アナとエルサが歌ったように 其之一【さらば、わが愛〜覇王別姫】《140字の感想文+ (今回は字数超過) 》
陳凱歌「さらば、わが愛〜覇王別姫」
続きにしばらく取りかかれないままになっていました。
本来ならこれまでに書いていた「エグいシンメトリー」について書くのが先なのですが、あまりにも対象が大きすぎて、まだ着手できません。
なので、別のことを先に書いてしまいたいと思います。
毎度のことですが、ネタバレ当然!、で書いています。
それどころか、「なぜ程蝶衣は死ぬことを選んだのか?」ということにまで踏み込む予定です。
初見の感動を大事にしたい人は、ここで読むのをストップされますように。
これまでに書いていた分のまとめです↓。
よろしかったらご覧ください。
コンテンツ会議↓でも取り上げてもらいました。
この映画の感想について、2回目です。
・◇・◇・◇・
この映画「覇王別姫」において、重要な鍵となっている演目に「思凡」というのがあります。中国語では「スーファン」と読むようです。調べてみても中国語のデータしか見つからず、詳しいことがわかりません。動画も中国語の字幕しかないようで、お手上げです。
とりあえず、映画で出てきた内容からわかることは、尼寺に入れられてしまった16歳の少女が登場する、京劇の女形にとっては基本中の基本の演目らしい、ということです。
この「思凡」の一節を、まだ少年である程蝶衣、すなわち小豆が身ぶりをまじえて語ります。
内容はこんな感じです。映画を見たのはもう半年近く前だから、記憶違いがあったらごめんなさい……
年は二八の十六、
緑の黒髪切り落として尼寺へ。
だけど私は、女に生まれて男ではない。
道行く男女を見ていたら、
この墨染の衣を引き裂いて……
と、これだけなのですが、どうやらこの尼になった少女は、普通の生活に憧れて矢も盾もたまらなくなっているようです。
この台詞を字幕で読みながら、いきいきと少女を演じる小豆を見ていたら、自然に耳に、アナのうたう歌が聞こえてきました。
そうです。「アナと雪の女王」の中で、緑のドレスで着飾って城の中をはしゃぎまわり、街に出ていくアナが歌ったこの歌です。
生まれてはじめて
心が躍るの
生まれてはじめて
声をかけられたいの
ロマンスの訪れを
密かに祈ろう
特別な誰かと
出会えるように
これは全くの五百蔵の直感なのですが、たぶん「思凡」の台詞は、アナの歌った「生まれてはじめて」と同じ気持ちを歌っているのだと思います。
ところで、この映画にも出てくる京劇の有名な演目に「牡丹亭」というのがあります。
参考URL
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A1%E4%B8%B9%E4%BA%AD
http://chugokugo-script.net/story/botantei.html
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/1459814/1473246/67849682
これ、未婚の少女が夢で出会った美男子と交わって、あげく夢の中の彼に恋い焦がれて死んでしまう……という、当時の貞操観念からいったら許しがたい内容だったそうです。
だけど、それがゆえに、自由を抑圧されていた女性たちには大ウケしたようです。しかも、最終的には少女は生き返って、ふたりはめでたく結ばれるんですよねー。
その上さらに、娘が生き返ったことを信じられない父親が、美男子を娘の墓暴きの罪人として司直に突き出す、だなんてくだりもあるようで、いやもう、このどったんばったんぶり、ひと昔前の少女漫画のストーリーですよ。ハッピーエンドな「ロミオとジュリエット」ですよ。
そりゃあ、ぜったい女の子が熱狂しますって!
千年以上にわたる女性への抑圧と「生まれてはじめて」の自由……飛躍しすぎているかもしれませんが、「思凡」とアナ雪を重ね合わせるのは、あながち間違ってはいないと思います。
「生まれてはじめて」は英語の歌詞では「For The First Time In Forever 」、直訳すると「永遠のなかのはじめて」。
一生終わることはないのではないか?、とのあきらめと不安と疑心暗鬼に満ちた光の差さない日々……だけどそこに豁然と訪れた解放と自由!……「For The First Time In Forever 」
という言葉からは、まるでベルリンの壁が崩れた日のような、歓喜の爆発を感じます。
このタイトルからは、アナの、心臓がふるえるような歓びと、潮がとどろくような高揚が、ひしひしと胸におしよせてくるような気がします。
「思凡」の少女は、おそらく「For The First Time In Forever 」を求めて「女に生まれて男ではない」とさけび、「牡丹亭」の少女は生き返って「For The First Time In Forever 」が本当に訪れた。
演劇のなかで描かれる自由は、中国の女性たちにとって、まさに一生訪れることのない「For The First Time In Forever 」を味わえるの瞬間だったことでしょう。
だから、むかしの中国の女性たちも、アナ雪で描かれる「ありのままの自分の解放」には、間違いなく共感したと思います。
・◇・◇・◇・
さて、小豆の練習している「思凡」の台詞の中で、重要な鍵になるのが、
