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お道の女性について語ろう2

さて、今日もお道の女性について語りましょう。

ちょっと古い話になりますが、2020年1月のダボス会議でゴールドマン・サックスのCEOが「女性など、多様な取締役メンバーがいない企業については、そのIPO(新規株式公開)の主幹事を引き受けない」と宣言し、大きく取り上げられましたよね。アジアは対象外でしたが、日本でもかなりの反響がありました。
ゴールドマン・サックス証券会社、元日本副会長のキャシー松井氏(トップ画像の御方です。見るからに仕事が出来そうだ。名前もカッコいい!)によると

これは自社の価値観を押し付けようとして言っているわけではなく、経済合理性に基づいています。「リーダー層に多様性がある企業は、多様性がない企業に比べて長期的なパフォーマンスが良い、株価のリターンが高い」といった調査結果はたくさん出ています。特に最近はESG(環境、社会、ガバナンス)投資も増えていますし、より多様性のある企業にお金が流れる風潮があります。この流れは止まらないと思います。
「多様性のない企業とのビジネスはしません」となると、確かに短期的にはビジネス機会を失うこともあるかもしれません。しかし、長期的には、短期的なロスを上回るリターンを得られると確信していますし、こうした方針を表明することで、多様性の価値を理解していない企業も変わっていくのではないでしょうか。

という理由らしいです。説得力ありますよね。でも注意点としてこんなこともおっしゃってます。

男性が多い企業や業界にいると、無意識のうちに、周りの男性たちと同じような働き方をしなくてはいけないと思い込んでしまうことがあります。
私も、若手の女性のメンターをしていると、よくそうした質問を受けます。特に金融業界は競争が激しいですし、ある意味男性のようなアグレッシブさがないと評価されないところもあります。ただ、こういう時、私がよく言うのは、“Don’t try to be a man.”「男性になろうとしないで」。
そもそも男性になろうとしても無理なこと。それに、すでに男性が多いところに、もう1人男性を増やす必要はないと思いませんか? 全員が男性になっても困るじゃないですか。

ヒェー格好いい! 見識の高さが半端ないですね。
でも、我が天理教団にもキャシーのような女性がいるんですよ。何人も。
だけど先日も『不健全な会議』で書いたように、そもそも我々の教団には女性の本部員がいないんです。企業で言えば女性の取締役がいないんです。 天理教ではなかなか女性の意見が反映されないんですよね。悔しいですよね。腹立たしいですよね。
だからその方が書かれた文章をインタビュー仕立てにして掲載しちまいます。 
はい。そこの奥さんも女子青年さんも、どうぞお読みくださいまし。

R=某婦人会支部長  Be=インタビュアー

Be:Rさん、今日はよろしくお願いいたします。では最初に、コロナ禍で今起きていることについてお話いただきたいと思います。

R:はい。どうぞよろしくお願いします。
現在、経済にブレーキがかかって、失業、減給、ボーナスカットという話を実 際に身近なところで耳にします。夫婦ともに失業となり(飲食業)、5か月の猶予があるものの、保育園に預けることができなくなるかもしれないという話も聞きました。また、離婚や夫婦の口論、DVの話も身近でありました。
このような状況を見聞きすると、私たちは、コロナウイルスのせいでと思いがちですが、本質の問題は他にあるという目線で見ることが大切だと思います。それらは、これまでの良くない積み重ねがあってコロナ禍を機に決定的なことが起きてしまったということです。
このことの根幹にある問題が日本人の女性観にあると思っています。


Be:それは天理教の女性観にもリンクしますか?

R:はい。たとえば天理教青年会では、「夫婦仲良く」という提言を掲げておられましたが、それを見た時に、私は「その前にやるべきことがあるのでは?」と思っていました。まずは、男女という性差と役割の問題をしっかり見つめ直しはっきりとさせる必要があるということです。
この話になると、意外にも天理教を信仰してきた女性から圧を受けます。どういうことかといいますと、「女性は台だから、男の人を立てさせていただく存在であり、あれこれと指図するようなことはいけない。」女性の方が徳が足らない。男性は天、女性は地だから、汚いものすべて地に受け止めること。(ゴミ箱になれともいう)
女性は火、男性は水だから、女性が男性を下から温めてくれれば蒸気機関車のように男性はがんばるのです。などなど、他にも言葉にするには問題があるようなものもあります。
なぜこのように男性都合・男性優先と受け取られるようなことを言うのだろうと、私には違和感でしかありませんでした。
次世代の女性は、これを違和感なく受け止めることは稀だと思いますので、これ以上追求つもりもありませんが、教内のみならず、日本社会には、こういった根深い男性優位の価値観がもとで不協和と停滞を生む原因にもなっていると感じます。


Be:男性優位の価値観ということですが、具体的にどのようなものでしょう?

