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#225_【まちあるき】いい路地あります_米倉通り(対馬市厳原町国分)

前回は「国分町通り」を取り上げました。

距離は短く、単純にまっすぐな一本道、おまけに去年の3月まで久田に事務所があった関係で市役所に車で抜ける道として通過していましたが、このような道でも、ちゃんと観察すれば何か出てくるのねぇ…と驚きました。
対馬の路地は、ホンキ奥が深いです!

今回は、「国分町通り」の端と接する「米倉通り」を紹介します。
ここは、初心者の方でもワクワクする路地かと思います。


米倉通り

金石城跡の入口に架かる桜橋から、対馬市役所の前を通り、西山寺に向かう路地になります。

現在対馬市役所が立つ場所には、対馬藩の米倉や馬の厩舎があったそうです。

【桜橋側の入口です。】
【対馬市役所です。】
【趣のある塀です。カーブの曲がり具合も美しい。】
【対馬では数少ない「お稲荷様」です。】
【少し登ります。】
【振り向きざまのカーブが美しいです。】
【対馬の臨済宗の本山、西山寺です。】
【お寺の下に「韓語司」という通詞を養成する施設がありました。】
【石垣に埋もれた石が自己主張してます。「超芸術トマソン」では「でべそ」と分類されます。】
【どこが終点かよく分かりませんが、とりあえずハジッコに着きました。】
【魚の柄のガードパイプです。こんな感じのはそのうち絶滅するだろうとのことです。】
【大町通り側を見下ろします。】
【大町通り側から見上げます。】

鶴翼山西山寺

先ほども写真で紹介しましたが、対馬市役所から少し上がったところ、立派な石垣の上にあるお寺です。

元々大日寺という名前でしたが、1462(寛正3)年に、京都天竜寺の和尚さんであった、仰之梵高(ぎょうしぼんこう)の来島を機に臨済宗に改め、対馬臨済宗の本山になりました。

文禄・慶長の役前後、朝鮮国との交渉役として景轍玄蘇(けいてつげんそ)という和尚さんが対馬に招聘され、日朝交渉の任にあたりました。
のちに、厳原町日吉にあった「以酊庵」(いていあん)が火災に遭い、こちらで日朝の外交文書を取り扱うことになりました。

「なぜお坊さんが?」という疑問も湧いてきますが、当時外交で使われていた文書は漢文と考えますと、「読めそうな人は…」と考えたら合点がいきますでしょうか。

私も詳しいことは分かりませんが、外交の場というのはかなり特殊ですが、昔のお寺は葬儀を行うだけでなく、集会場でもあれば、読み書きを教える場でもあり(寺子屋)、戸籍を扱っていたりもしたようで、現在とかなり様相が違っていたようです。

そして、かつて西山寺ではユースホステルをされていましたが、現在は宿坊をされており、泊まることもできます。
部屋から眺める厳原港の景色は、なかなか素敵です。

【西山寺の本堂です。】
【朝に座禅をやっています。】
【梵鐘がある櫓です。】
【内部はこのような感じです。】
【除夜の鐘を打たせてもらいに行きました。】

さいごに

お城があるわけでもないのに立派な石垣が現れて驚きますが、かつては朝鮮との外交を司っていた場所があったわけですから、当然と言えば当然でしょうか。
数年前の年越しに訪れた時は、多くの檀家さんらがいらして賑わっていましたので、お寺も世の中に合わせて変化していることを感じます。


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佐藤雄二_ビーコンつしま
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