夜天を引き裂く #4
体が、重い。いくら呼吸をしても、体に酸素が廻っている気がしない。
絶無は立ち上がろうとし、膝から崩れ落ちた。四肢に力が入らない。
――後悔は、ない。
この一生を何度繰り返そうと、あの場面で「逃げに走る」という選択肢は絶対に選ばない。
とはいえ少々難儀な状況には違いない。
――人通りのある場所まで這って進めれば……
頭に血が行き渡らないせいか、そんな程度のことしか思いつけない。
まぁいい、行動指針が決まったのならすぐ実行に移すまでだ。たとえそれがどれほど絶望的で儚い希望であろうと、「諦めて死を受け入れる」などという惰弱な思考停止はしない。
と――破壊された鼓膜の奥で、耳小骨が物音を捉えた。
同時に視界の端を、何者かの脚がかすめた。近い。すぐ目の前だ。
「だれ、だ……」
そう問いかけるが、果たしてきちんと声になっていたかどうかはわからない。
渾身の力を込めて、体を仰向けにする。
その一瞬。
――絶無は、すべてを忘れた。
全身の致命傷を忘れた。ここはどこなのかを忘れた。今はいつなのかを忘れた。どうして自分が倒れ伏しているのかを忘れた。自分が何者なのかを忘れた。
すべての現実認識を、捨て去った。
目を奪われていた。心を奪われていた。
それは、悪魔の炎。
骨肉を凍りつかせ、魂を甘く灼き喰らう。
深い奥行きと、胸が締め付けられるほどの透明感を湛えた、燐緑色の炎。
それが、二つほど、宙に浮いていた。
――眼、か……
絶無は感嘆を漏らしながら、その正体を推察する。
よくみれば、それは少女の顔だった。あまりに眼の色が印象的過ぎて、そこに顔があることを一瞬認識できなかったのだ。
「黒澱、瑠音……」
少女の名を呼ぶ。
妖しい艶を持つエメラルドの宝玉が、見開かれた。絶無のかたわらに膝をつき、じっと覗き込んでくる。
青白い膝が、絶無の腕に触れた。
瞬間。
《生きてる/きれい/生きてる/内臓が/こわい/きれい/どうしよう/どうしよう/内臓が》
それは言葉というより、生のままの感情が直接流れ込んでくるような心地だった。
胸をたゆたうそれらの情動を聞き流しながら、絶無は目を細めた。
蛍火にも似た眼球だ。
暗みゆく視界の中で、こちらを見下ろす彼女の佇まいだけが、ひどく鮮明に脳へと焼きつけられる。真冬の星空、艶めく花々、古い記憶を閉じ込めた鉱物、人の手による神韻縹渺たる芸術――さまざまな意味での美をその魂に刻んできた絶無だが、夜の森にひっそりとたたずむ彼女の怜姿は、今までに感じたいかなる事物よりも美しい光景だった。
――月だけがそれを照らす。
●
――幼少の頃から、周囲の人間がどいつもこいつも馬鹿にしか見えなかった。
文武いずれの分野においても、絶無は自分に比肩する者に出会ったことがない。
なぜ周りの人間はこんなにも無能ぞろいなのか、不可解の極みだった。
とはいえ、最初からその思いを公言していたわけではない。
高校に進学する前あたりまでは、物腰柔らかな人畜無害として通っていたのだ。
常に微笑みを浮かべ、決して他人と衝突せず、困っている奴がいれば何でも手を貸してやり、場の中心から少しだけ外れた所で空気に同調しているだけの子供であった。
内心では溜息ばかりついていたけれど。
――仕方のないことなのだ。
異常なのは彼らではない。自分のほうなのだ、と。
僕は彼らとは違う。僕は父の至尊なる血を受け継いだ、生まれながらの天才である。
しかし、彼らはそうではない。もはやスタートラインからして違うのだ。
生まれつき恵まれた者が、生まれつき恵まれなかった者にかけてやれる言葉など、なにひとつない。
――彼らは彼らなりに精一杯頑張っているのだ。それでいいじゃないか。
そう思い、内心の侮蔑を押し隠しながら、外面ではニコニコしていたのだ。
あぁ、今にして思えば、この時代は僕の汚点である。
我ながら、なんて愚かな勘違いをしていたんだろう。
今でも悔恨の念に歯軋りしそうになる。
●
沈んでいた体が、水面へと引き上げられてゆくような心地がした。
「う……」
ゆっくりと、瞼を開いた。
毎日見慣れた天井が飛び込んでくる。しかしぼやけて詳細は見えない。
――助かった、のか?
