今日はちょっと毛色の変わった記事を書きます。
このところサッカーやラグビーのワールドカップ。あるいはつい最近行われたWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)などでの日本代表の躍進ぶりはめざましく、観ていて心ときめくものがあります。
スタジアムでは日の丸の小旗がうち振られ、オーロラビジョンに涙する人の姿が映し出されたりしますよね。こちらまでウルっときてしまう瞬間です。
実はこうしたシーンを観るたびに、僕は必ず思い出すことがあるのです。
今回はちょっと長い話になりますので、覚悟して読んでくださいw
まず2021年11月24日の『プレジデントオンライン』に掲載された記事を全文掲載します。長文ですが、読む価値のある文章だと思います。
これは第二次世界大戦で日本が敗戦した直後に、地球の裏側ブラジルで起きていた事件に関する記事です。
ブラジル日系社会で起きた"勝ち組""負け組"の話をご存じの方も多いと思いますが、そうで無い方にはこの機会に是非知っていただきたいと思います。
■「勝ち組」「負け組」の悲劇 傷付けあう日系移民
長文でしたよね。お疲れ様です。
何故このような長い文章を全文引用したかというと、わずか77年前に地球の裏側で日本人同士が傷つけ合うという、悲劇の歴史があったことを知って欲しかったからです。
現在でも[ブラジル 日系移民 勝ち組 負け組]でググると、多くの記事がヒットしますので、興味のある方は検索してみてください。
当時のブラジル日系移民の中にも天理教の信者がいました。
主に原野を開拓開墾して農地を造り、そこで作物を作ることで生計をたてる。そのかたわら教祖の教えを広げていこうとした方々です。
それは筆舌に尽くしがたい苦難の歩みでした。日系移民の苦労についてはネットで検索していただければ多くの文章がヒットしますので、よかったら調べてみてください。
ブラジルの天理教については次の記事を読んでいただくと概略がつかめると思います。
■ブラジル伝道庁50年の歩み
南米ブラジルには「ニッケイ新聞」という名の新聞があります。ニッケイは日系を意味します。
「ニッケイ新聞」は「パウリスタ新聞」(1947年1月創立)と「日伯毎日新聞」(1949年1月創立)が1998年に合併して創立された「ニッケイ新聞社」が発行する新聞です。
そのバックナンバーにこんな記事があります。
ブラジル日系人社会で起きた「勝ち組」と「負け組」の抗争には、前掲した天理教信者の皆さんも巻き込まれてしまいました。
そんな中を、後に天理教ブラジル伝道庁の初代庁長となる大竹忠治郎先生は信者をまとめ、心を一つにして乗り越えられたのです。
約40年前、ブラジルに住んでいた僕は、終戦直後の混乱期に「勝ち組」に命を狙われたという天理教の古老から直接話を聞く機会を得ました。
数人の勝ち組のメンバーから追われ、原野をライフルと拳銃で応戦しつつ逃走し、最後は馬を得て逃げ切ったということでしたが、古老が語る抗争の詳細な描写は耳を覆いたくなるほど凄惨で哀しい物語でした。
こうした話を聞いているので、僕は昨今の日本で普通に使われるようになった「勝ち組」「負け組」という言葉に強い違和と嫌悪をおぼえてしまうのです。
■日の丸と君が代 祖国の旗・心の歌
ところで皆さんは「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ…」という文章を読んだことがおありでしょうか?
