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連載 第二十回:天才÷読者

最果タヒ『MANGA ÷ POEM』
Text:Tahi Saihate / Illustration:Haruna Kawai

ビームスが発行する文芸カルチャー誌 IN THE CITY でも大好評だった詩人・最果タヒの新連載が登場。好きな「漫画」を、詩人の言葉で見渡すエッセイ


 人は天才や才能の物語が好きで、それはそう捉えることでそのキャラクターが一気に「非現実的」に見えるから、その存在が「消費」に耐えうる強度を持つからで、物語を見つめる側の「傲慢」な視線を、思う存分浴びせられるから、なのかなぁとたまに思う。才能や天才とされる存在に対して人は畏怖するけれど、それでも本当は、近くに生きている友人や家族より、ずっと遠慮なく、土足で踏み込める相手だと思ってしまっているのかも。会ったこともない才能ある人に対して、「あいつは挫折を知った方がいい」とか「やっぱり天才は性格が悪くないとね!」とか「夭折の天才ってかっこいい」とか言っているのを見ると、才能を認めるというのはその人への「尊重」を放棄する理由になることもあるんだな、とたまに考えてしまうのです。

 キャラクターを見る、というのは、普通の人には望めないほどの内面の吐露を望むことで、どうしてもそこには生々しい期待がある。実在の「天才」に対しても、キャラクター扱いをして消費のようにその人を語ることが人間にはあるけれど、物語ではそうした「天才」に負わせているロマンチシズムに遠慮がなくなり、その根っこにあるエゴからして肯定されているように私は感じる。(それは物語が可能にする「夢」の一つだとも思う)。天才は人としてのネジが外れたように描かれることが多く、自分の才能が発揮されるジャンルをとても愛していたりむしろとても憎んでいたり。何よりそこへの執着が異常で、自覚的または無自覚に、人生を犠牲にしている。「才能」はある種のファンタジーで、ドラマチックであるからこそ、その持ち主は、「人間らしさ」を纏う必然がなくなり、突飛なキャラクターや極端な人生を突き進む姿を描きやすく、それこそがスター性としての演出になるのかもしれない。人の娯楽になっていく。天才は破滅することを期待される、天才は才能以外が何もないことを期待される、普遍的な人生を歩んだらつまらないと落胆される、天才は見せ物であるし、才能を持つ人間に対して、人は「破滅」「犠牲」「極端」をつい願ってしまう。そのほうがおもしろいからだ。

 人をスターだと思って持て囃す楽しさは、いつだって無責任なものだ。人間を自分と切り離して別の生き物のように語り、賛美する突き抜けた心地よさがひそかに眠っていて、物語はそれを解放してくれる。でも、そこにあるのは、「人生」というよくわからないものを抱えて生きている人間にとって避けられない欲求であるようにも思う。人は生まれてきた理由がわからないまま生きる。というか、生まれてきた理由などない。ゴールがわからないからこそ、できるだけ苦しみから逃れたいと願うことが「人生の望み」になりがちで、多種多様あるはずの幸福のイメージはそうやって平均的にならされていく。何かを手に入れたいと思うより、傷つきたくないと考えるようになる。自分が望むもの、自分にとっての幸福が偏ったある一点にあるのならば、それだけを目指して走り抜け、いくらでも、傷だらけになるのに。それが、「生きる」ことであるはずなのに。「生きる」上で避けようのない苦しみ、突然やってくる理不尽さの全てが怖くて、そこから身を守ることだけが自分の人生なのかもしれない、と体をこわばらせて思うとき、人は「傷つくことに躊躇しない人間」の真っ直ぐに何かを見据えている姿に憧れる。彼らの方が傷だらけになる。時には全てを失う。失敗する。破滅する。でもその人生に憧れる。本当は「天才」を見せ物にしているのではなくて、彼らこそが「人生を生きる存在」で、つい、見てしまうのだ。彼らの情熱こそが、本当の「生きる」だとわかるから。それこそが夢だ。破滅を刺激的なエピソードとして楽しみたいのではなく、人は「同じく生きる人間として」破滅に憧れている。真っ直ぐに目の前に光が見えたら、破滅さえも恐れない何かに向かって自分も走れるはずだ。成功そのものというよりも「破滅を恐れない」ことにこそ人は天才のきらめきを感じるのかもしれない。自分の人生に見え隠れする破滅の気配に、恐れずに走り出せたらどれだけ気持ちいいだろう?

 娯楽の飛び道具として刺激的なキャラクターを求め、そして「天才」をもてはやすのではなく、人は最も真っ当に「人間」をやっている存在として天才を見つめている。少なくとも私はそう思っている。まっとうに命を燃やしているのは、何かを確信し進むべき道がわかっている人間だけ。実際に生きる他者にそんな波瀾万丈の生き方を願うことはできないけど、でも物語の中で、「人生」を100%活かしている、そんな生涯を見せるキャラクターに人は夢を見るのかもしれない。
 漫画『マチネとソワレ』は、そんな人間が勝手に見ている「才能」へのロマンチシズムと期待を、そのまま「才能を持たない人間」にスライドしている作品だ。主人公の誠は役者で、「天才」役者の兄を持つが自身は決して天才ではない。ただ、誠の芝居に対する執着心は異常で、普通ならば天才性の表現として現れるような突飛な芝居へののめり込み方を彼は作中で何度も見せる。役に没入するためならなんだってやる誠は、作品が違えば「天才」と描かれた可能性もあるはずなのに、絶対的な才能は別で描かれ、彼はその言葉を掲げることがない。それなのに、彼は前を見据えている。ある一点だけを見つめ、そこから目を逸らさない。勝利が約束されているわけでもないのに、他の全てが傷だらけになっても構わないとばかりにずっと、目的に向かってだけ走り続けている。それがどれほど異質なことか他の人物によって繰り返し言及される。私はそれを「人の理想だ」と思っていた。命を燃やすように生きる、それは、才能のある人間にだけ許された生き方では、決してないんだ。
 人生は天才たちだけのものではない。とても難しいことだけど、だれでも自分の人生を100%生きることができる、その可能性はちゃんとある。人生はいつだって面白くなり得るものだ。この物語を読むたびにそのことを強烈に考えてしまうんだ。

・『マチネとソワレ』(大須賀めぐみ・著)
https://gekkansunday.net/work/407/


最果タヒ
さいはてたひ。詩人。詩やエッセイや小説を書いています。
はじめて買ってもらった漫画は『らんま1/2』。
はじめて自分で買った漫画は『トーマの心臓』。


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