見出し画像

フィクションにおける「欲求」と「欲望」の考察

 「欲求」と「欲望」の話をしよう。

 今までもなんかぼんやりと描きたいなとは思ってきたが、最近明確になってきたような気がするのである。

 「欲求」とは何か。足りてないから欲しくなることである。

 では「欲望」とは何か。足りているのに欲しくなることである。

 で、基本的にフィクションの主人公の動機となるものは「欲求」である。なんか欠如してるからそれを取り戻そうとするわけだ。だが、そう、俺は「欲望」を動機の核に据える主人公が書きたかったのだ。

 なぜか。

 「欲求」とは受け身の感情である。自らの心身を維持するために行われる、いわば生命活動の延長線上にあるものであり、非常に本質的である。動物的である、と言い換えても良い。容易く共感は得られるだろう。だが、なんか、それでは満足できないのだ。違うだろう。俺たちが描こうとしているのは人間であろう。仮にも人間様がそんな、動物的欲求にだけうつつを抜かしているようでは情けない。何のための魂か。

 「欲求」とは理由が明確に説明できる「欲しい」であるわけだが、それは要するに欠乏という「状況」に対応しているに過ぎない。それは外界から来た「欲しい」だ。自らのうちから生じた「欲しい」ではない。そこに深みはない。しかし「欲望」は違う。足りているのに欲しいのだ。明確な理由付けが困難な「欲しい」であり、それは魂の底より生じたものである可能性を有する。外的・肉体的要因を排除した先にある「欲しい」。そこに、何か人間を人間足らしめるなんかがあるのではないか。

 戦って、勝ち取る。男の価値など真実それだけだ。
 生きるためとか守るためとか復讐のためとか、そんな受け身で惨めったらしく弱者くせえ敗者くっっっせえ後付の理由などすべて犬にでも食わせろ。
 得るために、ただそのためだけに男は戦うべきなのだ。

 『鏖都アギュギテムの紅昏』の登場人物の一人、散悟・ガキュラカにそんなモノローグを吐かせたことがある。

 なんかかっこよさげなことを言っているが、こいつは作中最悪のクズ中のクズであり、結局のところ自己正当化のための理屈に過ぎないわけであるが……本当に汲み取るべきものがひとかけらもないかと言われると何とも言えない。

 理由のある悪などただの不運の被害者でしかない。そこに強さはない。

 「欲望」は容易く悪と結びつく。「欲求」も結びつきうるが、「足りているのに欲しくなる」という性質上、より同情の余地のない悪になりやすい。しかし、なんというか、ここでどうにかして感情移入の可能な悪を描くことは人間描写に対する不可避の関門であると思う。悪であれるのは人間だけであり、悪の観念こそが人類史でも最も影響の極大なる発明品である。これに比べたら車輪だの農業だの、ただ便利になっただけであり、それは量的な変化であって質的な変化ではないからだ。

 悪を描くことが人間を描くことである――が、ここで「欲望=悪」などと安直に考えてはならない。それは似ているし、容易く結びつきうるが、完全に別個のものである。良き結果をもたらす欲望も当然のようにある。そしてそれは欲求を根幹とする善行よりも強烈に俺を惹きつける。それは悪であっても同様だ。納得のいく理由のある悪など、ただの不運の被害者に過ぎない。そこに俺の目を惹く強さはない。

 ……みたいなことをブログでグチグチと書いていたら、友人からコメントが来た。

しかし、その、何だ、「主体性」という言葉、これやっかいだなぁ。「認められたい」「称賛されたい」から、●●をする、という行為は、結局それが己の内から生じる欲なのか、外界から与えられるものなのか、見分けがつきづらい。

 ……確かにッッ!!

 欲求・欲望などと書いたが、その源泉がどこにあるのか、その定義づけなど果たして可能なのであろうか。もっと言うと、本当に外界と何の関係もなく発生した「欲しい」などありうるのか、という疑問である。

 これはかなりクリティカルなツッコミであり、散悟・ガキュラカだってその悪行の根源はもっとも基本的な三大欲求だったのではないのか。人間はどこまでも身体的な存在であり、肉のくびきを度外視して語ることは不可能なのではないか。

 いや、だが、

 たとえば「欲望」を動機のメインに据えて前に突き進むキャラクターが、何かいなかったか。

 それは『スティールボールラン』のリンゴォ・ロードアゲインであり、『ひよこ侍』のテューン・フェルベルであり、

 『刃鳴散らす』の武田赤音である。

 この男はなんかこう、宿敵との決着を求めるあまり、物語の開始時点で自分の手の中にあったすべての美しいものや暖かいものを躊躇なく犠牲に捧げた人物であった。

 ではその「決着をつけたい」は本当に「欲望」なのか。確かに身体的な「欲しい」ではなかっただろう。だが、外界から与えられた「欲しい」ではあったのではないか。だとすれば、人間はどこまでも「受け身の対応者」でしかありえないのではないのか。俺は一時期絶望的な気分に襲われた。

