『1984』への憧憬―思考犯罪(crimethink)— #1:『1984』の要諦
『1984』の要諦
『1984』の要諦は、全体主義性を「全体主義」という言葉を使わずに表現するオーウェルの舞台装置になるだろう。
①:ニュースピーク
第一にニュースピークというものの存在、あるいはそれへの単系進化及び旧言語の排除である。
日常言語の転換という事態は、いきなり自分たちの道具であった言語が何の効力も持たなくなる(共同体内での共有コミュニケーションを排斥しえない、僅かに残された段階ではまだそういった効力は残るだろうが―その代表例が本作の主人公スミスとヒロインのジュリアなのだろう―)ということだ。
異国文化に触れている人ならだれでも想像に難くないだろうが、これは結構厄介なことだろう。
私たちの共通理解が新たな概念に、それもクレオールとしての使用を求められるレベルから置き換わるというのはどんな事態だか想像もつかない。
後述することになろうが、このニュースピークによる支配体制はイングソック(ingsoc/イングソック/英国社会主義)の思想と表裏一体になっている。簡単に言えば人々は「自発的に」党のイデオロギーを口にしながら行動しなければならない。
その例外が「死」としての思考犯罪である。
こうした「死」が全体主義を強化していること、いや徹底付けさせていることは言うまでもない。上の引用はスミスが「日記をつける」という行為の後に思い立った思考である。
歴史は真理省と共にあり、しかし真理省が歴史であり、いや、ビッグブラザーが歴史なのだ。
②:Ingsoc/イングソック/英国社会主義
イングソックとは英国社会主義と訳せるイデオロギーである。しかしそれだけでは何も説明していないのと同じである。
もちろんこれもニュースピークの一環で生まれた言葉なのだが、そこにも「思考排除」の向きがみられる。
ニュースピークにより明確に意味を定義(排除)された言葉は、「ほとんど何も考えずに口にできる語(同ページより)」であるとされている。
すなわち「イングソック」という言葉によって、歴史の改ざんや、党による汚職や、その他諸々の嫌悪感や転覆感情、反感を抱くよりはむしろ、無思考の内に溶けだして消えてしまう「イングソック」という語の響きだけが残ればよく、それが正統であることだけが理解されることを望むのだ。
イングソックによって「整頓」された世界には「正統」しか残らないのである。つまるところの全体主義の完成だ。
③:doublethink/ダブルシンク/二重思考
私は人が死ぬことを信じている。また人は死なないで生き延びることも知っている。昨今の紛争でたくさん死んでいることも知っている。だから人は死ぬ。いやしかし戦争遺族の中には生きている。生きてもいるし死んでもいる。いやそんなことはどうでもいいのだ。私が生きている。死んだかもしれない。そういえば今日の夕刊で戦争被害者の八割が存命であることが分かった。ああ、あいつも生きているのかよかった。
簡単なデモンストレーションだ。まずテーゼ/アンチテーゼが存在し、鬩ぎあう。そしてその二つを信じることが(或いは疑うことが)、できる。ジンテーゼではない。テーゼをいったん超えるのだ。スーペル(super)・テーゼである。そしてまた日常思考に戻る。
ポッと音を立てて記憶の芥が舞い上がる。確かに夕刊では生存者を報告している。スーペル・テーゼは今一度忘却の彼方。アンチノミーを克服したテーゼだけが真理として残ってしまう。このテーゼの超越性ともいうべきものが個人の記憶を塗り替えていく。それがイングソックの正統を外れない範囲でなされることは言うまでもない。
④:crimethink/クライムシンク/思考犯罪
思考犯罪とは、簡単な話「反社会的」思想のことだ。特に『1984』においては「正統」である「党」に対するいかなる反感、反発、「真理」への抵抗とー一般的意味におけるー真理の強調など、その罪状は多岐にわたる。
スミスはこの思考犯罪を犯しかねない行為をすることがあった。それは自由市で置かれていたクリーム色のノートに日記を書きつけるというものだった。半分書き方を忘れたスミスの文章は次のようだ
これがピリオド(句点)を欠いた文章であることを除けば、いたって平凡な「1984年」の「4月4日」の「映画の感想」である。ピリオドを意図的に省いたのはオーウェルの意図であって、口述筆記(speakwrite/スピークライト)で仕事をこなすスミスにとってもはや手記など必要でもなければ、忘れていたも同然なのだ。
これと思考犯罪がどう絡むのか。答えは彼の思想にある。
彼は「希望があるとするなら――それはプロールたちのなかにある」という信条を持っていた。これは簡単に説明すれば、無産市民階級であるプロールー彼らには生活と少しの餌(ポルノ)を与えさえすれば済むーは監視の対象外なのだ。つまり合法的に脱法行為を行えるのだ。そんな階級が反旗を翻すだけの頭脳を持っていれば……、というのがスミスの希望的観測であった。国家転覆は日本ですら重罪であるのに、況やをやである。
こうした反正統的思考はすべて思考犯罪であり、それを取り締まるのが思考警察であり、発見するのはテレスクリーンだった。
⑤:telescreen/テレスクリーンと
thinkpol/シンクポル/思考警察
テレスクリーンは送受信のできる監視カメラのような媒体で、各党員の部屋、ホールなどー人々の生活空間のいたるところーに設置されていた。
あの巨大監視システムのパノプティコンが連想されるのはほかでもない「もちろん、いつ見られているのか、いないのかを知る術はない」という特性にあるのだろう。そうした監視システムに「思考警察(thinkpol/シンクポル)」が接続し、やはりパノプティコンに似た監視体系を作り上げる。
人々の思考は、日々の監視によって、その表情や行為、つまり言動の把捉によって推し量られ、もしそれが思考犯罪であったときは「決まって夜」に思考犯罪者は姿を消す。
思考犯罪者のその後を知る者は『羅生門』の終幕と同じ彩度を備えている。
要諦
つまり『1984』のオーウェリッシュ(Orwellish/「オーウェル的な」ーディストピアにおけるオーウェルらしい閉塞感を示すような言葉-)な部分は上にあげた少なくとも五つの要素からなる「全体主義」のイデオロギー化にあるのだろう。イデオロギーとはある思想のことで、それが生活の内になんの特殊性、非日常性を持たずに染みついた「思考の傾向」のようなものであり、その無化のことであるーその点これは二重思考にも似ている素養を必要とするだろうー。
またそれの完成度が高いことは、彼が作中でできるだけ「全体主義」という言葉を使わなかったことがあげられる。スミス自身はどこかに「党による支配への疑義」は抱いたが、それが「全体主義」というイデオロギーに裏付けられているという洞察にまでは至っていないように思う。すなわちー二重思考的にー「支配されている」と感じながら「支配など受けていない」とする精神的態度がこの作品のディストピアにおける閉塞感を演出ーいやむしろ完璧な支配世界を創造ーしているのだろう。
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