連載 第十三回:謎の青春÷謎の私
最果タヒ『MANGA ÷ POEM』
Text:Tahi Saihate / Illustration:Haruna Kawai
ビームスが発行する文芸カルチャー誌 IN THE CITY でも大好評だった詩人・最果タヒの新連載が登場。好きな「漫画」を、詩人の言葉で見渡すエッセイ
今の私が「ああそんな高校生だったな」とおもいながら高校生の出てくるフィクションを見ている時、私は「わかる」と思うけど、でも本当にわかっているのかな、当時の私って本当にこんな風だったかなとも考えてしまうこともある。あのころ、自分がフィクションに描かれるようなはっきりとした個を持った「キャラクター」だったのか考え始めると、むしろそんなものを何一つ持っていないと、不安や恐れを抱いていたことを思い出してしまうのだ。作品の中の高校生に出会うたび、彼らを好きになるたび、私は自分がどういう人間なのかわからず、学生らしくはっきりくっきり生きている他の子たちを前に、どうしよう!と焦っていたことが蘇る。私は、登場人物のような言いたいことややりたいことがある人間ではなかった気がする。何かを決めてやってみてもそれが「本当にやりたいこと」ではない気がして、ずっと不安だったはずだ。でも、それは当時の私の自信のなさを通して見た「私」であって、他人から見ればフィクションの中の「彼女たち」に似た主張を私も纏っていたのかもしれない。それくらい、私はあの頃の私のことが当時好きではなかった。そして他人から見れば自分はどんな人間なのか、全く知ろうとしていなかった。今更、『女の園の星』を読んで、私も他人から見ればそれなりに変だったかもしれないと「思い出す」よりリアルに、自分に出会い直している。
自分を空っぽだと思っていたというよりは、自分の中には何かがぎゅうぎゅうに詰まっているのだが、それがなんなのかわからなかったのだ。何をやっても的外れで、言うべきことややるべきことが絶対にどこかにあるのに不発に終わっていると感じていた。やってみようと決めてやってみてることに、周りが「何してんの!?」って笑ってるシーンや「あなたらしいね」と言っているシーンはいくつか覚えているけれど、でも、その「やってみてること」がそこまでやりたかったことなのか当時はわからず、人に何かを言われるたび嘘をついてしまった気がして落ち込んでいた。本当にやるべきこととかやりたいこととか、そんなものがわからないのにエネルギーだけがあって、何かのきっかけであいた風穴から一気にそのエネルギーが放出され、でもそっちの方角に行きたかったんだっけ!?これが私だっけ!?って自分で不安になる感じ。友達やクラスメイトは「こういう人」というそれぞれはっきりとした「私」を持っている気がしたし、みんな自分がやりたいことをやっているように見えた。みんな「私とは誰か」の答えを出してしまっている。だから、毎日他人に圧倒され、私だけが出遅れている気がしたのだ。
でも今思うと、別にみんなだってやりたいことやってたわけではないのではと思う。謎のエネルギーは見るからにみんなにあったけど、でもそれは自分も同じだった、自分が何をすべきなんて当時完全にわかるわけないだろ、と今の私は思うわけで、じゃああの時自分に見えた「みんな」の姿ってなんだったのだろう? 帰り道にふと急に我に返って、教室じゃしない表情をしていた子もたくさんいたのではないか。私は私のことは、自分自身だからこそその戸惑いに気づくことができる。他人と自分の差って、たぶん、それだけなのだ。『女の園の星』を読んでそんなことを考えていた。作中の女の子たちはみんな独特な行動に出るけれど、不思議と「高校生の物語」を読んでいるのに、彼女たちの行動や性格は彼女たちの確固たる「私」によるものではないような気がした。本当にやりたいことをやっているというより、もっと気まぐれな感じがする(星先生の観察日記とか)。何年後かには「なんでこんなことしたんだ?」って本人たちも疑問に思いそうな行動ばかりが詰め込まれている。それで、その姿を見られることに私はすごく癒されているんだ。自分がどんな人間かなんてまだ全然知らない子たちの、でもものすごく個性的な日々だ。そういうもんだって、あの頃の私が知ることができたらどれだけ楽だっただろう、それともあの頃じゃ気付くことはできないのかな?
人は他人のことを簡単には理解できない。他人の「行動に移せないこと」「言葉にできないこと」まで知ることはできないし、結果的に形になった言葉や態度だけでその人がどういう人なのか判断するしかない。そもそもそれがとても不完全なことで、その不完全さに気づくことができないまま、全てを知り得ないからこそデフォルメされて見える他人の「くっきり」とした様に圧倒されてしまっていた。星先生の観察日記も当時の私が見たら「数年後には本人もなんでこんなこと?と思うはず」なんて発想できないのだろうな。あのころは見えるものが全てだと思っていた、自分だけが曖昧なまま存在していると不安にも思っていて、誰もが本当はその曖昧さを抱えているって理解できていなかったから。今だからこそ、『女の園の星』に救われているんだろうなって思う。
『女の園の星』に出てくる女子高生たちはみな、変わっていることをしているはずなのだけど物語のために変わったことをしている、というよりずっと本人たちは日常を生きているだけだった。キャラクターとして個性的に見えても、彼女たちの行動や発言は、そのキャラのためにあるというより、さまざまな偶然やなんとなくの流れで結果的に今はそうなっている、だけのように見える。本人の本心や性格を読者に教えるために描かれた行動や言葉がたぶんほとんどなく、彼女たちの行動はもっと偶発的なものに感じるのだ。この軽さが、むしろ本当によく知っているもので当時私の中にあった何かにつながる気がして、読むと落ち着くんだ。
青春を描く作品を見ていると、それぞれの人がはっきりと心を持っていて戸惑う。その心がはっきりと描かれていて、戸惑う。私はそんなに自分の気持ちをくっきり持っていなかったが?と思ってしまう。私の性格が私の行動や言葉と直結したことなんてあの頃なかったが!?と叫びたくなる。大体キャラがぶれないとか人間として怖すぎる、性格が一言で言える人間とか、普通にホラーに思える。「こういう人」と言えてしまう人なんてこの世にいるわけがないだろ、と思いながら「こういう人」がたくさん出てくる物語を読んでいた。『女の園の星』には、そういうくっきりさがないまま、それでも、一人ひとりが違っていてだから面白いのだ。彼女たちの性格を見分けているというより、もっと集団の浮き足立った空気から生まれるカオスな人々の気まぐれと、その漣を見ているという感じがする。それで他者を区別できることが、あのころの教室で見ていたものと重なるのだった。
これはなんとなくだけど、たぶん彼女たちのあの面白さは、先生たちの中にしか記憶として残らないのだろうなぁって思うのです。自分のやりたいこととか言いたいことが全てできているわけではなかったあのころ(今だって完全にはできてないけれど)、私は誰が何をしたとか自分が何をしていたかとかそんなにはっきりとは覚えていなくて、でも思い出せばエネルギーがぶんぶん使われていた感触だけは残っているから、多分ものすごく珍妙なこともあったんだろうな。彼女たちを見ていると、もしかして私たちの謎めいた行動も、当時本当に存在感がなく、毎日授業以外で何をして生きているのかちゃんとよく知らなかった先生たちの中に残っていたりするのだろうか?などと考えたりする。だとしたら絶対にもう一生会いたくないなって結構本気で思いもするのです。
・『女の園の星』(和山やま・著)特設サイト - 祥伝社
https://www.shodensha.co.jp/onnanosononohoshi/
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