反資本主義という思考犯罪 #1資本主義とは本来的に搾取の社会である
お前も思考犯罪を犯さないか
思考犯罪は『1984』における定義を得て、「反体制的な思考の総体に対する罰」を範疇とするものと理解されよう。
それなら、反資本主義は現代の思考犯罪であろう。グローバル、ワールドワイドな連絡網。それらはビジネスで繋がっている。ブラックマネーもホワイトも一緒くた。そこに標準をおいて、それでそこを「理想」として、だから反社会的であることがそのまま脱落を意味する社会を構築してしまった、そんな我々はこの事態を悲観すればいいのか、また逆の態度で接すればいいのか、そんなことも決められない。私が決めてあげよう。
注意として言っておきますが、これは全体主義的に鵜呑みにされることを望んだ文章ではありません。そんなカリスマ性私にはありませんし、勿体ないくらいです。とにかく早まることだけはないように。
反資本主義≠社会主義万歳
よく考えてほしい。仮に資本主義を否定したとしても、それが直接社会主義の礼賛に繋がるかどうかということを。
そうだ、ジェンダーを例にとろう。ここでは一切の批判を恐れず一刀両断にしてしまおう。「あなたは男ですか?女ですか?」
このように問うことすらなんだか居心地が悪いのは現代病ではないかしら。ところで私は男です、女ではありません。男であるのだから女ではないし、女ではないから、男ではあります。
しかしジェンダーは(少なくとも私にとっては)厄介なところがあります。「男ではない」ということが直ちに「女である」ことを意味しないのです。それはトランスジェンダーであったり、バイセクシャルだったり、クエスチョニングですらあります。
反資本主義の目的
だから反資本主義の話に戻してみる。
反資本主義は「資本主義の否定」であり、それは「資本主義の批判的吟味」であることを意味する。
これはちょうど木田元氏が『反哲学史』という著書の中で、哲学に対する、デリダにおける「哲学の解体」と示した具合の意味を持っているものと同等のものだ。
つまり内面に深く立ち入る、ということをする、という一見見当違いな方向に進んでいくのが「反資本主義」という言葉の意味だ。
アレ?いつの間にか壮大になってしまった……
反資本主義の展開
何度も言うが私は一介のしがない学生であるだけの、自意識が肥大した、現代病を抱えた、その他諸々の悪条件とレッテルが引っ付いた、ただの人間だ。なんの専門家でもない。考えることだけが取り柄の哲学者の端くれに混ぜてほしいと心から願っている変人だ。それでいい。いいだろ?それでは。
反資本主義というのは「資本主義ってこういうものだけどもっと良い方法ないのかな」ということに照準を当てた議論である。
それではそもそも資本主義とは何か。Wikipediaによれば「国政より営利目的の個人的所有者らにより貿易や産業が制御されている」経済体制を指す、とのことである。もっとミクロには「資本階級と労働階級が分離し、資本と労働力をトレードすることを取り決めた世界」というのが定義として当てはまるだろう(マクロ的な視点であるともいえる)。
こうした中で私を含め多くの一般社会人は職に就いている。アルバイトであれ、パートであれ、派遣であれ、正社員であれ、皆営利団体の犬になっているのだ。自由資本主義は、しかし残念ながらそういった全体主義性を払拭しえない。つまり「皆はまずもって金を得るために生きよ」というイデオロギーが世界を席巻していることは疑いえない。
自由資本主義とは従って巧妙に見せかけられた全体主義なのだろう。
プリミティブな世界の秩序とは
私は哲学的に考える際によく「それがプリミティブな世界においての現象であればどう考えられたことか」という思考をする。
例えば現在の議題に即して言うのであれば、「資本主義という体系はいかにしてプリミティブな世界に登場し、それがどういう判断を受けるのだろうか」といった具合だ。
そしていつも農耕時代に思いをはせる。その頃は一頻りの飢餓をやっとのことで脱出し、ある社会の中で生きる人々がいる世界になるのだ。時に戦争をするが、それは生き残るための本能なのだろう。
そういった中で、それでは何が人を生かしているのか、ということをよく問うことがある。現代では「スマホがないと生きていけない」とかいうことをよく耳にするが、それはある意味では正しいのだが、しかしもっとプリミティブに考える人間にとっては浅はかさである。
そしてその答えは衣食住であり、人間の三大欲求の充足である。
しかし階級が生まれる
三大欲求を満たせば人は勝手に社会的欲求を抱き、誰かに好かれようとする。繁殖をして、そして連綿とした歴史が紡がれていく。
その中で生産階級がまず生じるのは容易い議論だろう。もし人間が「死を恐れ、生に貪欲な生き物」であると仮定すれば、であるのだが。
生産階級はまだ指導階級が存在しなくとも天候などの支配の及ばない要因によってその成果が左右されてしまう。地域によって作物の多寡が生じる。物々交換が原初の取引であるのは、こういった天候条件などに左右される収穫高、という要因があるからだろう。
すると生産階級に対し、指導階級が姿を見せる。A地区にB地区の作付けや収穫のノウハウが伝播する。B地区はA地区に対するコンサルを行う指導階級になるのだ。
こうなるともう物々交換だけではない、年貢のような形で一方的に納める租税の概念が導入されるだろう。そうしてB地区は生産的余剰を生かし、次々に知識や技術を発展させることが可能になる。
格差というものはこんな具合にとてもプリミティブな形で生まれて来るものなのだ。それが現代的な悪夢に支配されていないとは、私は言い切れないと思う。というのが現代的な考え方なのかもしれない。
生産革命
すると中世の時代を経て人間本位の近代がやってくる。自由意志が保証されるに至って、個人的な所産がその人の価値を決めてしまう。
職業というものもかなり細分化され、皆が生産階級であった時代から、現代における産業の三段階を形成するに至る。加工、サービスなど生産ありきの産業が肥大するのだ。この頃ですらもう金銭取引が台頭している。「金と交換可能である」ことを証明した兌換紙幣の発行。「成果」を「価値」で奪い取ることが可能になる。資本主義の成立はもう少し後なのだろうが、そういう形で、資本主義とは本来的に労働の搾取である、ことはそれ以前に萌芽がみられるものであり、それゆえ原初的な、人間の根源的な制度なのであるだろう。
資本主義とは本来的に搾取の社会である
従って言えば、資本主義と搾取とは不可分な要素である。
それがいいのか悪いのかは歴史家が決めればいいのだが、しかしそれを打倒しようとした社会主義の登場、という背景も加味して、完全な社会システムである、とは言えないのだろう。
はっきり言えるのは資本主義とは本来的に搾取の社会であるということである
次回予告
次回はもう少し現代的なところを話してみたいと思うし、不穏な導入をした産業構造についてもう少し話そうと思う。
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