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少女性についてー澁澤龍彦『少女コレクション序説』から70年代少女漫画へ

チャイナドレスを着たいなどと考えている。
白いやつが良い。上には同じ白のニットコートを羽織り、夜遊びをしに車で街に行くのだ。

何のオマージュが分かった人、今すぐ私と友達になりましょう。レズビアンの。

中高生の頃に澁澤龍彦あたりを読んでた人なら、たいてい倉橋由美子『聖少女』の主人公に自分を重ね合わせたことがあるのではないかと思う。

朝起きがけにレモンを絞ったウィスキーを飲み、高校には通わず家でフランス語なんか勉強するミキという女の子とその父親との禁忌の愛を描いた小説で、内容は難しかったので私にはよく分かりはしなかったのだけれど、作品中色濃く漂う退廃的なムードとヒロインの高踏的な美意識に当時私は目も眩むほどの憧れを抱いたものだ。読んだのは確か15か16の夏。

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うつくしい少女が好きだ。
少女を描いた作品が好きだ。

いまのご時世こんなことをあまり大っぴらに言えるものではないが、何を隠そう私は”少女マニヤ”だ。

とは言え『サイコ』の青年よろしく少女たちを剥製にするわけではなし、現実の女子高生たちとエンコーするわけでもなし、私の少女収集癖はもっぱら文学上(やそのほか創作物)のそれに限られている。

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小説なら倉橋由美子『聖少女』はもちろんのこと、バーネットの『秘密の花園』、ナボコフの『ロリータ』、エミリ・ブロンテの『嵐が丘』、サガン『悲しみよこんにちは』、田山花袋『少女病』、デュラス『ラマン』、吉行淳之介『菓子祭』、レベンクロン『鏡の中の少女』、吉村昭『少女架刑』、小栗虫太郎『方子と未起』、竹内健『紫色の丘』、忘れてはいけない太宰治の『女生徒』…

映画なら『エコール』、『ピクニック・アット・ハンギングロック』、『ヴィオレッタ』、『イノセントガーデン』、『草原の実験』、『モールス』、『ヴァージン・スーサイズ』、『さよならドビュッシー』の橋本愛も衝撃的に美しかった…

漫画なら『少年は荒野を目指す』の狩野、大島弓子『バナナブレッドのプディング』、池田理代子『おにいさまへ…』、高野文子『おともだち』、山岸涼子の描く少女たちの硬質な身体の線にも憧れた。

またバルテュスの描く少女やハンスベルメールの球体関節人形たちや、林静一、中原淳一、中村佑介のイラスト、インターネットでわずかに垣間見たに過ぎない篠山紀信の『神話少女』…


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パッと思いつく限り挙げてみたけれども、これらは私が10代の時に読んだり観たりして「あ〜ええわぁ〜」などと陶然としていた作品たちなので、今じっさいに手元にあるものはほとんどない。

ひとくちに少女の出てくる美しい作品といってもそれが男性作家によるものか女性作家によって描かれたものかでかなり現れ方が違うと思うので、それを比べてみようかとちょっと思ったんだけど…(チッ)。

などと思いついたのは今ちょうど澁澤龍彦『少女コレクション序説』を読み返していたからだ。
ご存知のとおりこの中で澁澤は「少女の魅力とはオブジェたる客体性である」という旨を高らかに宣言している。

たしかにベルメールやバルテュスなんかの作品は、かなり扇情的な形態かつ表現媒体がそもそも視覚に依存するものということも相まって、彼らの作品の少女の美はやはりオブジェだな、と納得できる。
またゴシックドールの類が、(四谷シモンの少年の人形なんかすごく綺麗ではあるけど)やはり少年ではどこか収まりが悪くって、少女との親和性が高いことからも澁澤の主張は間違いではないと思う。

ナボコフの『ロリータ』 や花袋の『少女病』なんかも男性の欲望を冷たく反射する客体という意味でオブジェの分類になるだろう。

しかし小説や漫画、映画の中には少女の視点から物語が展開する作品があるわけで、しかもそれが十二分に少女の美しさを湛えているとき、少女性=オブジェという澁澤の図式では捌き切れないものを私はそこに感じるわけです。

特に少女漫画なんか、何よりもまず少女の語りから展開するのだから、少女がオブジェであっては困るんである。

だから私たちは再び問いを提起する必要がある。
少女の美しさとは何なのか?

