発言には、万金の価値がある」
これまで絶無が眼にしてきた人間の九割九分九里は、言おうとすらしなかった。「謙遜」とか「達観」とかいう名の卑劣な欺瞞で身を守り、動こうともしないクズばかりだった。偉そうなことは、せめて僕の半分でも努力してから言えというのだ。
――出会いとは、失望の母である。
これまでの人生で培われてきた、人生観。
だが、違うというのか。
お前は、違うというのか。
絶無は今、縁を司る運命の流れのようなものを感じていた。
――これは、萌芽なのかもしれないのだ。
今はまだ、こいつはクズの範疇を逸脱してはいない。しかし今後、その胸に『王の覚悟』を宿すに足る器になるかもしれない。
その可能性を摘み取ることに、途轍もない躊躇いを覚えるのだ。
「……あのぅ……?」
不審そうな、風太の声。
我に返る。そしてひとつうなずく。
「なるほどな。確かに、勝ち目もないのに立ち向かうような奴はただの阿呆だ。それは勇気ではない。僕の条件にいささかの瑕疵があったことを認めよう」
「えっ」
風太は眼をしばたかせている。
絶無はまっすぐにそれを見つめた。
「弱き旅人よ、お前は今、ようやく生き始めた」
目を閉じ、心の中の言葉を探る。
「闇夜が行く手を遮るときも、飢えが手足を萎えさせるときも、命の最後の一滴が尽きるその時まで、断固として」
目を開く。
「負けたら許さんぞクズめ。出来る限りの援護はしてやる」
秋城風太は、丸く目を見開き、息を呑んでいた。
「あ、あの、」
ためらいがちに、語りかけてくる。
「勝てたら、界斑さんのことについては……」
「生かすも殺すも貴様の好きにしろ。存分にやれ」
その背中を、蹴りだした。
ふと、視線を感じた。
振り返ると――黒澱さんが物陰からこっちを見ていた。
息を詰まらせる。
「……ひょっとして、見てましたか?」
こくこく。
「……最初から、見てましたか?」
こくこく。
前髪で表情はわかりにくいが、何か微笑ましいものを見るような眼でこっちを見ているような気がする。
頭を掻く。
「やれやれ、お恥ずかしいところを見せてしまいました」
ふるふるふるっ。
そこへ今度は風太から声をかけられる。
「あ、あの、久我さん」
「何だ」
両手の平に乗せた瓶入りコウモリを困惑の眼で見ながら、風太は言った。
「これ、どうすれば変身できるんでしょう……?」
「知らん」
気まずい沈黙が、場に降り積もった。
「……黒澱さん、どうでしょう? なにか御存じではないですか?」
振り返って尋ねる。
黒澱さんは、眉尻を下げ、いそいそとノートにペンを走らせた。
『ごめんなさい。そのあたりの知識は欠落してます。』
「ううむ……」
困った。
「やはりここは僕がやるとしよう。最初からそれで何の問題もなかったのだ」
いささかの落胆をこらえながら、絶無は再び試験管を取り出した。
「ちょちょちょちょっと待ってくださいよ!」
「もう待たん」
その瞬間――
轟音。次いでアスファルト欠片が散らばる音。
絶無たち三人は振り返った。
青銀の要塞が、そこで片膝をついていた。
重騎士――橘静夜だ。
ゆっくりと、立ち上がる。何度見ても感嘆を覚える雄大な肩幅。そしてひどく小さく見える頭部。
絶無は思わず舌打ちした。
「見ろ、お前がゴネるせいで奴が来てしまったではないか。さっさと僕にまかせていれば良かったものを」
「えぇっ、何なんですかあれ!? て、敵ですか!?」
鈍い光沢を宿す具足が、確たる歩みを進めてくる。
絶無は肩をすくめる。
「橘、お前にしてはずいぶん早くここがわかったな。ザラキエルの入れ知恵か?」
無言のまま、重騎士はずんずんと近づいてくる。
不審を感じ、眉をひそめる絶無。
「……橘?」
『久我。それに秋城。……そいつから離れろ』
重い口調。しかして、断固とした口調。
「何?」
『三度は言わんぞ。今すぐに、そこの女から、距離を取れ』
噛んで含めるように、命令してくる。
「何を言っている。黒澱さんがどうかしたのか」