思考がまとまらない。
すると、横合いから姉の加奈子が顔を出してきた。
「おーっ! 目を覚ましたーっ!」
――姉さん、声が頭に響くよ。
と、言いたかったが、咄嗟には口が回らない。
身を起こし、周囲を見渡す。古臭い木天井と漆喰の壁。天井まで届く巨大な本棚。
どうということはない。絶無の自室である。
「ほいっ、これっ」
加奈子が眼鏡を差し出してくる。
「……あぁ」
応じて、眼鏡を鼻の上に乗せる。途端にクリアになる視界。
――さて。
絶無は即座に、この状況の奇妙さを認識する。自分は確かに致命傷を負っていたはずだ。
布団の中で、脇腹に手をやる。傷なし。大腸はきちんと腹の中に納まっているようだ。
なぜ治っているのか。なぜ家にいるのか。
現状を把握するために、加奈子に問いかける。
「……僕は、どのくらい寝ていた?」
「ん? 二時間くらいかなっ?」
「僕はどうやって家に帰ってきた?」
「えーっと、それはそのー……」
加奈子は、すすす、と左方向に身を寄せ――そこにもう一人いた少女に抱きついた。
黒澱瑠音だ。なぜかそこにいる。
「……っ」びくん、と身を震わせる黒澱瑠音。相変わらず前髪で表情が読めないが、どうやら慌てているようだ。
「るーちゃんのおかげだよ~」
るー……ちゃん……
うん、まぁ、うん。
抱きついたまま頬ずりを始める加奈子。初対面だろうがお構いなしである。やられるほうは完全に硬直している。
「な~んか絶くんがケンカして気を失っているところを、るーちゃんが親切にも連れてきてくれたわけっ! 見た目によらず力持ちだねるーちゃんっ」
――そんな馬鹿な。
絶無は決して小柄ではない。男子高校生としてはごく標準的な体格である。それをこんな、吹けば飛ぶような貧弱が運んできた……だと……?
「……どういうことだ?」
本人に水を向けると――
「っ! ……っ……」
口をぱくぱくさせながら挙動不審な動きを見せるだけで、一向に会話にならない。
いつもそうだ。彼女と同じクラスになってから数ヶ月になるが、絶無は彼女の肉声を聞いたことがない。誰かに話しかけられてもこんな調子でまったく話にならない。孤立すべくして孤立したようなものだ。
舌打ちをこらえ、身を起こす。
ともかく、こいつが何か知っているのは間違いないようだ。恐らく一般人には聞かせづらい話になるだろう。
「姉さん、腹が減った。晩御飯の支度を頼む」
「おー、それならここに持ってきて進ぜようっ」
「普通でいいよ」
「ちぇー、介抱し甲斐のない奴っ!」
ぶつぶつ言いながら部屋を出る姉から視線を外し、黒澱瑠音を睨みつける。
「……さて、喋ってもらうぞ。何故負傷がなくなっているのか。どうやって僕をここに運んできたのか」
「ぇぅ……っ」
変な声で呻くと、黒澱瑠音はそばに置いてあった自分の鞄からノートをあたふたと取り出し、盾にするかのように広げて見せた。
『ごめんなさい。もうしません。』
「……」
黒澱瑠音は普段から筆談の用意をしているらしい。
突っ込んでもしょうがないので、そのまま会話を試みる。
「謝られてもわからない。僕の質問に答えろ」
少女はいそいそとシャーペンを出し、ノートに何事か書き始めた。
『ごめんなさい。久我さんに寄生しちゃいました。ごめんなさい。』
……早い。このセンテンスを書くのに一秒もかかってない。
そして凛冽な気品を感じる文字だった。止めや跳ねの運用や、全体のバランス、そして意図的な崩し等、優美な気位を保ちながら、見る者に必要以上の緊張を強いないよう考え抜かれた字体だ。
しかし発言内容は意味不明だった。
「何を言っているのかわからない」
『ごめんなさい。最近思い出したんですけど、わたし人間じゃないみたいです。ごめんなさい。』
「いちいちごめんなさいを付けるのをやめろ。卑屈は死ね」
「……ひぅ……っ」
か細い嗚咽。黒澱瑠音はよろめきながら後ろに手を突いた。
こめかみがひくつく。男の涙は稀に美しい場合もあるが、女の涙は見苦しいだけだ。
泣くな卑屈野郎、と罵りかけて、彼女の前髪がずれているのが目に入った。
――それが、露わになった。
澄んでいるような、濁っているような、深い色合いを湛えた、悪魔の炎。
否応もなく視線を引き付ける、深緑の双眸。