R:たとえばコロナ禍での家庭の問題は、結婚という密室で起きています。役割分担で、もめたり、女性側に問題があるケ-スもありますが、男性が優位であるという構造が崩れた時に男性がキレてしまったり、無自覚に女性を支配する関係におくために夫が暴力や暴言、嫌み、嫉妬を向けることがあります。
結婚という密室は、日本では「家に嫁す」「夫の姓になる」というところから関係性が作られています。歴史をひも解くと眠たくなる人もいるかもですが・・・

BE:お願いします。私は絶対寝ませんので

R:実は先日、私どもの施設の職員が入籍し、姓が夫のものに替わりました。年度の途中ですので、私は、もともとの姓でつとめればいいのではと思いましたが、日本の常識は結婚したことで夫の姓を名乗るのは当然のようで、私が変な人と映るようでした。私の友人たちは、もともとの姓で仕事を続けている人がほとんどなので、夫の姓を名乗ることの方が今や珍しい存在です。そんな彼女たちも戸籍上は夫の姓になっており、仕事上で別姓を使っているようです。そうしないといろいろと不都合があるのが今の日本です。
明治の民法には 第788 妻は婚姻によりて夫の家に入る。とあり、日本で夫婦同姓制度がとられたのはこの民法が元になっています。
「家」制度と女性の家庭における従属的な地位を規定していて、明治民法と呼ばれています。明治民法は、幕藩体制下の武士層でおこなわれていた長男単独相続にもとづく「家」制度を国家的規範とした。男性戸主を中心として「家」が構成され、家族、が作られました。
妻は夫の家に入るものとされ、夫の姓を名乗り、離婚すれば旧姓に戻った。また妻は無能力者とされ、法律上の行為に夫の許可が必要だった。遺産相続では、妻は他家から嫁としてはいってきたにすぎないとの理由で妻より庶子が優先されたんです。(史料に見る日本女性のあゆみ)
この民法は、明治31年6月に公布されていて、同じ年の3月に奇しくも、「婦人会始めかけ」のおさしづが、増野いと身上願いの際、伝えられています。女性がさらに埋もれることになる社会構造をいち早く予見してのおさしづだったのではという見方もできると私は思います。



Be:「婦人会始めかけ」のおさしづと明治民法の公布が同時期というところに不思議なものを感じますね。今もこの民法の影響があるように思えるのですが。

R:この「家」制度は、もちろん今は無効ですが、夫婦はどちらか一方の姓を名乗ることになっており、今だ夫婦別姓は認められていません。家父長制の上意下達の構造は今も続き、特に明治時代に生まれた天理教の教会に代々色濃く受け継がれている現状があります。
この構造は、教えと何ら関係なく、社会的文化的に作られた性差の役割構造です。この構造が国家の安泰の形であるという方もありますが、果たしてそうでしょうか。現在、実際の生活の上では、家父長制のような構造は成り立たず、性差の役割に関係なく、家族の者が互いに助け合っていかなくては明日どうなるかわからないような世界になっています。
そんな中で、男は天であるから、仰ぎ見て女は前に出てはいけないなどと、ゆがんだ解釈をするようなことでは、この先、女性はどんどん離れていくでしょう。
この日本は世界からみてもまれにみる女性蔑視の国です。男性が女性のやること、考えることに不快感を表し、噸笑する光景を私も何度も見聞きしてきました。
このコロナ禍で、外出が少なくなったことでパートナーからのモラルハラスメントやDVが激しくなったり、子供への虐待、過干渉が強くなり、家族が苦しいものになってしまっている方も多くいます。かけるべき言葉を間違えないように私たちは、教えのゆがんだとらえ方を今捨てるべき時だと感じています。

