復元の実とは何ぞや『祭儀研究委員会答申書』
教祖100年祭を翌年に控えた立教148年(昭和60年・1985年)、『みちのとも』11月号に「特集」【復元四十年 第一部】として、本部員、田邊教一氏による「神道とのかかわりの中で」と題された随想が掲載されました。
その中で田邊氏は「復元とは、単に復旧ではなく、元を極め、根源をたすねる所に、復元の意義がある」という二代真柱の言葉を引用した上で、
と述べました。
「復元」の何たるかをとても分かりやすく教内に示した文章であると思います。
その後、今日までに一般教会においても〆縄(注連縄)が撤廃されましたが、お社・御簾などは今もなお使われています。
実は、復元の一環として神道色を取り払おうとする提言はそれ以前からもありました。
前掲の田邊本部員の随想から遡ること35年。昭和25年8月26日に祭儀研究委員会から教務総長の諸井慶五郎氏と詰番の中山為信氏に宛てて、下記画像の『祭儀研究委員会答申書』が提出されています。教祖60年祭から4年後のことでした。
委員には当時の天理教団をリードした方や、若手であってもその後、重要な役割を担われた方々が綺羅星の如方く名を連ねています。
この時、委員に任命された方々の年齢をみてみると、たとえば6年をかけて『おさしづ』の編纂に尽力した桝井孝四郎氏は56歳。また、後に名著『天理教教義学序説』や、多くの布教師が病さとしの手引き書とした『身上さとし』(私個人は『身上さとし』には否定的ですが)を物した深谷忠政氏が38歳。
天理教本部が、大任に耐え得る信仰と見識を持つと認めた方々が、世代を横断的に任命されたのではないかと推測できます。
答申書の内容は多岐にわたっていますが、今回は上掲画像の『祭儀研究委員会答申書』②の左ページから④の右ページに記載された「第四 祀り方について」という項目に触れたいと思います。以下にその部分を文字起こししました。
一読して、私は祭儀研究委員会のラディカルな意見にとても驚きました。特に
第四 祀り方について
(2)お社は改めること(雛形提示)
については、全国1万有余の教会での祀り方を一気に改めることの難しさに理解を示しつつ、「床の間式の神床」(形状など詳細は不明)を考案し、今後機を窺いつつ、正しい形に改定していくことを上申しています。
また「つとめ場所」ふしんにおける「社はいらん小そうてもつとめ場所を建てかけよ」との教祖のお言葉を引用し、神殿の中に更に社を作ることが、「屋上屋を架す」ことにならないだろうか?とも指摘しています。
さらには祭典日に限って社の扉を開くというのは、普段は御分霊を閉じこめているということであり、教祖の「扉ひらいて」との思召しに反していると、非常に正鵠を得た意見も記載されています。
あるいは
(3)祖霊殿又は霊床では霊様を一所に祀ること
についても、複数の霊社が存在すると、同じところに合祀されるべき家族(親子夫婦兄弟姉妹)の霊が、分散して祀られることの可能性を示唆し、加えて、お道における「霊(魂)」の考え方についても再考の余地があると問題提起もしています。
また同時に、一般教会に関する霊舎の問題のみならず、本部祖霊殿に三舎祀られていることへの違和感にも言及し、それを改めるように建言しています。
これらの進言に僕は驚きました。感動的ともいえる答申書です。
もちろん、第四 祀り方について (2)お社は改めること(雛形提示)で触れられた地方教会における「お社」は神道の影響を深く受けたものですので、祈りの目標物として適切でないことは言を俟たないでしょう。
しかし現実的には教会のお社は、多くの人が神様のお住まいと考えておられたでしょうし、何人にとっても決して疎かにできぬ大切なものです。何十年もの間、教会で最も尊ばれ、また何十万回と額づいてきた礼拝の目標物なのですから。
それだけに「お社を改廃したら、一体何に向かって礼拝するのだ?」という、信仰にとって重要な問題が生じます。
この『祭儀研究委員会答申書』が提出された後、時を経て注連縄、垂紙、榊(玉鏡剣)、五色の布、真菰は廃止されました。
しかし肝心の「お社」は手つかずのままであり、その後議論の俎上にのぼったという話しも聞いたことがありません。それは「お社」の持つ性格が、すでに廃止された注連縄、垂紙、榊(玉鏡剣)、五色の布、真菰とはまったく異なり、真実の祈りを捧げる際に神様へと繋がる対象物であるがゆえに、装飾品や神具などと同等に論じることが不敬と考えられたからかも知れません。
また、現実問題として、全教が納得する「お社」に代わる礼拝の目標を決めることが困難だったのではないかとも推測できます。神殿の上段が狭い教会では改築などを要するやも知れず、信仰の本質に関わることとはいえ、ことはそう簡単ではないでしょう。
さて、お社に代わるものは何か?と考えた時、教祖時代に一時礼拝のめどとして祀られていた御幣でもいいのではないかという意見もありますが、これもまた神道のものに違いはないので替える意味がありません。
また「かんろだい」を小型化した「レプリカがいいのでは?」という意見も耳にします。確かにそれなら神道色の濃いお社を拝するよりも、より天理教的であるような気もしますね。
しかし、天理教本部は包括関係を解消した幾つかの教会や団体がかんろだいを模倣したものを囲んでかぐらづとめをつとめていることを考えると、それらの団体に追従するかのような改革案を本部が受け入れるはずがないと思われます。
ていうか、レプリカのかんろだいには僕自身も抵抗があります。
しかし『復元』とは何ぞや?
と考えるとき、教祖の本来の教えに立ち帰ることこそが主題であり、そのためには様々な人間的思惑を断ち切ることも必要なのではないかと思ったりもします。
礼拝のめどとしてふさわしいものがあれば、何でもかまわないと思います。
ちなみに私は、おぢばのかんろだいの周囲に敷き詰められている「石」を各教会に配布し、それを礼拝のめどにする、というのもアリかと思っております。
いずれにしても、72年前に『祭儀研究委員会答申書』で委員たちが熟慮の末に訴えた
「即ち一般教会の祀り方に就いても、克く教義の本義に照應して深甚なる考慮を致し、若し御社を改廃するとすれば、今こそ其の絶好の時旬ではなかろうかと思われる、この意味に於いて本問題は可成り至難な事項であるが、敢て審議の俎上にのせた次第である 」
という答申を、次の年祭を前にした今、再考してもいいのではないでしょうか。そこには二代真柱が度々口にした「復元の実」が詰まっているように思えてなりません。
思えば、教祖のご生涯(今も存命だろ!というツッコミはご容赦ください)は、一面では
と叫び続けられた日々でもあったと言えるのではないでしょうか。
かつて私たちの先輩は明治20年(陰暦)1月26日に、神様から「人間の思いと神の思惑のいずれを選ぶのだ?」という究極の選択を迫られ、命を賭けて「心定めが第一」という正しき答えを選ばれました。
教祖のお言葉や正月二十六日における先人の心に思いをいたす時、「お社」などの問題も含め、「復元の実とは何ぞや」という超難解な問いに、答える旬がきているのではないかと思っております。
こい願わくば、それがすでに手遅れでありませんよう。
我々は今なお「復元」の途上にいるのですから。
ではまたいずれ。