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という問いについて考えるに当たって一番手っ取り早そうなのは、少女を描きながらちっとも少女の美しさを感じさせないものについて挙げていくことだろう。

難しいな、そもそも自分の美意識に合わない作品はハナから避けて通るタイプなので実例が少ない。
とりあえずやってみるか…。

谷崎潤一郎『痴人の愛』、一条ゆかり『有閑倶楽部』の女性メンバー、ルノワール の『ピアノを弾く少女たち』、少年誌のグラビア写真、俗に言うスイーツ映画の類……あ、だめだもう行き詰まった。
だいたい個別具体的な作品名がほぼ出てこない時点でもうダメだ。

(上に名前があるからと言ってその作品が嫌いという意味ではない。『有閑倶楽部』とかめっちゃ好き)

あ、あと会田誠の作品に出てくる少女たちも私の中の少女的な美かと言われればなんか違う(彼の場合意図的かつ露悪的なキッチュだから当たり前か)。

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巨匠ルノワール『ピアノを弾く少女たち』に少女の美を感じないなんていうのはなんだか恐縮なんだけど、あのねっとりした油絵具の質量感はどうにも少女的観点からいうと好ましくない。
だいたい彼の描く女性というのは悉く豊満で母性的、かつ幸福そうだ。

ルノワール 『ピアノを弾く少女たち』
いや綺麗なんだけど…好みじゃないのよ

豊満な少女など少女ではない。
というのは極論だけれども、少なくとも少女は自分が豊満であることに満足していてはいけない。
痩せているか、そうでないなら少なくとも自分の脂肪を憎んでいる。

この世で最も少女的な病は何か?
いくつか候補はあるだろうが、拒食症は必ずそのうちの一つには挙がるだろう。

いうまでもなく拒食症は思春期の少女たちが多く発症する病である。彼女たちは脂肪を削ぎ落とし、時には生理が止まってしまうほど痩せこけてまで自分の身体を否定し続ける。彼女たちは皮下脂肪を蓄えた大人の女の身体を、成熟を、断固として拒絶する。

ここまで言えばもう分かるだろう。
少女性とは成熟を拒否しようとする意思、あるいは成熟に対する漠然とした不安と恐怖なのだと。

その不安を巡って少女たちの語りは展開する。
だから少女性をただオブジェたることに帰そうとする澁澤の視点は、いささか男性的で一面的に過ぎるのである。

と、書いていて気が付いたのだが、西谷祥子の『マリィ・ルゥ』は少女の漠然とした不安は描いているけれども、それは素敵なボーイフレンドと結ばれることによって成熟への肯定的な態度に主人公が向かって行く結末なので本当に「純少女的」か、と問われれば留保をつけなければならないだろう。

1965 年に連載されていた作品なのでまだやはり「少女はやがてよき妻、よき母へ」というイデオロギーが少女誌を席巻していた時代性もあるのかもしれない。

そういえば私は(タイトルは失念したが)萩尾望都のかなり初期の作品で、やはりこの『マリィ・ルゥ』と同じように女の子が素敵な男の子と結ばれるという「よき妻」を予兆させる形式の短編漫画を読んでかなり驚いた記憶がある。
のちに『ポーの一族』を書く萩尾望都が!

だから少なくとも60年代あたりではまだ少女の不安は描けてもそれは成熟、母になることへの肯定へと昇華されねばならないという暗黙のルール(というか様式美かしら)があったと推察される。

それがやがて少女の不安の内面世界の論理だけで自転し始めるようになるのが、大島弓子の『バナナブレッドのプディング』や池田理代子の『おにいさまへ…』が出てきた70年代なのではないだろうか。

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私が24などという齢になって(サザエさんと同い年なんである。子どもがいても不自然な歳ではない)いまだ少女性というものに偏執的なこだわりを見せているのも、結局のところ一度は成熟しようとしたものの、成熟に失敗した大人だからなんだろうなと思っている。

けれど少女とはいずれ崩壊する予兆を孕んでいるから美しいのである。

いい歳して成熟を拒んでもそこにはただ痛々しいアダルトチルドレンがいるだけでもはや美でもなんでもない。

などと、すでにもう少女だった時代は遠く過ぎ去った女の述懐でこのnoteを綴じます。それではごきげんよう。


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