 だが、しかし武田赤音氏の足跡を思い返すに、やはり人間はそれだけの存在ではないのではないかという気がしてくるのだ。以降、赤音パイセンが悪に落ちた経緯を語るが、正直そんなものなの『刃鳴散らす』の魅力のうちごく一部にすぎず、だいぶ昔の作品であることだしそのまま述べる。

 かつて赤音パイセンは宿敵さんと非常に良好な関係を築いていた。同じ剣術道場で切磋琢磨しあう友人であり、お互いのことを非常に認めていたし尊敬していた。

 で、道場主のジジイがなんかもう歳だから、そろそろ後継者とか決めようかみたいな話になって、でまー、門下生の中でも桁違いに強かったパイセンと宿敵さんの二人に白羽の矢が立った。「とりあえずお前ら木刀で勝負な。勝った方がうちの娘を娶って道場主になってくれんか」みたいな話になる。二人とも「あ^〜いいっすね^〜」って感じで快諾。

 いやー、これでライバルっつーか尊敬するあの人と大舞台で尋常に勝負できるぞー、超頑張ろう!! と張り切るパイセン。で、試合する。勝ったのは宿敵さんの方であった。

 んだけんどもまぁ、全力は出したつもりだし、いやー、やっぱ宿敵さんはつえーなーオイ、この人なら道場主にふさわしいな、最後の打ち込みとかマジでヤバかったな俺の木剣折れちゃったよマンガかよって感じで二人笑顔で握手して一件落着――かに思えた。

 しかしのちにマズイ事実が発覚する。道場主の娘は宿敵さんの方にお熱だった。だもんでパイセンの木剣に細工をして折れやすくしていたのだ。まぁぶっちゃけパイセンは道場主の娘に関しては特に好きでも嫌いでもなく興味も薄かったのだが、ちょっと待てテメー今なんつったオイ、コラ、何? お前は何? そんな「欲求」ごときのために俺とあいつの勝負を汚したわけ?

 だが少し待ってほしい。誰が道場主の娘を責められるというのだろうか。だっておめー、パイセンとかマジ剣のことしか頭にないちょっと頭おかしい人ですからね。宿敵さんとパイセン、どっちが良き夫、良き父になれるかっつったらおめーそんなの火を見るより明らかですよ。百人に聞いたら百人とも同じ感想を抱きますよ。もう完全にパイセンは女からしたら理解不能なタイプの生き物ですよ。そしてかかっているのは自分の一生だ。そんなもん細工するに決まってるじゃないですか。だれだってそーする。俺が道場主の娘でもそーする。

 しかしパイセンは、そんな理屈など知ったこっちゃなかった。どう考えても宿敵さんとの決着などという非生産的なけじめよりも道場主の娘の考えの方が正しいはずなのだが、パイセン委細構わずブチ切れて娘をぶっ殺しますよ。なにしてんのあなた。とにかくこの男にとっては認めた相手との勝負以上に大切なものなどこの世にないわけですよ。で、ぶっ殺してから考える。そうだ、俺と奴の決着は真剣勝負こそふさわしい。その考えのもと、武田赤音の蠢動が始まるのである。

 ……ここまでが『刃鳴散らす』を読解する上での前提ですよ。

 しかし、だ。

 パイセンの、この妄執は、果たして彼の中に最初からあった、自発的なものだったのだろうか。少なくとも、道場主の娘に水を差されなければ、ちょっと剣術馬鹿の青年で終わっていたのではないか。

 理由があり、納得できるが、しかし仮に武田赤音以外の人物が武田赤音とまったく同じ人生を歩んだとして、武田赤音と同じ悪行を成すだろうかと想像して、秒で「NO」という答えが出るのだ。『刃鳴散らす』の惨劇は、絶対に武田赤音でなければあり得なかった。彼を悪に駆り立てた境遇や経緯は、彼の中に最初からあった欲望を増幅したに過ぎない。つまり、1を2に、2を3に増幅する力はあったかもしれないが、断じて0を1に変える力はなかったのだ。

 武田赤音という異形の個性の中に先天的に備わっていた1の欲望。それこそまさしく理由なき悪であり、「環境に左右されない強さ」として認識できるなんかなのだ。かなり明確に「欲求」に優越する「欲望」を描いた点で、『刃鳴散らす』は非常に思い出深い作品となった。男が何の生産性もない、はた目から見たらしょーもないけじめをつけるためだけにあらゆるものを踏みにじり、愛とか絆とかクソですよね☆と言い切って特に何の反省もなく好き勝手に死んだこの男のことが、俺は好きでたまらない。

 それは、人間が決して欲求に対応するだけの存在ではないと信じさせてくれるからだ。

いいなと思ったら応援しよう!

バール
小説が面白ければフォロー頂けるとウレシイです。