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凶眼の拳 -少年、獄底にて世界を殺伐す- #2

 

 眼が覚めたら、恐ろしく高い位置にある天井が見えた。
 痛む頭を押さえながら身を起こす。
 周囲をぐるりと金網で囲まれた十メートル四方の広場。そこに僕は放置されていた。
 金網越しに、地獄のような眺めが広がっていた。
 その光景が目に入った瞬間、僕の喉から絶叫が上がる。止まらない。
 無数の色彩が、デモニッシュな配列で躍っていた。狂った赤。黄色い疣のある紫。緑色の襞を持つ青。僕が今までの人生で「こうだ」と認識してきた色を、ことごとく冒涜する狂気の渦だった。恐ろしいことに、それらひとつひとつが意思を持って動いているのだ。
 無数の芋虫の交合を思わせる光景。
 自分の喉から迸る叫びが止まらない。だが、それも周囲の凄まじい騒音でかき消される。
 歓声。叫喚。金網を叩く音。爆音のようなBGM。
 こちらを見つめる眼、眼、眼。引き歪んだ口元。邪悪に狂った表情。
 彼らは僕を喰い殺そうとしている。突き殺そうとしている。轢き殺そうとしている。刺し殺そうとしている。打ち殺そうとしている。笑っている。笑っている。僕の元へ殺到しようとしている。
 だが、僕の周囲を六角形に覆っている金網によって、彼らは阻まれていた。いらだたしげに白い金網を叩いている。
『お目覚めですか? 海坂さん』
 不意に、耳元で声がした。
 周囲を見回すも、そばには誰もいない。
 そして、気づいた。
 僕の頭に、ヘッドセットが取り付けられていたのだ。
「誰だ! ここはどこだ! クソッ、出してくれ!」
 口元にのびるマイクに向けて喚く。声が震え、悲鳴混じりになる。
『落ち着いてください。周囲に見えるバケモノたちは単なる人間です』
「そんなことはわかっている! わかっているが耐えられない!」
 ヘッドフォンの向こうで、ため息が聞こえた。
『では手短にいたしましょう。海坂さん、あなた、今の状況をどうにかしたいですか?』
「当たり前だ! 出してくれ! 独房に帰してくれ!」
『そうではなく、視覚野をいじられ、地獄の世界で生きていかざるを得ない『異視刑』から解放されたいとは思いませんかと聞いているのです』
 何だと?
「そんなことができるのか!?」
『当然です。元に戻す技術が確立されているからこそ、刑として成立しうるのです。そして我々は、そのための設備を保有しています』
「頼む、元に戻してくれッ! 何でもするからッ!」
 気が急いて、喉が嗄れて、獣の唸り声じみた声しか出てこない。
『いいでしょう。しかし無償で、というわけにはいきません。我々の役に立っていただきます』
「どうすればいい!」
『では……』
 僕の前方で、機械の唸る音がした。周囲の激しい雑音にもかき消されない、重厚で巨大な何かが動く音だ。
 そして、床の一部が開き、下から巨大な影がせり出てきた。
 周囲のざわめきが、爆発的に盛り上がる。
 その姿を正視した瞬間、僕は喉元にこみあげる吐き気を必死で飲み下さなければならなかった。
 それは悪徳の塊だった。
 紫と黄緑色が無秩序に混交する肉を、赤い薄皮が覆っている。複雑に蠢動しながら脈を繰り返している。
 全身に暗く粘い熱を宿している。
 黒く輝く眼球が二つ、白く沈む瞳を灯してこちらを見ていた。まったく人間とはかけ離れた、熱くも冷たくもなく、ただ殺意だけをそこに宿す、気負いのない加害者の眼光であった。
『それを殺してください。素手で』
 信じがたい言葉が耳元に残る。
 殺せだと? このバケモノを? 素手で?
「無茶言うなよ!」
『無茶ではありません。あなたなら可能です』
「わけがわからない! 無理だ!」
『ほら、言い争っている時間はありませんよ』
 言われて、前を見る。すでに魔獣は僕の眼の前まで走り込んできていた。
 獣臭い熱風が吹き付けてくる。巨大な腕が筋肉の色彩をグロテスクに変え、振りかぶられる。僕は悲鳴を上げて横に逃れた。
 直後、砲弾のような拳が打ち込まれてきた。爪先を掠めてゆく。風圧が全身をなぶる。低く、重く、質量とパワーを感じさせる風圧だ。
 戦慄した。体格差がありすぎる。素手で殺すなど不可能だ。
 そもそも――なぜこいつを殺さねばならないのか。それがわからない。常人の眼で見れば、目の前のこの怪物も、ただ体格がよいだけの人間なのだろう。なぜ受刑中の身で殺人など犯さなければならないのか。
『相手をよく見てください。必ず突破口が開けるはずです』
 何のことだ?
 一瞬の思考が、命取りになった。
 気が付いたときには、胸板で重い衝撃が弾け、僕の体が宙を舞っているところだった。みしり、とアバラにヒビが入る。
 床に叩きつけられる。仰向けの姿勢。肺が痙攣し、中の空気が押し出される。
「か……はッ」
 そこへ、奴がのしかかってくる。力の込められた両腕が、表皮の異常な色彩をせわしなく変化させながら迫ってくる。
 迫ってくる。
 浅川組のチンピラどもが、拳銃と刀を振り回して、ウチの事務所になだれ込んできたときの光景が、フラッシュバックする。銃口がこちらを向いたときの光景が。
 ――腹の底から、甦ってくるものがある。
 それは黒い獣の形を取り、僕の胸の中で牙を剥く。

