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インドの惑星、結晶を身に着ける女たち

「コーヒーでも飲みましょう」
ということになって、目についたカフェにはいった。その日は、知りあいのインド人と久しぶりに会って、彼にあわせてベジタリアン料理をだしてくれる店で昼食をとった。そのあとのことだ。
以前は月に一度、僕の住む街で暮らすインド人たちとベジタリアン・ランチョンをしていたが、最近は間遠になっていた。ランチョンそのものはつづいているようだが、僕の生活が不規則なので参加できずにいる。彼はそのランチョン・メンバーのひとりだ。
いっしょにはいったカフェは、壁面が全面ガラスのスライドドアになっていて、外がよく見える。いつの間にか街路樹のイチョウがすっかり黄葉していた。鮮やかな黄色だ。黄色はどこかインドを思わせる。インドの女性たちが好む鮮やかな色彩の衣装のせいだろうか、それともカレーの香辛料、あるいは国旗の色が影響しているのかもしれない。

インドの国旗は、上からサフラン色・白・緑と3本の横縞があり、中央に車輪のようなな形をしたアショーカ・チャクラという法輪がある。サフランという言葉は日本人にとってはまず、香辛料を思い浮こさせるだろう。これは紫色の可憐な花を咲かせる植物の、その赤いめしべを乾燥させたものだ。同時に黄色という意味もあって、これはサフランの花柱に含まれるクロシンという色素成分のせいだ。クロシンを水に溶かすと、鮮やかな黄色になる。もともとは zafalan(ザファラン) というアラビア語が語源とされ、これが黄色という意味だった。
ヒンドゥー教ではこのサフラン色は、縁起の良い神聖な色だという。黄色は農民の色で、 大地と深い関係にある。カフェでは、そんなことも

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いうまでもなく色とは光の波長だ。数字であらわせば、人間の目に見える光の波長範囲は、おおよそ360~830ナノメートル。これを可視光という。波長が短かければ紫色に、長くなると赤色に見える。黄色なら550~59ナノメートルの範囲だ。つまり色とはモノの性質ではなく、目が受容した光の波長に基づいて脳がつくりだした感覚といえる。

インドでは古代ヴェーダの時代から、これらの色が占星術と重要な関連をもってきた。
インド占星術は文化の源泉ともいえるヴェーダの知識体系のひとつで、きわめて論理的かつ優れた数学的技法をもちいた占術として知られる。ヴェーダとは紀元前のインドで編纂された一連の宗教文書をさし、それらはバラモン教やヒンドゥー教の聖典となっている。つまりインド哲学の礎でもあるわけだ。
このインド占星術は9つの天体を軸におこなわれ、それぞれの天体を神がつかさどり、それぞれの天体を支配する色がある。その天体がどの色であるかは流派によって異なるが、各色に基づいて宝石や鉱物が象徴的にあてがわれている。たとえばある流派では、太陽はスーリヤという神様として描かれ、赤をあらわし、ルビーが象徴的な石だという具合だ。

太陽系の惑星写真を見れば、それぞれが神秘的で美しい色彩をもった球体であることがわかる。まさに惑星はひとつの結晶だ。
光り輝く太陽の周りを回転する丸い天体たち。それらを「惑う星」と名づけたのは、地球から見た各惑星の動きが奇妙だからである。太陽や月、あるいは遠く離れた星々が、天空を東から西へと移動していくのに比べて、地球から見る太陽系の惑星たちは夜空をうろついているように見える。

宇宙空間をさまようように動くこれらの結晶に、人は運命を見ようとしてきた。
そもそも結晶とは、原子や分子などが空間的に規則正しく配列した物質をさす。この結晶という言葉から連想するのは、ダイヤモンドや翡翠、あるいは雪などではないだろうか。女性たちは古代より、これらの結晶を身に着けることに喜びを見いだしてきた。美しい輝きでみずからの身を飾ることの恍惚。それらは快楽をもたらしてくれるとともに、まるで自身を守ってくれるのだとでもいうように。

インド占星術は星と石の関係について、古くから深い関心をもってきた。
もともとは月の位置に着目した占星術だったというが、ギリシア式のホロスコープなどをとりいれつつ発展してきたという経緯もある。その一部は仏教の経典にも採用され、やがて密教の一要素として中国に伝わり、日本にも伝来した。それは宿曜道の源となった。
もちろんこの占術は、的中率において高い評価をえている。実際、インドでは多くの人がこの占星術を人生の指針とし、なにかあるごとに占い師のもとを訪れるという。

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インドを訪れたのは11月だった。
ムンバイ、すなわちかつてボンベイと呼ばれた街から、僕は内陸部のプネー、さらにインド亜大陸の中心部であるデカン高原へと歩を進めた。客車の屋根にまで人が乗った満員の列車で、昇降口の手すりにつかまったまま、移動したこともあった。わずか3週間ばかりの滞在だったが、大地と石に囲まれた黄土色のグラデーションの世界は、その埃っぽい空気と香辛料の匂いとともに、長い時間をへたいまも忘れがたいものがある。

