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連載 第十二回:死なないで÷死んでもいい

最果タヒ『MANGA ÷ POEM』
Text:Tahi Saihate / Illustration:Haruna Kawai

ビームスが発行する文芸カルチャー誌 IN THE CITY でも大好評だった詩人・最果タヒの新連載が登場。好きな「漫画」を、詩人の言葉で見渡すエッセイ


 全く関係のない誰かが死んだというニュースに苦しさを感じるのはどうしてなのか、遠く離れた国で死ぬ人たちのことを考えずにはいられないのはどうしてなのか、それが善意や優しさからくるものなら単純で、整理もつくけど多分それだけではないのだ。どんな死も、起こらないなら起こらない方がいい。それでも必ず人は死ぬから(そしてそこをもう受け入れてないわけではないから)、死ぬから、ただ、だから慣れよう、というふうに考えられないだけだ。慣れることはとてもおそろしい、それはそのこと自体が悲しくて、慣れるようなことじゃないから、というのもあるけれど、慣れることで、自分や自分にとって大切な人の死も、「仕方のないこと」の箱に入ることが耐えられないのだと思う。自分にとって特別な人が他の誰かにとっては「よく知らない誰か」であり、「人は死ぬものだから仕方がないね」といわれるのが耐えられない。だから、誰もが死ぬということにいつまでも慣れたくないと思う。苦しいしそこを冷静に受け止める私になりたくない、誰にもそこで冷静になってほしくないからだ。
 自分は多分全ての人の命を平等には思えておらず、絶対に死んでほしくない人というのが何人かいるということなのだろう。「誰も死なないでほしい」と願っているし、「誰もが死ぬなんて、わかっているけれど苦しいし言ってほしくない」と思っているが、それは本当の意味で「すべての人の死が平等に辛い」ということではなく、誰もが死ぬんだと諦めることで、自分にとって特別な誰かの死が、「すべての人の死」に取り込まれてフラットに平されていくことが耐えられないだけなのだ。決して、特別でない他のみんなはどうでもいいということでもなく、「みんな死なない方がいい」、というのは本当。事実としてみんないつか必ず死ぬけど、どの死も恐ろしく悲しく、惜しむべきもので、慣れなくていいもので、いつまでも拒んでいたいもので、しかたのないものなどないのだとすべての人に信じてほしいと願っている。それは冷静ではないとは思うけれど、冷静であることが必要だとまだ思えない。けれどこうやって考えるとき、すべての人の死を悼むとき、その根拠としてあるのは「どこか遠くの知らない誰か」への愛ではなく、わずかな「あの人」たちへの愛であって、少しそこに気まずさがある。でも本当にそれは、身勝手なことなのだろうか。

 特別な誰かが死ぬぐらいなら、それ以外の人すべてが死ぬことを願う、みたいな、そんなギリギリの状況が本当に起こるとは信じていない。誰かを愛することはそれ以外の人を見捨てることだ、というのは理屈としてはわかるし、そう思いたくなるような刹那的な愛はあるが、でも、結果的に愛した人以外の人を「(あの人に比べたら)どうでもいい」と思うことになるのと、能動的にそう断言していくことは違う。愛は偏っているし、身勝手で、愛する人以外を見捨てる理由にももちろんなりうる、でも、「結果的にはそうとも言える」ぐらいの状況でできたらずっといたいのだ、このスイッチを押すことで大切な人だけが生きてみんなは死ぬ、みたいな状況には立ちたくない。押したくない。それは愛が未熟だからとかではなく、覚悟が足りないからとかではなくて、人が死ぬことそれ自体が嫌だと思う気持ちは、人を特別に思うことと裏表ではないから。全ての人の命を思いやることの根っこには、誰かを特別に思うことがイコールで繋がっている。「あなたが特別で、あなたを死なせたくないし世界にもそう思ってほしい」と思うからこそ、「人の死」そのものを恐ろしいと思う、すべての人の死を苦しいと思う感覚が育っていく。誰も死なない方がいい、すべての人が死ななければいい、死ぬことがあるのはわかっている、でも冷静にはなりたくない。死は必ず起きることで、避けようのないことで、でもだからこそ、すべての人に私の特別な人の死が「仕方がないこと」と言われたくない。だから私もいつのまにか、すべての人の死を恐れて生きていたのだ。大切な人の命を思うほどに、「すべての人の命」は重くなり、どちらかのためにどちらかを捨てる、なんていうのは自然な選択にいつまでたってもならなかった。いつまでも私の中で、筋が通ることがない。

