夜天を引き裂く #3
あの空気弾とでもいうべき能力は確かに強力だが、ひとつ腑に落ちない点がある。
――なぜ最初から使わなかったのか?
絶無の存在に気付いた時点で不意打ちのように使っていれば、造作もなく射殺できたはずだ。
敵の戦力を推察する。
――恐らく、撃つたびに何がしかのリソースを激しく消耗するのだ。
一発撃つのにすら本能的に躊躇いを覚え、なるべく自らの肉体で獲物を殺傷しようと考えるほどの、巨大なリスク。
弾数制限があるだけで、連射自体はできるのか。
ある程度のインターバルを置けば無限に撃ち続けられるのか。
そこまでは判断がつかないが、奴にとって空気弾は切り札のようなものであり、気軽に使えるものではないことだけは確実だ。
付け入る隙は、ある。
――速攻だ!
時間とともに血と体力は失われてゆく。動けなくなる前に勝負を決める。俊敏なフットワークを持って、狙いを撹乱し――
破裂音。
回避――可能!
頬の肉が張り裂けて、歯茎が露出するも、疾走はやめず。
四肢が無事ならば問題ない!
そして目に入る、生存権を無残に踏みにじられた惨殺死体。絶無は懐に手を突っ込むと、小さなプラスチックの塊を握りしめ、被害者に向けて投げつけた。
――よし!
残った頬に鬼相を宿し、絶無は一気に間合いを詰める。すでに脇腹を押える手も離し、スタンガンを拾い上げている。
久我絶無は感じていた。
ただの人間であればおいそれとは感じることのできぬ、至高の感覚を。
すなわち、生きることのテーマを。生まれおちた意味を。
体に力が満ちている。心に風が吹いている。
――『王の覚悟』よ。
父より伝えられた、人生の指標。
自らの肉体を含む、あらゆる事物を「手段」と捉える生き方。
犠牲を恐れず、目的を貫く。そして欲するものを必ず手にする。
――勝利のため、美しく生きるため、お前を殺すため!
彼我の交戦距離はすでに重なっている。次の瞬間、結果が定まる。
絶無は、吠えた。運命のように烈哮した。
「くれてやる! 僕のすべて!」
瞬間、青銀の閃光が走った。
――違う!
絶無は眉をひそめた。
黄色い体液が大量に吹き上がった。赤子の断末魔のような悲鳴を上げて、脳怪物はたたらを踏む。
――僕ではない。
見ると、大きすぎる脳みそが斜めに寸断され、後背から伸びる節足も何本か千切れ飛んでいる。
今の一瞬でここまで巨大な欠損を生じさせるような手段など、絶無は持っていない
再び、閃光。何かが視認も不可能な速度で走り抜け、脳人を幾度も引き裂いてゆく。
黄色い血飛沫と、醜怪な絶叫。でたらめな方向によろけ、欠損が増えてゆく。
襲い来るものの数は、どうやら二つのようだ。怪物の周囲を飛び回りながら、凄惨なヒット&アウェイ。
絶無は素早く周囲に目をやり――
――直後、目の前に銀色の巨影が落下してきた。
衝撃で地面がめくれ上がる。あおりをうけて、絶無は後ろに倒れた。
それは、曲線的なフォルムの部品が有機的に噛み合い、ひとまとまりの影を形作っていた。
鈍い銀色の金属で構成された、巨体。
それは、むくりと顔を起こした。両腕を左右に伸ばし、それぞれの方向から飛来してきた銀青色の閃光をキャッチする。
瞬間、それが片膝をついた人型であることに、絶無はようやく気付いた。
しかるのちにそれは悠然と立ち上がる。決して素早くはないが、その気になれば途轍もない速度で動くことを予感させる、なめらかな所作。
――神話の英雄が、姿を現していた。
雄々しくもしなやかなフォルムの、男性を模した姿だった。砂時計のようにくびれ、盛り上がった上腕。逆三角形を成す胴体。引き締まった輪郭。
そして、質実剛健とした要塞を思わせる、広大な肩幅。丘のように盛り上がった僧房筋。そこに半ば埋まるように、小さく見える頭部がちょこんと乗っかっていた。濃紺のフードに覆われ、顔の造形はわからない。巌のような上半身に比べると、下半身はすらりとした印象だ。
すべては鈍い光沢を放つ金属に覆われている。――と言うよりも、鍛え抜かれた筋肉そのものが金属化しているような印象があった。前腕、両肩、すねなどはひときわ分厚い装甲に覆われ、鋭く力強いシルエットを形作っている。高度にセグメント化された装甲の継ぎ目に添うように、異形の文字列が刻み込まれていた。恐らくヘブライ語だが、いくつか見慣れぬ紋様もある。
重騎士。そんな言葉が似合う佇まいであった。
『……また堕骸装か』
深く鋭いエコーのかかった声が、失われた鼓膜の奥で、遠く響いた。
あんげろす、というのが、目の前の脳怪物を指す言葉であろうことはわかる。しかし、
――「また」……? 他にもいるのか?
怪訝の念を強くする絶無の前で、重騎士は銀青色の金属片を握り締めたまま、両腕を交差させた。肘から手の甲にかけて、重厚なガントレットに鎧われている。禍々しい鉤爪が生えた指先もあわせて見ると、アンバランスなまでに大きな手だった。掌の中に人間の頭部をたやすく握り込めてしまうだろう。
そのまま、金属片を両肩の突起に引っ掛けた。刃が途中で折れ曲がり、重騎士の肩装甲の一部と化す。
それを合図にしたわけでもないだろうが、脳の化け物はぐちゃりと地面に崩れ落ちた。
絶無は、自らの体の冷たさを自覚する。血を流しすぎたようだ。
舌打ち。乱入者の重厚な姿に目を奪われているうちに、ずいぶん消耗が進んでしまった。
度し難い失敗だ。
不意に、重騎士がこちらを振り返る。濃紺のフードが作る影により、顔はまったく見えない。ただ黄金の魔眼だけが鋭く灯っていた。
その眼が一瞬細められた。絶無をじっと見ている。
やがて、沈鬱そうに首を振った。
『とどめがほしいか?』
一瞬、自分に向けて話しかけてきたことに気付かなかった。
だが、絶無はすぐに重騎士を睨みつける。
「それは、僕に対する、侮辱だ。そういう『クズの覚悟』は、しない主義、なんだよ……」
『……失言だった。忘れろ』
ただそれだけのやりとりだったが、絶無はこの男に少し好感を抱いた。
瞬間、豪壮な甲冑の後背で火花が散った。
重騎士がおもむろに振り返ると――四本の節足を突き出し、健気にも反撃を試みた生ゴミの姿があった。
舌打ちひとつ。ぎりりと音をたてて、巨大すぎる拳を握り締めた。空間を握り潰さんばかりの力がそこにみなぎっている。
鋼鉄の具足が地面を蹴り砕き、巨体を一瞬にしてトップスピードに加速。砲弾じみた一撃が、腹の底に響く音を伴って、炸裂した。耳障りな絶叫を後に曳きながら、冗談のように肉塊が吹っ飛んでゆく。
それを追って茂みへと分け入る直前、重騎士は、絶無をちらりと一瞥した。
『久我……残念だ』
直後、闇の中へと姿を消した。