 反射的に、爪先を奴の顔へとブチ込んでいた。

 鈍い音と、硬い感触。
 奴がうめく。どうやら苦し紛れの蹴りが顎を跳ね上げたようだ。
 表皮の色彩の変化が、硬直している。
 両脚を床に叩きつけ、その反動で起き上がると、背を丸めて全身の筋肉を撓めた。
 ――直後、瞬発。
 奴の顎へ、アッパーカットが叩き込まれた。
 激突の感触。衝撃が内部に浸透し、突き抜ける感触。
 奴の顔が上を向く。
 拳を上へ振りぬいた動作を、総身の回転につなげ、後回し蹴りを解き放つ。
 心地よい衝撃。奴の巨体がくの字に折れ曲がる。間合いが離れた。
 伸びた膝を体に引きつけながら、僕は自分の頬が笑みの形に硬直していることに気づいた。
『感覚を取り戻してきましたか?』
 耳元で声。多分、僕が組の抗争で暴れた時のことを言っているのだろう。どうやって調べ上げたのやら。
「まだまだだ。イマイチ体が鈍い」
『それは恐ろしい。万全のあなたなら、私があぁも簡単に気絶させることはできなかったでしょう』
 張り付いた笑みが、さらに深くなる。
「なぜ僕にこんなことをさせるのか、だんだんわかってきた」
『ほう』
 相手の巨漢が、また色相を変化させる。
 直後にストレートが来た。
 楽々と避け、同時にがら空きとなったわき腹にフックを叩き込む。肉体が上げる軋みが、拳へ直に伝わってくる。
「よくわからないが、ここは闘技場だな?」
『まぁそんなところです』
 色相変化。筋肉の一筋一筋の収縮が、劇的な皮色の変化となって顕れる。
 無駄な力がうなるほど込もった腕が薙ぎ払われた。僕は最小限のダッキングでかいくぐると、全身を瞬発させ、多様に変化する軌道の連撃を見舞う。相手からすれば、拳が分裂してあらゆる方向から襲い掛かってくるかのように見えたことだろう。縦横に顎が跳ね回り、身体は奇妙なダンスを踊る。僕の拳が刻むリズムに合わせ、痙攣のように。
「そして……恐らく、僕と同じく『異視刑』を受刑する奴が、ここで闘い、圧倒的な活躍をしたんだな?」
『ご名答』
 今度の声には、素直な感嘆の響きがあった。
 だが、今の自分の状態を鑑みると、当然の推理と言えた。
 相手の筋繊維のわずかな緊張と弛緩が、急激な色の変化となってはっきりと目視できるのだ。
『あなたのその眼は、相手の攻撃を、動作の最初の段階から視認することができます。それはつまり、完全なる先読みです』
 風を巻き込んで迫りくる拳。しかし僕はすでに避けていた。
 「避けた」のではなく、「避けていた」。
 事前に来ることがわかっている打撃など、まったく怖くない。
『かつて、一人の男がこの闘技場の王者として君臨していました。彼は二年で二百回以上の試合をこなし、敗北したのはわずかに二度。誰一人として並び立つことのできない記録を打ち立てた、〈伝説の眼を持つ男〉です』
 避け、殴る、殴る。たまに蹴る。避ける。
 リズミカルにその作業をこなしてゆく。体が風を切る感触。肉を潰し、骨を砕く感触。
『しかし、その男は闘技場から去ってしまいました。我々が提示する金銭的な報酬では満足できなかったのでしょうね。男が本当に求めていた報酬は、当時の私どもには用意してやれないものでしたから』
 それが、元の視覚を取り戻させてやる技術ということか。
 みちッ、みちッ、と音を立てて、巨漢の肉は青い血をしぶかせる。
「まるで、今の自分たちになら視覚の異変を治してやれると言いたげだな」
『えぇ、最近やっとその技術を確立させることができましたのでね。ただし、制限つきではありますが』
 もはや相手の肉体は、蛍光塗料をぶちまけたようなありさまだった。
 ほとんど戦意も喪失している。
 しかし、容赦という感情は、僕の中から枯渇していた。
 多分、浅川組のチンピラどもを、撃ち殺し、斬り殺し、殴り殺したときから。
 僕はきっと、そのときから、この黒い獣に、脳をかじられているんだ。
『我々には伝説が必要です。正視に堪えかねる威光を持った、英雄を求めているのです』
「へっ、単に! そのほうが! 儲かるからだろ! ――いいよ、やってやる。バケモノを用意しろ。僕が片端から喰らってやる……!」
 腰を落とす。床を蹴りつける。全身を射出する。
 その加速に、拳の加速を合わせる。
 大気の壁を突き破りながら、拳が疾る。疾る。
 やがて拳としての輪郭を失い、濁った熱の塊となる。そう見える。
 激突する。
 炸裂する。
 衝撃が爆散し、大気を弾き飛ばす。
 スローモーション。相手の巨体が吹き飛んでいる。体中を美しく変色させながら。色とりどりの体液を撒き散らしながら。
 大仰な音をたてて、床に転がった。
 いつまで待っても動かなかった。
『素晴らしい』
 その声に呼応したわけでもないだろうが、金網の外の観客たちがどよもし、闘技場全体を揺らしていた。

【続く】

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