夜天を引き裂く #2
これほど醜い生き物を、見たことがなかった。
眉をひそめ、前方の闇にわだかまる何かを眺める。
――これは一体、何の悪意だ?
酸性の臭気を放つ肉塊。
おおまかな姿形は人間のものだ。私立孤蘭学院の男子制服を身につけている。
しかし――その頭部は異常に膨れ上がっていた。
肩幅よりも巨大な頭。
薄っすらとピンク色の、それは脳だった。
頭蓋骨を内側から押し破り、異形と化すまでに膨張した、思考のための器官。無数の皺を粘液が伝い、地面に糸を引いている。
くちゅり、くちゅりと粘着質の音を立てながら、それ自体が一つの生き物のようにみじろぎしている。あたかも巨大なミミズが球状に固まって蠢いているようだ。公園の外灯に照らし出され、周囲の闇から浮かび上がっている。
「……あー」
ここで成すべきは、目の前の奇妙な生物が果たして危険な存在であるか否かを見極めることである。恐慌に駆られ、夢であることを疑ったり、自らの正気を疑ったりするのは、惰弱な精神の現実逃避に過ぎない。まったき無駄である。そんなものに現を抜かして何ら意味のある行動を取らないような輩はクズでありゴミでありカスであり、生きる価値のない人間未満である。
と、絶無は思う。
とはいえ――
実際問題、見極める必要などなかった。
なぜならその足元には、五体を寸断された人体の残骸が転がっていたからだ。スーツの切れ端が纏わりついていることから、仕事帰りのサラリーマンだろうか。肉片と臓物の野放図な散乱。日の下で見れば、さぞや醜悪な色彩に満たされているのであろう。
……人間の惨殺死体というものを始めてみたが、存外に味気のない光景であった。
誰がこの惨状を作り出したのかは明白である。この脳を露出させた醜怪な生物は、人体をたやすく引き裂くだけの力と、その意志があるのだ。
絶無は肉塊をひとしきり眺め、溜息を付き、手にしていた買い物袋とケーキの箱を地面に置いた。
――あぁ、面倒だな。
ぼんやりと、そう思う。こいつの正体がなんであるかはひとまず置いておくとして、自分の前で人を殺したのはマズかった。それだけはやめて欲しかった。
――殺さにゃならんではないか。
別段、奴の足元に転がっているサラリーマンと知り合いだったわけでもないし、その不条理な死に怒りを感じたわけでもない。
感情ではなく、主義の問題として、絶無は人殺しを見かけたらその場で殺すことにしている。
この怪物は何なのか。なぜこんな凶行を働いたのか。一切考慮しない。人殺しの存在を決して許容しない。そのための人殺しは許容するし、そのことに何の矛盾も感じない。
衣服の左袖口に、右手の指先を沿わせながら、ゆっくりと歩みを進める。
「――覚悟には、二種類ある」
宣戦布告の意を込めて、声を掛ける。
怪物は胡乱な動きでこちらに向き直った。どうやら知覚能力はさほどのものでもないようだ。構わず言葉を続ける。
「ひとつは、『クズの覚悟』だ」
頭部が重過ぎるのか、肉塊は不安定な足取りでこちらに歩み寄ってくる。
にちゃり、にちゃり、と足音が近づく。生物としての整合性に欠けた、無様な動きだ。
思わず、眉を歪める。どれだけプライドのない生き方をしていればこんな姿になるのだろう。
「予想される不幸を受け入れる心。避けられない困難に対して戦いを放棄し、こんなもんさと肩をすくめる行い」
唾棄する。
「――馬鹿ではないのかと思う。格好つけて自らの無能から目を逸らしているだけだ。まさにクズとしか言いようがない卑劣卑小の生き方だ」
醜い。姿形はもちろん、その行いも極めつけに醜い。
足元の惨殺死体を見れば一目でわかる。
パーツがすべて揃っているのだ。
つまり、捕食をするために殺したのではない。ただ無残な死を演出するためだけにこれを成したのだ。
C級以下のホラー映画でも見ているような気分だった。
「お前はどっちだ? 僕はもう決めているが」
瞬間――
絶無は地面を蹴る。肉塊に向け、猛然と突進する。
――ぎゅぐろぉぉぉぉ!
応えるように、液体が泡立つような咆哮を上げて、巨大な脳が襲い掛かってきた。
巨大なピンク色の後ろから、まるで花が開くように、六本の腕が振りかざされた。
あたかも昆虫の足のように、二つの関節と外骨格を備えた、硬質の腕だ。先端はノコギリのような刃になっている。
即時、跳躍。
直前まで絶無の足があった場所を、黒い何かが薙ぎ払った。
七本目の腕。恐らくは。
目視すら不可能な超高速の斬撃。空中で曲げられた両足を、風圧がなぶっていった。
……獲物の目を自らの頭部に引き付けておき、その隙に足首を切断。逃げ足を奪う。
恐らくはそういう魂胆だったのだろう。
「ほらっ」
絶無は空中で制服の袖口から武器を抜き放つと、脳天の中心に叩き込んだ。
即座にスイッチを最大電圧まで押し込む。
――ぎゅぐぎぎぎぎぎげぇ!