Be:教祖は女松男松に隔ての無いことを説かれたにも係わらず、いまだに教内に男性優位の空気はありますが・・・

R:仰るとおりですね。貝原益軒の著作「和俗童子訓」(1710年)には、幕藩制下の家制度や婚姻制度を存続、強化させるための女子教育の内容が書かれています。
「ひとたびゆきて帰らざるは定まれる理」として、女は、「仮の家」に生まれ夫の家ヘ「帰る」のである。夫の家に異分子として、たった一人で乗り込んでいく嫁がいかに処せば家族として迎えられるかは、ひとえに自我を圧し殺した和順の実践にあり、夫をはじめ夫の両親・兄弟姉妹に慎み仕えることが第一である。(史料に見る日本女性のあゆみ)

1798年にお生まれの教祖は、まさしくこの女子教育の浸透する社会でお育ちになり、実践されたことが今も語られているのです。これを手本ひながたとして現代に生きる私たち信仰者がとらわれすぎていることに苦しさがあるのです。
ひながたとすべきところは、月日のやしろとなって以降の50年の道すがらであり、親神様の真実話をどこまでも貫かれ、世界だすけの道を歩んだことであり、江戸、明治の因習の部分ではないのです。「婦人会始めかけ」のおさしづには再三再四「男女の隔てない」ということを訴えかけられています。当時おやしきの女性の働き場所は炊事等の家事に限定されており、社会につながらず埋もれてしまっていることを危倶されたのです。
このおさしづを引用して男女の働きについて語られるとき、「とはいうものの、男には男の道があり、女には女の道がある」という話になり、結局、聞き手は、それぞれの都合の良いように捉えることとなり、明治時代の性別の役割の呪縛から脱することができない構造になっているように思います。「この人だからこの役割を」「自分はこの役割を」という性差を前提としない考え方を伝えることが呪縛を解く力ギとなるのではないでしょうか。それは、生きづらさを感じている男性にとっても自分らしく生きられる道になると思います。
人間一人一人は、十全の守護のお働きを一様に身の内に頂いているお互いです。男性性も女性性もそこには含まれます。私たちは、必要に応じて男性性も女性性も使い分けることがあるものです。LGBTQの偏見を解消する力ギもそこにあると思います。
教内で離婚を肯定的に語られることは目にしたことがありませんが、現状は、離婚も仕方なしというケ-スに向き合う機会が増えています。例えば、男性側に問題がある場合としての原因に「依存症」があります。そしてそのバックグラウンに女性蔑視、男尊女卑の根深い刷り込みがあると私は思っています。
男性の女性蔑視は男性優位の構造の中で何をしても許される、離婚などされないという強固な信仰となって依存症的行動に拍車をかけていくのです。依存症も治ることのない病と思っていますが、人間の差別感情というのも根深いものがあります。それは何も男だからということではなく女性にも等しく差別感情というのは何かしらあるものと思います。代々受け継いでしまった男尊女卑の差別は、見えないところで発揮され、妻や家族を追い詰めていきます。
コロナ禍の家庭では、雲行きの怪しくなった仕事上のストレスを家庭で発散したり、男性の優位性を保とうとする上から、高圧的になって女性や子供に指導的であろうとする態度が疎んじられ、ついには孤立し、暴力、暴言、嫌みを吐くようになるという負の渦に陥ることがいたるところで起きています。

Be:Rさんの元にもそういった問題が寄せられていますか?

