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連載 第十九回:誠実÷くだらなさ

最果タヒ『MANGA ÷ POEM』
Text:Tahi Saihate / Illustration:Haruna Kawai

ビームスが発行する文芸カルチャー誌 IN THE CITY でも大好評だった詩人・最果タヒの新連載が登場。好きな「漫画」を、詩人の言葉で見渡すエッセイ


 中学時代に友達と掃除の時間にひねくれたことを言っていたら、そこに居合わせたクラスメイトが「そういうことを言ってはいけない」と真剣な目で言った。だれかの悪口というより、多分自虐的な冗談だった。とにかく全てが彼女の言う通りだったので、私はすごく恥ずかしくなって、戸惑いながら笑うしかなかった。全部その通りです、と頷いて真剣な顔で謝ることもできなかった。ただ私は私のことがこの瞬間に本当に嫌になっていて、そして、人間には正しくてまともな人がちゃんといるのだということがその時衝撃的でもあった。誰もがくだらない面を持っていると思っていたのだ、そこに安心し、誰かを攻撃するようなことでなければくだらない態度も許容してダラダラと生きていけばいいと当たり前に思い始めていた私は、自分が完全に堕落していると思えてならなかった。その子は思い返せば、つまらない授業につまらないと言ったりもしないし、おいしくないものを食べてもおいしくないとは言わないし、自虐的なことも言わない。どんな友だちの話にもそうなの?と頷いて聞いて、「それは嘘やろ!?」なんてツッコミもしないし、「ありえーん」とか、そんなことも言わない。全然話したことない子だから、その子が本当に人間だったのかももはや今の私にはわからない。

 ということを『ちびまる子ちゃん』を読むと思い出す。私はこのうち4巻を近所のお姉さんが引っ越す時にくれて、それが最初に読んだ『ちびまる子ちゃん』だった。まる子には好きな友達と、好きじゃないクラスメイトが露骨にいて、誕生日会に来てほしくないのに呼ばなきゃいけない人がいて、本気で嫌がる彼女を見ていると、なんか今では懐かしさで切なくなってしまう。そうだよなぁ、なんであの時「これくらいよくない?」ってあの子に言えなかったんだろうか。よくない、って応えられたとしても、そこから私は「私」としてあの子とちゃんと話すことができたんじゃないだろうか。私はあの日、裁きが下ったような気がしてしまった。正しいことを言われた瞬間黙ってしまった。正しさには反論ができないと思い込んでいた。でも、くだらないことはあっていいのだ、もちろん彼女が正しかったのだけれど、でも限度はあるにせよ、くだらなくてもいい部分はあったはずでそこに確かに私が感じていた「安らぎ」は、多分「裁かれるべきもの」ではなかった。というか、あそこで厳密な公正さを求めてくる彼女もそれなりにくだらなかったのでは? もちろん笑って話させる「くだらなさ」として。でも私はそれをせず、彼女を一人の同世代の女の子としてではなく、「正しさ」の裁判官のように見て、そして指示に従うだけにしてしまった。

 誰のことも苦手だと思わないならこんなこと考えなくていい。そして誰のことも特別に思ったりしないなら、誰かのことも苦手と思わなくなるだろう。誰か特別に好きな人がいてそうでもない人もいて、そしてできたら二人きりにはなりたくない人もいる。それは褒められたことではないからできるだけ誤魔化して、正義に反しないようにふるまっているし、他者を身勝手さで傷つけないように気をつけてはいる。でも、嫌いな人をそれで好きになるわけではない。正義が「どうしても話が合わなくて苦しくなる時間」や「どうしても好きになれなくて頭が痛くなる感じ」を解消してくれるわけではないし、「正しさ」や「公平さ」は周囲の穏やかな時間を壊さないようにするために演じる題目でしかないのだ。まる子は苦手な子たちに笑顔を見せながらも額に縦線が入っている。正しさや公平は嘘になっていく。別に、諦めているわけでも、「正しさ」を軽視しているわけでもないけれど、そんなもんは無理、とどこかで思ってはいるのだ。どんなに襟を正しても「無理」を「無理だけど……でも……」にするしかできない。いえ、そもそも無理ではありませんと断言する人がいたら、それに圧倒され感心はしても、やっぱり私は「いやほんまに?マジで言ってる?」と真っ正面から聞ける人間になりたかったな。あの日の私は自分も彼女みたいな正しい人間になるべきだったのにと己を恥じたけど、自虐なんてやめなさいと言われた方が息が苦しくなったのは確かだった。「いやいやいや、ほんまに?建前やなくてほんまに?」それくらい言える人間であるべきだった。友達をどうして、あの時、増やせなかったんだろう。

 正しさが好きです。人が誰かを特別扱いして、誰かを嫌悪することは、なんて邪悪だろうと思う。世界が滅ぶ時、大切な人間を箱舟に乗せようとする人たちに押しやられるような夢を見る。大半の人にとって「大切な誰か」ではない私。正しさや公平を本気で人が貫くなら、こんなにばらばらに生まれた人々はみんな滅んだ方がましだ。そうやって思い詰める時、正しさは私の味方をしてくれる。でもいつも、それは私にとって都合がいいだけなのだ。人類より正しさが大事なわけがないよ。むしろ全員が嫌いだと叫ぶためだけに正しさは輝いているよ。私が私をギリギリのところで大切にするとき輝いているよ。なんてくだらなくて愛しいんだろう!くだらないことを言ってしまう人たちを正しさで全て貫こうとするのは、それはそれでくだらない。そして愛しい。私たちはあの場で全員揃ってくだらなかった、友達になれたんだな、と今ならわかるよ。

 ちびまる子ちゃんを子供時代に読んだ時は、そんなこと思いもしなかった。好きでもない子がいて当たり前だし、そこに罪悪感もなかった。いらない誕生日プレゼントをもらうまる子に不気味なものをもらって可哀想と思ったが、あの場に描かれている「全然気が合わないクラスメイトに愛想笑いする子供たち」の空気のおかしさは理解できなかった。愛おしいくだらなさを理解するには自分の中に何重にも折り畳んで複雑に絡まった、「建前と本当」が必要なのかもしれない。あの日、彼女に私はなんて答えてどういう会話を続けたのだろう、ショックすぎて完全に忘れてしまっている。私に残ったのは、彼女と本当は友達になれたのかもしれないという今更な予感だけだ。でもそれだけは日に日にみずみずしくなっていく。私は大人になっていっている。

・ちびまる子ちゃん(さくらももこ・著)
https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents_amp.html?isbn=4-08-853472-7



最果タヒ
さいはてたひ。詩人。詩やエッセイや小説を書いています。
はじめて買ってもらった漫画は『らんま1/2』。
はじめて自分で買った漫画は『トーマの心臓』。


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