連載 第二十二回:私÷「青春」
最果タヒ『MANGA ÷ POEM』
Text:Tahi Saihate / Illustration:Haruna Kawai
ビームスが発行する文芸カルチャー誌 IN THE CITY でも大好評だった詩人・最果タヒの新連載が登場。好きな「漫画」を、詩人の言葉で見渡すエッセイ
たとえば青春を描いている物語を読むときの、自分は絶対に主役にはなれなかった人だ、とか、その世界観におけるモブでしかなかった、と思うときの息苦しさ。そこに渦巻いているのは物語に描かれている青春ではなくて、自分が叶えられなかった「青春」への憧れと悔いなのだけれど、でも、本当にそうなりたかったのか、それとも他人が決めた「青春」の価値に飲まれているだけなのか、考えれば当たり前に後者だなぁとわかってはいるのだ。屋上で友達と一緒にパピコを分け合うとか、夏祭りに浴衣を着て行くとか、部活の帰りにラーメンを食べるとか、そういうのって、別にやりたいことではなかった、パピコはそんな好きではないし、夏祭りは人混みが嫌で、ラーメンは一人で食べに行ったほうが楽。それでもそれをできなかった自分、というものを考えてしまう。自分にあったはずの「青春」を、自分の準備の不十分さで取り逃がした、と考えてしまう。だから、そういう青春の気配がする物語を読む時、自分はそちらには行けなかったのだといたたまれなくなっていた。
欲しくもなかったはずのものが、なぜか欲しかった気がする。これこそが「ノスタルジー」の正体のようにも思う。別に自分の思い出でもないのに、固められた「あるはずだった美しい風景」を幻視して、うっとりする時間がこの人生には長すぎるんだ。みんな本当はそれぞれに違う青春を生きている。その頃を思い出したいと思っている人も多くいる。だからそれぞれの違いをできるだけならして、平均化した、誰もがどこかで「知っている」と錯覚するような青春らしい風景が、きっとフィクションでは多く用いられる。それらは最初自分の過去を想起するはずのものだったのに、繰り返し目にするうちにそのフィクションの「青春」こそが答えのような気がして、描かれているものや平均化されたイメージにダイレクトに憧れた。そうではなかった現実が、誤りだったような錯覚が生まれていったんだ。
フィクションの青春が問題なのではなく、たぶん、10代の頃、私は私がなりたい「私」というものがかなり曖昧で、それこそ青春をどうしたいかなんて考えられてなかったのが主な原因なのだと思う。理想もないまま、ただそのころの時間を使い果たしてしまった。だから、既存の「青春」に負けてしまいそうになるのだ。自分のオリジナルの「青春」をはっきりと見定めていなかったから。(ただそれは私が青春を無駄にしたということではなくて、当時私はとにかく大量に文章を書いていた。無根拠に自分を信じてもいた。けれどそのへんのことは私にとってあまりにも普通のことで、すこしも「青春」というイベントではなかった。今はそれこそが私の当時の眩しさだと思うし、青春と言えると思うが、それは時間が経ったからこそわかるもの。あの頃は自分にはろくな「青春」はない、と思えてならなかった。)
自分は普通の日々しか生きてなかった、という劣等感ばかり抱いて、その記憶がずっと「青春」作品へのコンプレックスを生み出している。主役でないこと、モブであることを想像する。別に主役にはなりたくないし、モブの方がいいじゃん、隠れて好きなことやろうぜ、と思えばいいのに(というか私はそっちのが向いてる)、なかなかその発想に至らずにいたなー。なんてことを、少しもそういうコンプレックスが刺激されない『映像研には手を出すな!』を読んで思っていた。
この作品の場合、青春が楽しいのではなくて、彼女たちの生きている世界がそもそも面白いのだ(途中で出てくる大人が退屈な人間たちでびっくりした)(というよりも今の現実世界だって面白いはずで、しかし生きようによってはそうなってしまうのだ、ということかもしれない)。この「世界」のおもしろさは、そこにある近未来的な設定のおかしみもあるが、それよりは全てが「見る人のために平均化されていない」という点にこそあるように思う。青春という幻に対して憧れや悔いが残る時、そこにある幻は自分が欲していたものではなく、集合知が作り出した平均値の「青春」であり、だれもそれを経験したことがないのに、すぐそばで多くの人が経験した「あるある」の記憶であるように錯覚される。そうした青春に具体的に出会うのはたいていがフィクションで、そしてフィクションがそうした幻を取り上げるのはそれが読む人見る人の心に一番効果的に届く「青春」だからだ。胃でよく溶けるように作られた錠剤のようなもの。それは確かに意味があるし、人のノスタルジーのスイッチを押す。読まれるため、見られるために平均化された青春があり、それは「物語の世界に引き込むため」の技術でもあるんだろう。これはもちろん青春だけでなく、恋愛とか友情とかそれから「世界」そのものにも起きていること。物語のために平均化され、消化されやすく作られた「世界」は、飲み込みやすいが、時に単純にもなってしまう。
『映像研には手を出すな!』ではこうした平均化がほとんど行われていないように思う。青春にはもちろん、世界そのものにも。俯瞰から大きく世界を見せてくれているようで、実は一歩先さえわかっていなかったと、何度も気づかせてくれる。現実ならそれは当たり前のことだけど、この物語の世界にもそれがそのまま引き継がれ、それこそがワクワクになっているのが、私にはとても幸福な体験に感じられる。それでいて現実とは異なり、「私が何を目指すか」「私が何を今行っているか」が主役を追う限り明瞭であり続け、それが、世界の複雑さへの恐れを減らしてくれる。
物語の世界で、「世界」や「青春」にわかりやすさや平均化を期待してしまうのは、現実にはそんな親切設計は一切なく、そしてそこを真っ直ぐに貫くように、曖昧さを恐れなくていいほどに人は強く生きられないからだ。必死で前の障害に向き合い、進もうとする時でさえ、自分が今何を目指しているのか、曖昧になってしまうことは多い。人はただ一つの目標だけを見て生きることはできないし、考えなければならないことは日に日に増えて、熱量が全てではないことを知っている。自分自身が、人生を曖昧にしているとわかっているんだ。だから、世界や青春が単純化されていくフィクションに「生きやすさ」を感じ、憧れる。曖昧な自分のままで、生きていける心地よさを感じるから。でも、そんなものがなくても、世界が複雑で、少しもわかりやすい作りをしていなくても、その中で真っ直ぐに生きれば、その世界の複雑さも青春の混沌も面白さになっていく。『映像研には手を出すな!』の浅草さんを見ていれば、読者は、「自分の選択と目的」を見誤らないで済む。本当は平均化されない世界も、「楽しく」なるのだ、そして本当は人はそうやって生きたいのだ。世界や青春を単純にして住み良くするのではなくて、複雑な世界がそのまま面白くなるほどに、自分をまっすぐにしてみたいのだ。
そういう意味で、『映像研には手を出すな!』はとてもリアルな作品だなぁと思う。全く現実世界とは異なるのに、「生き方」の理想があまりにも現実のためのもので、一人の人の背中を見るように、リアルな憧れをキャラクターに抱くことができている。
(この原稿は『映像研には手を出すな!』7巻までの内容をもとに執筆されています。ちょうど8巻に青春についてのエピソードが多くあり、描き方がとても面白かったのでおすすめです。)
・『映像研には手を出すな!』(大童澄瞳・著)
https://bigcomicbros.net/work/6227/