これは「教育|勅語《ちょくご」」(何それ?ですよねw)の冒頭に書かれている一文です。
1890年(明治23年)に発表された「教育勅語」は、正しくは「教育ニ関スル勅語」といい、教育に関する天皇陛下のお言葉という意味を表しています。これは長く日本の道徳教育の根幹となりました。
にわかには信じられないかも知れませんが、ブラジルの日系コロニアの一部では、今もなお新年には玄関先に日の丸を掲揚し、皇居の方角を向いて遥拝し、教育勅語の奉読や君が代の斉唱を行っているのです。各家庭には昭和天皇・皇后両陛下のご真影も掲げられています。
ことほど左様に、日系コロニアには、いまだに古い日本が残っています。祖国から棄てられた「|棄民《きみん」」と言われたにもかかわらず・・・。
真っ二つに分かれ、同族相食む哀しい抗争を繰り広げた日系移民社会にあっても”勝ち組””負け組”という立場の違いに関係なく「日の丸」は紛れもなき祖国の旗であり「君が代」は心の歌でした。
日本の国旗・国歌が「侵略の象徴」「帝国主義の旗」と言う人たちが日本にいることを彼らは知っています。
それでも「忌まわしい過去の戦争を乗り越えた旗だからこそ、誇りを持てるのではないですか」と穏やかに語りつつも、昂然と胸を張る彼らの姿を忘れることはできません。
ワールドカップやWBCなどで日の丸が掲げられ、小旗が打ち振られるたびに、僕は彼ら日系移民たちを思い出してしまうのです。
これまでにも「日の丸・君が代は国旗・国歌として相応しいのか?」という話題が度々議論の俎上に上がってきました。
先にお断りしておきますが、僕はこれまで政治的問題を語ることを自らに戒めてきました。そして今後もその姿勢を変えるつもりはありません。なのでこの記事に政治的意図はまったく無いことをご理解ください。
この問題に対して、某党は
という見解を表明しました。
そうした意見が出ることは当然だと思っています。国家が勝手に始めた戦争で大切な人を亡くした方もいらっしゃるでしょう。戦地で泥水をすすり、草を食み、腕や脚を失った方だっている。
僕は子供頃に本部神殿前の石畳脇で、白い病衣を着た傷痍軍人の方々が募金を求めている姿を実際に目撃しています。
悲惨な戦争がもたらした災厄のみならず、様々な理由から日本という国家を恨んでいる人は大勢存在します。日本人であることを恥じる人だっている。
そうした人たちの「日の丸・君が代は国旗・国歌として認めない」といった声を認めることも、多様性社会の本義に相応しいものであり、それは日本という国家の成熟に繋がるとも思っています。
ただ、僕は日の丸が日本の国旗として相応しいか相応しくないかという議論をここでするつもりはありません。簡単に正答を得られないであろうことは瞭然としています。
なので、その問題はちょっと脇にどけておき、もう一つ皆さんに読んでいただきたい記事があります。
これは2004年(平成16年)10月23日17時56分、新潟県中越地方を震源として発生したM6.8、震源の深さ13キロの直下型の地震が発生した際に書かれたニッケイ新聞の記事です。
当時のレートで考えると、約556万円という額は現在の日本では5,000万円に相当します。その後、義援金以外にも救援物資が届いたそうです。
日の丸とブラジルの国旗が貼り付けられた空輸用コンテナは、祖国を離れて生き抜いてきた日系移民にとって、どれほど誇らしいことだったでしょう。
僕はそんなことを思いました。
国歌である"君が代”についても
と言われていますが、その意見も否定はしません。そういう考え方もあって当然です。
でも一つだけ僕の意見を言わせていただくと、君が代の”君”を「日系移民を含む全ての日本人とその血を継ぐ者」と思い定めれば、あながちこの歌も捨てたものではないと思うのです。
薄っぺらな感傷に過ぎないのかも知れませんが、前述した日系移民たちが(もちろん天理教信者も含みますよ)遙かなる異国の地から、日の丸・君が代を母なる祖国の国旗・国歌と信じて仰ぎ見る限り、日の丸・君が代は誇り高き我らの旗であり、心の歌だと、僕は強く思ってしまうのです。