女に生まれて男ではない
ということば。
だけどこの台詞を練習する小豆は、
男に生まれて女ではない
と「言い間違え」ます。
師匠になんど訂正されても、きびしく折檻されても「女に生まれて男ではない」とは言いません。おどおどとしながらも、つっかえながらも、「男に生まれて女ではない」と「言い間違え」続けます。
それは、小豆が自分との境目がわからないくらい劇に入り込んでいるせいだ、と大人たちは解釈します。
だけど、これには五百蔵はしっくりきません。なぜなら五百蔵には、小豆が自分のアイデンティティをかけて「男に生まれて女ではない」と「言い間違え」続けているように思えるのです。
小豆が最初に登場したとき、彼は女の子の格好をしていました。
ネットで調べてみると、「母親は遊郭で女の子として育てていたが、だまし続けるのに限界がきてわが子を手放したのではないか」というような感想がありました。おそらく、それが妥当な解釈なのだと思います。
とにかく、小豆は、幼いときからずっと女ばかりの世界で女の子として育てられてきた。
そしてこんどは、男だらけの京劇俳優の養成所へ捨てられて、なおかつ、女形として訓練させられている。
たとえおどおどしながらでも、「男に生まれて女ではない」と「言い間違え」続けることは、生まれて以来ずっと、男に生まれてきたことを否定されてきた小豆の「それでもぼくは男だ」という必死の抵抗に思われてなりません。
しかもおそらく、長じるにつれて、自分の石頭(段小楼の幼名)への憧れが「どうも恋らしい」と気がつきはじめ、自分はいったい男なのか女なのか、と自問自答した結果が、「それでもやはり、ぼくは男だ」だったのではないかと思うのです。
・◇・◇・◇・
ところで、この映画について深く考えていると、「程蝶衣の性自認や性的指向はどんなだったのか」という問いにぶつからざるをえません。でも、考えてもよくわかりませんでした。
高い声を維持するために宦官にされていたのではないか、ということは、誰しもまっさきに考えることと思います。
だけど、体に手を加えていないことは確かです。
引退した宦官の張翁のところに送り込まれとき、小豆は緊張のせいか、「おしっこをしたい」と頼みます。それに対して張翁はうれしそうに水晶のうつわを差し出してこれに用を足すよう命じます……張翁の目の前で。
うわっ、なにこれ変態趣味すぎる……と、どん引きするシーンです。だけど、ここで小豆が立ったまま用を足していることが暗示され、まあ、そのおかげで、小豆の体は男のままだ、ということがわかるんですけどね……。
それと、蝶衣の小楼への思いは恋、しかもできたら体でふれあいたいと願っている、ということが示されるシーンもあります。
まだ、小楼が菊仙とねんごろになる前のことです。
ふたりがそれぞれ鏡台にむかって隈取をしていたのか落としていたのかは忘れましたが、小楼が会話の中で「大事なのは腹だ。そこさえしっかりしていれば声が出せる」というようなことを言ったのに対し、蝶衣が後ろからそっと「ここ?」と両手で小楼のウエストの辺りをおさえます。
蝶衣の示したためらいに対し、小楼は彼の気持ちをはぐらかすかのように巫山戯て返します。蝶衣の好意を、あくまで兄弟弟子どうしの絆、という範囲にとどめておきたい小楼の気持ちも垣間見えるシーンです。
いやとにかく、蝶衣が人生でいちばん幸せそうに見えるシーンでしてね……
どうしても、思い出し泣きしそうになるんだなぁ……
ほかにも細かく見ていけば手がかりはあるのかもしれません。
でも、ふっと、蝶衣の性別について細かく限定していくことが、バカバカしくなってしまいました。
タイには性別が18種類ある、ということが話題になったときがありましたよね。
だけど蝶衣についてはいっそのこと、
「性別は?」
「蝶衣です」
もうそれでいいじゃないか、と思ったんですよね。
分類は、初対面どうしが知り合うときには重要な手がかりになります。だけどその人自身を深く知るにつれて、いらなくなってくるものです。
どう分類しようが、どう定義づけようが、蝶衣は蝶衣。映画を見る私たちも、ありのままの蝶衣を受け止めれば、それでいいんだと思います。
・◇・◇・◇・
さて、話を「男に生まれて女ではない」に戻します。
どんなに師匠から折檻されても、小豆は「女に生まれて男ではない」と言いませんでした。
しかも、こともあろうに、張翁の屋敷で京劇を演じる役者を物色しにやってきた那某(姓は覚えているけど名は忘れてしまった……)に「思凡」を演ずるように言われてもなお、「男に生まれて女ではない」と言い間違える小豆……当然、那某は不興の色をあらわにします。
さすがに見かねて、石頭が小豆を折檻します。師匠の煙管を小豆の口の中に突っ込んで、掻き回し、滅多突きしたのです。
……うぅぅ……ここ、完全にSMです……体罰なのに、やけにエロティックです。
でも、これにより、小豆の中でなにかが切り替わります。
やおら立ち上がって、唇の端から血を流したまま、「女に生まれて男ではない」と、さっきとはうってかわった堂々たる態度で、表情豊かに演じます。
ずーっと。
小豆のなかでなにがどうなってこうなったのか、全く理解できませんでした。
エルサのように、蝶衣も「ありのままで」いられることを望み、求めていたことまでは推察できたのですが……。
でもどうして突然「女に生まれて男ではない」と言葉をひるがえす気持ちになったのか?