フードの奥から覗く黄金の魔眼は、明らかに黒澱さんを見据えていた。
『久我、そいつが何なのか、本当にわかっているのか……!?』
「霊骸装なのだろう? それがどうかしたのか。お前のザラキエルと同じではないか」
橘静夜は、ゆっくりと首を振った。
『……中庭で見かけたときは、気付かなかった』
苦渋のにじみ出る口調。
『だが骸装態となった今ならば、悪魔の世代を視認できる』
金属の擦れるかすかな音とともに、重騎士は人差し指の鉤爪を黒澱さんに向けた。
『そいつは、霊骸装などよりよほど恐ろしい存在だ。この世に混迷と破壊を招く元凶だ』
絶無は眼を鋭く細めた。
『そうなる前に、今ここで討ち取る』
黒澱さんは肩を震わせ、しゃっくりのような悲鳴を小さく上げた。
一歩下がる。
絶無は、おもむろにその手を取った。指先に、しっとりと柔らかい質感が広がった。
《え/え?/怖い/なにそれ》
――ふむ。
『久我! 何度も言わせるな。離れろ。お前まで斬る気はない』
「ふふん、そうかい」
絶無は薄ら笑いを浮かべ、黒澱さんの腕を引いた。
「……ぁっ」
ふにっ、とした感触が腕の中に広がった。
絶無は、両腕で彼女を抱きすくめていた。
《わ/わわっ/ぎゅって/ぎゅぅって!/あわわ》
『久我ァッ!』
鋼の具足が荒々しく踏みしめられ、アスファルトが砕け散る。
「クク、橘ァ、僕は天の邪鬼なんだ。お前がこの人に危害を加えるつもりなら、それなりの考えがある」
《あわわ/硬い/やわらかい/どうしよう/汗のにおい/骨のでっぱり/おとこのこのからだ》
背後で、風太の悲鳴が聞こえた。
「ひっ、き、来た!」
『あっれれぇ~、なんかすごい音がしたと思ったら、こんなところにいたですかぁ~』
舌舐めずりの聞こえてきそうな、少女の声。
見ると、巨大なクリオネが、滑るようにこちらに向かってきていた。
絶無は舌打ちする。これ以上事態をややこしくしないでほしい。
『界斑ッ! 久我のそばにいる女は神骸装だ!』
静夜の怒声がこだまする。
神骸装。
その単語が出ると同時に、腕の中の少女が息を呑む気配がした。
瞬間――
絶無の体に、濁流のごとき感情/情報が、一度に流れ込んできた。
●
それを正しく指し示す言葉は、人類の語彙の中には存在しない。
個々人の矮小な認識力では、それの本質を正確に捉えることなど不可能であるから。
時の起源より、それはさまざまな形で顕現し、さまざまな名で呼ばわれてきた。
あるいは、第一世代。
あるいは、魔王。
あるいは、真世界幻視。
あるいは、最も悪しき蛇。
あるいは、救世主。
あるいは、七頭十角の獣。
あるいは、神骸装。
だが、最も語弊の少ない表現を模索するならば――
それは『新たな世界の可能性』と呼ばれるべきだろう。
●
絶無はさすがに瞠目した。
『え、ウソ……え!? ホントですぅ!? うわ、ホントだ!』
クリオネがうろたえたような声を上げた。
『今なら楽に勝てる。休戦といこう。利害は一致しているはずだ』
重騎士が重苦しい口調で提案する。
『ふふん、了解ですぅ。神骸装を潰したなら大手柄ですぅ~!』
半透明の頭部がぱくりと割れ、中から白い女の腕が六本ほど伸び広がった。
ほっそりとしなやかなシルエット。まるで異形の花が大輪を咲かせているような威圧感がある。
だが――
絶無の意識は、そこにありながらその場にはなかった。
汗が、にじむ。
――なんという。
目を見開き、次々と流れ込んでくる暴力的なまでの情報群に驚愕し圧倒され打ちのめされ声も出ず、
そして、さまざまな事実を感得する。
『久我、最後通牒だ。死にたくなかったら離れろ』
静夜の声が、鋭いエコーを伴って届く。
絶無は、応えない。ただ、つばを飲み込んで、ひたすらに黒澱さんを抱きしめた。
ぐんにゃりと快い抱き心地に、陶然と目を細める。
「……ならば、あなたは」
彼女の耳元に、押さえきれぬ熱を孕んだ声で囁きかける。
「いずれ神となる御方なのですか?」