確かに日の丸・君が代は悲劇や侵略を象徴する旗なのかも知れません。しかしその後、焦土から立ち上がった僕たちの父祖が、血涙絞る壮絶な努力の末、遂に勝ち取った平和と復興を象徴する旗であり歌であるとも言える気がするのですよ。
今回は普段とまったくカラーの違う記事になりました。重ねて言いますが、政治的立場の違いや、日の丸・君が代を認めない方々と争う為に書いたものではないことをご理解ください。
■天理教ブラジル伝道庁 初代庁長 大竹忠治郎
先日、古いアルバムを整理していたところ、ブラジル天理教の父と呼ばれる、天理教ブラジル伝道庁初代庁長の大竹忠治郎先生と僕が並んで写っている写真が出てきました。その時に懐かしさと共に僕の心の襞のようなものを引っ掻いたナニモノかが、今回の記事を書くきっかけになったのです。
なので、最後に少しだけ感傷的なことを書かせてください。
天理教ブラジル伝道庁初代庁長 大竹忠治郎先生の思い出です。
「大竹忠治郎先生」などと呼ぶと、きっと「水臭いなあ」とおっしゃるでしょうね。では、あの頃のように庁長さんと呼ばせていただきます。
庁長さんは80歳を超えて尚、少年の心を失わない方でした。
伝道庁での朝夕のおつとめ前に、自ら呼び太鼓を鳴らすことを日課とされていましたね。
晩年には歩行がかなり困難になられていましたが、それでも両脇を抱きかかえられるようにして呼び太鼓を叩いておられた姿を僕は一生忘れません。
若かりし頃、ブラジルの原野に散在し農作業に汗を流す天理教信者さんたちに向け「届け!」と念じて呼び太鼓を打たれたていたのではないかと僕は想像をたくましくしていました。
初代伝道庁長となられた後も、そして晩年になっても、おつとめを知らせる呼び太鼓の音は、歯を食いしばって歩む信者さんたちに向けた親心の具体だったのではないかと。
ある日、伝道庁からクルマで3時間ほどの所にある天理教の布教所に、運転手としてお供させていただきましたね。
布教所長さんが風邪をひき、伝道庁の月次祭に参拝できなかったので、様子を見に行かれたのでしたね。
庁長さんは布教所に着くなり、何の見舞いの言葉もかけず「お前、なにをしているんや!しっかりお道を通ってるんか?」と、お叱りになられた。
僕はその厳しいお声にびっくりして固まってしまい、そして思いましたよ。「布教所長さんだって70歳を越えているのだから、もっと優しい言葉をかけてあげればいいのに」と。
でも、まだ20代の僕は浅はかでした。
80歳を超えた庁長さんに叱られた所長さんは、その途端ホロホロと涙を流され、
「申し訳ありません。実は最近勇めてませんでした。心入れ替えて通らせてもらいます」
とおっしゃり、深々と頭を下げられました。
庁長さんは
「分かってたで。そやから来たんや。しっかり通らせてもらうんやで」
と、さっきとは正反対の優しい声で言い、莞爾として笑いましたね。
そして老いた所長さんの頭に右手を置くと、軽くなでるようにされた仕草は、まるで親が幼い我が子に対してするそれでした。
僕はその時、庁長さんの掌から暖かな何かが流れ込んでいるような気がしてハッとしました。遠く祖国を離れて苦楽を共にし、血の滲む努力を重ねていらした方々にしか分からない無言の会話が、目の前で交わされていることに気づいたのです。
その光景は百万の言葉を以てしても及ばない大切な何かを僕に教えてくれました。
もしかすると、庁長さんは僕にそれを仕込むためにお供を言いつけられたのかも知れません。いや、絶対そうだと思いたい。
ブラジル天理教の父、大竹忠治郎先生。
わずかな年月であっても、庁長さんから薫陶を受けたことを我が胸の勲として、僕は日本で生き、そして信仰を続けています。
お背中をお流ししたあの頃を懐かしみつつ。
Te vejo mais tarde!
文責/Be Plus @Weapons_Officer
校正/Dr.Charlotte.Ozaki