僕はその旅の多くの時間を、禅仏教を研究するひとりのインド人哲学徒とともにすごした。インド北部のパンジャーブ州出身で、いつも頭にターバンを巻いていたのは、彼がシク教徒である証だった。がっしりとして背が高くとてもハンサムな男で、情熱的かつ活動的な性格は研究者というより敏腕ビジネスマンのようだった。
彼とはよく、あばら屋のようなカフェの軒先で、小さなガラスコップに入れられた甘ったるいチャイを口にしたものだ。
そんな彼は、しばしば哲学問答のような問いを発してきた。死後の世界はあると思うか、輪廻転生についてどう思うか、人生はなんのためにあるか、といったものだ。そんななかで、ちょっと面白いと感じたものに、星の運行と人の運命をなぜ関連づけて考えたのか、というものがある。

彼が占星術に造詣が深かったかどうかは知らない。それを信じていたかどうかもわからない。ただ、星と人を関連づけたのはなぜか、ということに彼が関心をもっていたのはたしかだ。考えてみれば、両者の関連はきわめて突飛なようであり、同時にきわめて自然なことのようにも思える。
僕がその問いにどうこたえたのかは、忘れてしまった。忘れたということは、たいした考えがなかったということだろう。しかし、その会話のなかで「結晶(crystal)」という言葉が、彼の口からでたのは覚えている。

この言葉の語源はギリシャ語の krystallos にあって、氷や透きとおった水をあらわす。当時は氷が異常な低温になることで水晶になると考えられていた。つまり氷や水晶のように透きとおった結晶構造をもつ固体という意味である。
人はこの結晶に運命が刻まれ、死が刻まれていると考えたのだ。

占星術はいうまでもなく星の配置に意味を見いだす。それは西洋でも東洋でも変わりはしない。星とは宇宙の鉱物であり、石であり結晶である。占星術によってつくられるホロスコープのなかで、星々がうまく配置されていれば運命は好転し、悪い場合は暗転する。
さらにインド占星術では、すべての天体は縁起の良い星と悪い星にわけられ、それぞれ異なる色を放つ。僕たちはそれらの色のスペクトルに囲まれて生きているわけだ。

こうした星々と一対となった宝石を、人は身に着けてきた。宝石は人類が歴史を刻みはじめるはるか以前から、地中深くで圧縮され結晶となってきたものだ。そこには高いエネルギーが凝縮されていると考えられてきた。真珠や珊瑚も海のなかで自然が生みだした神秘の石だ。そのなかから、自身と対になるべき石を選び、その塊をもつことで、運命の流れを円滑にし強化していこうとする。

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僕たちはでこぼこ道を12時間ほど車で走り、アジャンタ石窟群と呼ばれる巨大な仏教遺跡を見にいった。それは川の湾曲部を囲む断崖につくられたものだった。約550mにわたって崖の岩を掘削して細い道をつくり、その途中に断続的に大小30の石窟が掘られている。すべて、いまから1500年以上も前に、人の手によってなされたものだ。なかには壁面の岩を削って仏の像が彫刻された部屋もある。その多くは、比丘たちが生活し、修行するための狭くて簡素な場所であったことに間違いはない。
いわば断崖といういう巨大な結晶のなかに、祈りの空間を削りだしたものだ。

禅仏教の研究者とともに、僕は2時間ばかりかけて、その石窟群をたどった。切り立った崖とむきあいながら、日々洞窟のなかで祈りを捧げてきた比丘たちの暮らしは、どんなものだったのか。それをうまく想像はできないが、どこかしら岩と風と太陽が一体となってみずからのからだに染みてくるようなかんかくはあった。
これらの石窟を見たあと、僕たちは人けのない崖のうえから、まるで断崖につくられたウミツバメの巣のような石窟群を見おろしていた。巨大隕石の落下がつくりだした大地の傷跡膿瘍であった。

あたりは荒野のような場所だ。そこに、薄汚れたひとりの男が座りこんでいる。彼は目の前にいくつかの石をならべて、それを売っていたのだ。おそらくは、そのあたりに落ちていたものを拾ってきて、水で洗っただけのものだろう。とても売れるとは思えなかった。
それでも僕は声をかけてみた。
「いくらですか?」
すると石売りの男は、200円程度の値段を口にした。
僕はなんだか急に、目の前のやや磨かれているとはいえ、なんの変哲もない石ころが妙に魅惑的に感じられてきた。そうして、一応の儀式として値切り交渉をしたうえで、その石を買ったのだ。
同行の彼は怪訝な顔をして、
「なぜ、そんなものを買ったのか?」
と、やや詰問調でいった。こたえようがなlくて、僕は曖昧に笑うだけだった。それから、握りしめた石を上着のポケットにねじこんだ。インド亜大陸の太陽が、強く大地を打ちつけている日だった。

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海辺の散歩者
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