 そうやって他者の命を思えば思うほど、世界中の人々の命を思えば思うほど、そのどちらにも属さない「自分」の命だけが現実に取り残されてしまうのかもしれない。自分がいつか死ぬ、ということだけはどこかで受け入れてしまっているのはどうしてだろう。今すぐに死ぬとは思わなくても、他人のことのように永遠を願うことはない。自分の死だけがリアルで、等身大のまま心にあり続けてしまうのだ。『X』は世界の運命を背負った人々が、天の龍と地の龍に分かれて戦う物語。彼らは互いを殺し合うし、そして自分の敗北によって多くの人が死ぬのも目の当たりにする。彼らには「大切な人」がいて、その人と自分の命や、世界の運命を天秤にかけなければならない瞬間も訪れる。それこそ、愛した人のために世界を滅ぼしてもいいのか、という問いさえ、彼らの前には現実の問題として現れる。
 好きな人がいて、その人が好きだから、その人だけが生きてくれたらいい、と思えるわけではないこと。むしろ、無数の命を尊く思うのも、大切な人がいるからこそで、個人としての願いが強まれば強まるほど、片方を選べば失われるかもしれないもう片方への愛着も強まっていく。彼らはそんなとき簡単にどちらかを軽視するというより、むしろどちらでもない「自分自身の死」について願い、考え始めていく。「誰のために死にたいか」「誰のために殺されたいか」。大切な人の命も、世界そのものに感じる尊さも重くなっていく中で、「自分の命」だけがいつまでも死を拒まず、現実の問題として死を見つめ続けるからこそ、彼らの選択は自然とそこに集約されていくのかもしれない。『X』は世界の終末を描く物語であるけれど、登場する人々の「自らの死に場所に対する願い」こそが軸となり、彼らが夢見る「自分の死」によって世界の終わりを描いているのです。

 多くの人が死んでいく作品だ。自分の死について「こうでありたい」と語られるし、「あの人に殺されたい」という言葉も登場する。けれど、命を軽く見ている、命を簡単に捨てる、というのとはむしろ逆でこの物語の中にあるのは、そこで語られない「大切な誰かの死」「すべての人の死」への決して冷静とは言えない、感傷的なとてつもなく重い反発だった。彼らが自分の死に躊躇がなくなるのは、彼らの中で、他者の命があまりにも重くなりすぎた結果にすぎない。むしろずっと、彼らは「死にたくなかった」と思うのです。私が普通に暮らして生きて、ずっと死なずにずっとこんな日が続いてほしいなと思うより、重く、死にたくないと願っていたと感じるのです。私は、自分が死ななければ救えない命があるという状況を知らない、誰かには必ず殺されるだろうと予感する状況を知らない。でも、彼らが見ている「自らの死」への夢に触れることで、彼らが見ていた「他者の命」のきらめきとすれ違えた気がする。世界を背負いながら、「世界」だけを見ているというより、彼らはずっと個人的な愛を見据えていて、誰かのことを思って生きている「私」の延長線上にいる。そしてその果てで、自分の死と向き合っているんだ。だからこそ、私は彼らの分も、彼らの死を惜しむ。死なないでほしかったと思うたび、この作品は「他者の命」そのものとして私の中できらめいていく。

・X(CLAMP・著)
https://www.kadokawa.co.jp/product/199999924306/



最果タヒ
さいはてたひ。詩人。
詩やエッセイや小説を書いています。
はじめて買ってもらった漫画は『らんま1/2』。
はじめて自分で買った漫画は『トーマの心臓』。

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