七本の節足が、痙攣しながら出鱈目に振り回される。しかし絶無は、敵の身体構造を十全に見切っていた。
後頭部から生え、体を回り込んで襲い掛かる七本の脚。
つまり、密着すれば当たらない。
少なくとも、絶無が次の行動を起こすまでの間は。
両足で相手の首に絡みつき、露出した脳に拳を叩き込む。
ぐじゅっ!
柔らかいものが潰れる感触とともに、灰色の汁が吹き上がる。汚らわしいが我慢。
もう一発。
ぐじゅっ!
もともと頭部に重心が偏っていた上に、絶無に飛びつかれて殴られれば、当然の理としてバランスを崩す。
追撃を加えることなく、絶無は素早く身を離した。
直後、ノコギリ状の節足が振り下ろされ、自身の体に突き刺さった。血液の代わりに黄色い液体が飛沫く。
――ぎゅぐるぅぅぅががげっ!
絶無は再接近。悶絶する敵の脚に自らの脚を絡みつかせ、
「よいしょっ…と」
てこの原理を利用して足首の関節を一気に外した。鈍い感触が伝わってくる。
アンクルホールド。
目的を果たした瞬間にはすでにその場を離脱。襲い掛かる節足はまたしてもこちらを捉えることはなかった。
これで、奴はもはや満足に移動もできない。
「すなわち生ゴミの出来上がりというわけだ」
後は節足の範囲外から煮るなり焼くなり、好きなように処理すればよい。
どうするか。
――やはり焼殺だな。
ガソリンでもかけて丸焼きにしてやろう。絶無は自らの考えにしみじみとうなずく。
――火は良い。良いものだ。
どんな醜い生ゴミ野郎でも、乾いた灰に変えてくれる。何より赫々と揺らめくその姿は美しい。浄化の象徴としてもてはやされたのもわかろうものだ。
確か、近くのホームセンターで灯油を取り扱っていたはずだ。想定外の出費になるが、醜いものをこの世から抹殺するためならば惜しくはない。
踵を返し、歩みだす。
と――その瞬間。
突如として全身を衝撃が貫いた。
「――!?」
それが凄まじい破裂音であることを一瞬で悟った絶無は、反射的に伏せる。
「ち……っ!」
両の耳から血が噴き出す。水中に没したかのように世界から音が遠ざかり、耳鳴りだけが荒れ狂っている。
鼓膜が、破壊されたのだ。
直後に木屑が降りかかってきた。
上を見ると、イチョウの樹にサッカーボール大の穴が穿たれている。
丁度、絶無の頭があった位置だ。
――改めなければならない。
絶無は歯を軋らせながら素早く身を起こした。
脳の怪物が、こちらに頭を向けていた。
そう――認識を改めなければならない。
今まで絶無は、敵の身体特徴から解剖学的見地によって弱点・死角を割り出し、一方的に処刑を展開していた。
だが、それだけでは駄目なのだ。
この生き物は、そういう常識で測ってはならない存在なのだ。
今の攻撃の正体が何であれ、何かを飛ばして敵を殺傷するものであることは間違いない。
だが、奴の体に何かを射出できそうな器官は見当たらない。巨大すぎる脳と、七本の節足だけだ。そもそも、これほどの威力を叩き出す遠距離攻撃手段が、生物の肉体に生得的能力として備わっているとは考えづらい。だからこそ絶無はこの能力の存在を予期できなかった。
すなわち、イチョウの樹に大穴を開けたアレは、既存の物理学に収まりきらない現象である可能性が高い。
――超常的存在!
よもやそんなものが実在しようとは。
この事実を受け入れるのに、絶無は一秒も要さなかった。
だが、逆に言えば一瞬だけとはいえ動きが止まったということだ。
……避けきれなかった。
巨大脳の前面、三十センチほど離れた空間が、窄まるように収束してゆく。あたかもガラス製の漏斗がそこに浮いているかのように、怪生物の姿が歪んで見える。
直後、撃発。
闇をつんざく破裂音が遠く響き渡る。
都合、三発。
一発目は耳を千切り飛ばし、二発目は肩の肉をえぐり――
その時点で絶無は大きく横に跳躍。同時に三発目が来る。
直撃は――回避した。
直撃だけは。
「ごふっ」
最初は、ぼわっとした灼熱感があった。
脇腹の肉がごっそりと食い破られ、しめ縄のような大腸がまろび出ている。腹の底から溢れだす血が喉を灼き、口の端からこぼれおちる。
絶無はそれらの情報を一時的に脳内から追い出し、太い樹木の影に転がり込んだ。
根元に背を預け、うずくまる。
「む……う」
腹圧で外に出ようとする自らの臓物を抑えつける。
満身創痍の体で、次々とこみ上げてくる激痛を受け止めた。
血が抜けてゆく、おぞましい寒さ。怒り。苦痛。そして高揚感。沸き立つ血が肉を燃やし、無限とも思える活力が汲み出される。
この瞬間、主義に感情がともなった。
――あの生ゴミが、憎い。
激しく眩く、醜いものへの憎悪が胸中に燃えている。
苛烈に荒ぶる、自らの美意識。誰のためでもない、そのために動く。そのために生きる。
絶無は木陰から飛び出した。仇のように地面を踏みしめ、風を巻き起こす速度で疾駆する。
勝算は、ある。