それについては、エルサが自分の能力を「隠し通すのよ」と歌っていたことがヒントになって、いろいろと見えてきました。
最終的に蝶衣が死を選んだ理由さえも、このひと言で解けたと思います……今これを書きながら、いろんなことが見えてきている際中です。
「男に生まれて女ではない」
この言葉に込められていた小豆の思いは、
「ぼくは男だ。けど、あなたを好きになっていいですか?」
だと思うのです。
だけど、折檻という形で、「ありのままで」あることを石頭から否定されてしまった。
だから、
「ぼくは男だ。だからせめて、
舞台の上では女になって、あなたを好きなままでいていいですか?」
に変えざるをえなかった。
それが、「女に生まれて男ではない」に込められた意味だと思うのです。
結局、この迫真の演技が那某のめがねにかない、小豆と石頭は張翁の屋敷で虞姫と項羽として「覇王別姫」を演ずることになりました。
張翁は小豆を気に入り、寝所に呼び寄せて手籠めにします。
目の前で用を足させたのも、この場面での出来事です。
またしても小豆は、男であることを否定されたのです。
それだけでなく、石頭に対する淡い思いを真っ直ぐに保ち続けることも。
張翁の屋敷からの帰途、小豆は捨て子を見つけます。
走り寄り、抱き上げる小豆に、師匠はかかわらないよう声をかけます。
ですが、結局、小豆は赤子をつれ帰り、これが後の小四となります。
小豆が捨て子を拾ったことを、「小豆は身も心も女になったから」と解釈する感想をネット上で見ました。
ですが、これに対しては、五百蔵は真っ向から異を唱えたい。
小豆が拾い上げたのは、周囲から寄ってたかってボロボロにされ、捨てられた「自分」です。
「男に生まれて女ではない」ありのままの小豆です。
小豆は、だれもかえりみてくれない本当の自分を、赤子を通じて拾い上げ、抱き締めて、愛してあげたのです。
そういえば、そもそも小豆の京劇人生の出発点は、母親に捨てられたことでした。
6本あった指も、観客が気味悪がるから、と包丁で断ち切り落され、無かったことにされました。
そのうえさらに、大人の都合で石頭から引き裂かれ、虞姫はたんなる慰み物であることを張翁によって体に刻みつけられた。
そんなふうに見捨てられ続けた、そして今後も踏みにじられ続けるであろう、女として(性欲の対象として)扱われる「現し身の自分」と男である「ありのままの自分」を、それでもやはりかけがえないものとして確認し、いつくしむために赤子を拾った。
小豆は、「それでも生きていく」ために赤子を拾った……そう思われてなりません。
性の加害が、いかに被害者の尊厳を踏みにじるものか。
多くの男性にはその感覚は、観念としてしか理解しにくいのではないかと思います。そりゃもう、生まれてきた立場の問題だから、云々したって仕方ないことです。
だからこのエピソードについては、無意識のうちに張翁の側にいる男性よりも、「いつ被害者になるかわからない」という感覚にさらされながら暮らしている女性のほうが、より小豆の内面に寄り添った解釈ができると確信しています。
話しはズレますが、そんなわけもあって、芸術の評論の世界には、もっともっと、女性の日常の感覚が持ち込まれるべきだと五百蔵は思っています。
そのことにより、男性の感覚では見落とされたものに光があたって、ものの見方がより豊かになっていくと思うからです。
女性が新しく見つけた価値により、いままで見向きされなかったものが再発見され、そのことが男性のものの見方を新しくしていく。
そうやって世の中をやわらかく変化させていくのも、悪くはないと思います。
蛇足ですが、性的な被害者となっている男性は、思いのほか多いそうです。だけど、男であるがゆえに、被害を被害として認めてもらえない。泣き寝入りするしかない。
隠し通すしかない。
心身ともに傷ついた小豆に寄り添うことは、男性同士の中にも存在する性の加害と被害の関係をてらしだすことにもつながりそうです。
そういう意味でも「覇王別姫」は、やはり、いま見ておきたい映画だと思います。
・◇・◇・◇・
えーっと……長くなりましたね。
しかも、話がやたらとひろがってます。
もともともっとコンパクトになるだろうと思っていたのですが、甘かったです。書けば書くほど新しく見えてくるものがあって、こうなってしまいました。
次に「思凡」が出てくるのは、映画の大詰め、長い年月を経て程蝶衣と段小楼が再会し、結局、蝶衣は死を選んでしまう、最後の最後のシーンになります。
ということで、続きは次回に!
《140字感想文集》のマガジンもあります。
https://note.mu/beabamboo/m/m22b64482adf9
《ガチで書いている長編記事まとめ》も、よろしかったらご覧ください。
https://note.mu/beabamboo/m/m7f0f18508c2d
自己紹介的なマガジン、《五百蔵のトリセツ》
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