《可能性/不確定/あくまで候補/そのひとつ》
――なるほど。
不思議な感動を、絶無は味わっていた。
「みつけた……」
声が震える。
「闇夜の荒野に、星の導き。僕は探し求め、黒澱さんが現れた」
黒髪に覆われた首筋に、顔を寄せる。かすかなシャンプーの匂いと、甘い体香が鼻をくすぐった。
『久我ッ! やめろ……!』
『ふたりまとめてぐっちゃんぐっちゃんにしてやるですぅ!』
前と後ろから、霊骸装が迫ってくる。
――さすがに。
奥歯を噛みしめ、頬を歪める。
――この展開は予想していなかったな。
制服越しにわずかに浮かび上がる黒澱さんの背骨の感触を楽しみながら、絶無は小さく語りかける。
「あなたの大望に、僕は殉じたい。どうか、そのことをお許しください」
「あ……」
呼吸についでに出るようなか細い声が、耳元で漏れ出た。
「やさしく、してください……」
初めて聴いた彼女の言葉は、生まれたての白い小蛇のように震えていた。
衝動的に首をよじり、少女の髪の奥にある青白いうなじを掘り当てた。
同時に、視界に影が差す。
ぎり、と金属が軋みを上げ、巨大な破城鎚のごとき拳が握りしめられた。
うねり、のたうち、風を引き裂きながら、六つの白腕が掴みかかってくる。
瞬間――
「――骸装」
あたかも、不死のくちづけにも似て。
絶無は、彼女の首筋に、優しく噛み付いた。
ドクン、――と。
世界が、心音を発した。
――『新しい天使』と題されたクレーの絵がある。
少女の背中の肉がほどけ、腕の中で花開くように展開してゆく。
混濁した黒と、夜明け前の空を思わせる蒼が、少年の目の前で形を成す。
無数の触手。溜息をもたらすほど優美な孤を描き、彼の体を包み込む。
――それにはひとりの天使が描かれていて、この天使はじっと見つめている何かから、今まさに遠ざかろうとしているかに見える。その眼は大きく見開かれ、口はあき、そして翼は拡げられている。
弾力を持った感触が、少年の全身を締め付ける。
みりみりと音を立てて、自らの肉が裂け、骨格が歪められてゆく、そのリアルな感覚。
しかし痛みなどなく、甘美な震えのみが怖気のように走っている。
――歴史の天使はこのような姿をしているにちがいない。彼は顔を過去の方に向けている。…私たちの目には出来事の連鎖が立ち現われてくるところに、彼はただひとつ、破局だけを見るのだ。
黝い神の肉が、絶無の体内にくまなく根を張り巡らせ、やがて溶け込むように同化し始める。形状を、構造を、組成を、そのすべてを一旦溶解させ、人ならざる存在へと止揚しにかかる。
酵素反応の連続体から、認識作用の循環体へ。
――その破局はひっきりなしに瓦礫のうえに瓦礫を積み重ねて、それを彼の足元に投げつけている。きっと彼は、なろうことならそこにとどまり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて繋ぎ合わせたいのだろう。
大気が、鳴る。殷々と、高らかに。それは産声であり、福音であり、終末の喇叭ともなりうるもの。
激しく渦巻く聖性の中心で、黒い触手に編まれた人間大の繭が悶えていた。
ぶちぶちと音を立てながら、内部で根源へと至る変異が高速で進んでゆく。
――ところが楽園から嵐が吹きつけていて、それが彼の翼にはらまれ、あまりの激しさに天使はもはや翼を閉じることができない。この嵐が彼を、背を向けている未来の方へと引き留めがたく押し流してゆき、その間にも彼の眼前では、瓦礫の山が積み上がって天にも届かんばかりである。
やがて、黒く艶やかな肉の蔓は、梱包を解くようにほどけ、周囲を薙ぎ払った。
無数の黒い触手が、世界を支える大樹の威容を持って、四方に広がってゆく。
翼を広げるように。夜が訪れるように。
――私たちが進歩と呼んでいるもの、それがこの嵐なのだ。
ひとつの影が、大地に降り臨んだ。
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