涙を一杯に溜めて、ぐらぐらと揺れながらこっちを見ている。
こっちを、見ている。
冷たく燃えるようなその視線が向けられていることを認識し、絶無はどこか敬虔な気持ちを胸に抱いた。苛立ちが、嘘のように消えてゆく。
「……まぁ、いい。急に問いただして悪かった。今は細かくは詮索すまい」
目を閉じ、息を吐く。
「質問を二つに絞ろう。まず、僕が瀕死の重傷を負っていたのは事実なのか?」
黒澱は、いそいそとノートにペンを走らせる。
『ぜんぶ、本当です。夢じゃないです。』
「では、君が僕の命を救ったのか?」
彼女はややためらいながら、こくん、とちいさく頷いた。
絶無は腕を組み、黙り込んだ。
「……?」
不安げに揺れる魔性の燐炎。
ひとつ頷き、絶無は立ちあがった。自分が寝ていた敷き布団を畳み始める。
「??」
手早くひと抱えほどの布の塊にまとめ上げると、押し入れの中に放り込んだ。
それから座布団を一枚引っ張り出して、黒澱の前に置いた。
彼女をじっと見据えながら、ぽんぽん、と座布団を叩く。
「……ぅ……?」
怪訝そうに眉を寄せ、やや迷いを見せたのち、黒澱瑠音はおずおずと座布団の上に白い膝を落とした。
絶無は重々しく頷くと、彼女の正面、一メートル程度離れた畳の上に正座。
二人は見つめ合う。
よくよく観察してみれば、なかなか趣のある佇まいである。華美ではないが、青白磁を思わせる膚が、病的なまでに鮮やかだ。目元が黒髪で隠れているのも、その奥に妖しくも柔らかな翠色が秘められていることを知れば、なにやら一層目を惹き付けられる趣向に思えてくる。
他人の視線に慣れていないのか、うつむく黒澱瑠音。肩を縮こまらせ、所在なさげだ。小さく閉ざされた口が恥ずかしげに波打っている。
喩えるならば、人の通わぬ岩洞の中、月光のみを浴びて咲いた待宵仙翁か。
絶無は眼鏡を外した。
ゆっくりと、頭を下げ始める。自然と両手が前にゆき、床に掌をつけた。
古式ゆかしい座礼である。綺麗な三角形を形作る両手を間近に見ながら、絶無は厳かに口を開いた。
「このたびは命を救っていただきありがとうございます。心からの感謝をあなたに捧げます」
「~~~っ!?」
ひどく混乱している気配。
「これまでの無礼な態度をお許しください。この久我絶無、人を見る眼には自信を抱いていましたが、あなたという人間の格を見抜けなかったことは一生の不覚と言えましょう」
恩も恨みも十倍返し。今までそうやって生きてきたし、これからもそうするつもりである。だが、命の恩義に対してどう報いればいいのか。
絶無はそれを考えていた。
加えて、彼女は絶無の体をごく短期間で完璧に治療してみせた。それがどのような手段によるものなのかまるで見当もつかないが――少なくとも自分には一生努力を重ねたとて不可能と断言できる行いである。
この一点でもって、絶無は黒澱瑠音に敬意を持って接することを決めた。「自分にはできないことができる人間」というものが、絶無の人生においては極めて少ない。ありとあらゆる勝負事で負けた経験がなく(じゃんけんを公平な乱数決定だと思っている無能と話すことなど何もない)、学業で満点以外を取ることも稀だ(教科書を丸暗記するというただそれだけのことができない周囲がおかしい)。
だから――この出会いはちょっとした衝撃である。
――自分より優れた人間は、父だけだと思っていた。
絶無は今、ときめくような気持ちで、目の前の少女を見ている。
――父さん、ついに出会えたかもしれません。
自らと同格か、それ以上の人間。迷いなく敬意を捧げられる人間。
「これより、あなたに頂いたこの命を使い、あなたの剣となり盾となって、あなたの幸福のために尽力することをお許しください」
「……っ! ……っ!」
そういえば、彼女に反応を期待するのはご法度であった。むしろ彼女に何か要求するなど不遜の極みである。彼女が喋りたくないことは一生喋らなくてよいのだ。
絶無は顔を上げる。
案の定、黒澱瑠音は顔を真っ赤にしてあたふたしていた。口を魚のように開閉させながら、目の前の空気をかき回すように両手を動かしている。残念なことに、印象的な緑の眼は前髪に隠れて見えない。
――それでいい、と思う。
いつも見えていたら、ありがたみがないというものだ。