R:私のところにも、離婚も考えているとの相談を受けています。でも、今すぐには離婚できる状況ではないから、我慢をして時間を過ごしているだけのようです。
これまでの時代(私の親世代)は、理不尽な状況でも女性が耐え忍ぶ、あるいは、男性の優位性を保つ思考に女性が変わることで離婚を回避してきたように見えます。
これまでは、夫婦の破綻は家の破綻に直結していたため、回避しなければならない状況であったのです。今は、家制度に縛られることがなくなったため、離婚を回避する理由が薄らいだのです。ですが、相変わらず男尊女卑の差別は、根強くあり、女性のいたらなさを責める展開になりがちなのは、女性の中にも劣等意識が強くあり、「妻として、至らなかったのかもしれない」と反省を促される構造があるのです。(呪縛以外の何物でもないので、私は一蹴してしまいますが)
ポテサラおじさんとして話題になった件も男尊女卑世代の言いそうなこと。総菜売り場で「母親ならポテトサラダぐらい作ったらどうだ」とは、どの口が言うのでしょう。 
このように、料理しない母親は失格というジヤツジするおじさんや「キレる老人」が巷に増えているのは、家制度や男性優位社会に恩恵を受けてきた旧世代の断末魔にしか見えません。世界を見渡しても、様々な差別が根強く残り続けています。有色人種というだけで劣等なものとされ、6月に差別が原因で世界的暴動に発展しました。差別意識というのは、簡単には変わらないものと思っておいた方がよいと思います。
女性がなぜ離婚を決意するのか、それは無意識ではあるけれど、負の連鎖を断ち切ることを決意するからだと思います。教内にも「離婚をすると子どもも離婚するからやめておきなさい」などという謎の理由を言う方がいますが、毅然とした態度を示さなかったために、幼稚な男性を放置し、こんなにも長く男尊女卑を許してきた日本になってしまった面もあると思います。 私たちは、一つ一つを冷静に見つめて取り合う必要のないこと、傷つく必要のないことを捨てることが大切です。
コロナ後の離婚は増えたとしても、「男女隔てない」世界に近づくための段階として必要な場合もあるかもしれません。様々なリセット後、本当の意味で陽気ぐらしのできる夫婦が生まれる社会になっていくことを願いたいと思います。

「・・・数々の中に突き合わせ、世上男女言わん。何程女でも道のため運んだ事情聞き分けにゃならん。・・・」「・・・これから話、男女隔て無い。よう始めた道聞き分け。この道始めたは男か女か。これから悟ればどんなこともわかる。・・・」「・・・この道どういうことから成った。男女隔て無い。一つの台にして始め掛けた。この理がとんと分かりがたない。この道の始めた教祖一代の処は女、後席は男。男女隔であるか無いか。この順序の理、日々取り次ぎ、男女の隔て無い。・・・」

【参考】明治31年3月25日~10月26日までの婦人会にまつわるおさしづより抜粋

Be:最後に、これからのお道について、また女性の生き方ついて、どのようにお考えですか?

R:先月の○○支部の例会で、直属委員部のコロナ渦の影響等をお聞きしました。月次祭時の食事をお弁当配布するなど対策をしている現状があるものの、特に目立った変化はない様子で、むしろ落ち着いて生活ができているといった内容でした。
110周年記念総会中止、こどもおぢばがえりの中止は、私たち婦人会にとっては前代未聞のことでしたが、どこかほっと胸をなでおろす出来事だったのではないかと思います。
おぢぱへの帰参計画と時間的拘束のある過酷なひのきしんは、教内の人たちだけで考え、まわしていこうという構造に無理がありました。また、10年前20年前の成功例をたよりに同じようになぞっていく行事のあり方も考え直す必要があるでしょう。
私たちは、学び続ける必要があります。若い時の学びのみで終生、生きられることはないです。「教えは変わらないから」といって、言語も伝え方も変えず、生活様式や文化の変容にも対応せず、一方的に「世代ギャップ」ということで分かりあえないと思うことは、ただの怠慢だと思うのです。学び続けることは、生きるために必要なことです。「○○をしなかったら、悪いことが起きるかもしれない」という思考を呪縛といいます。呪縛は心の自由を奪います。「がんばれない自分が許せない」これもまた、一種の呪縛だと思います。
今、コロナ渦の下、「がんばれない経験」をさせられている人もあるでしょう。自分が許せない人は、人も許せないのではないかと思います。許せないと思う心で満ち溢れていると、当然、豊かさとは無縁の世界に自分を置くことになりますね。また、「がんばっている自分」を意識しすぎると、神様が味わわせようとしているこの世界の豊かさを受けとることができないように思います。
県をまたいでの移動を自粛するような中で、おぢぱに集結することを第一にすることができなくなりました。人数を集めることを価値としてきた行動にも歯止めがかかりました。人口密度の低い地方での暮らしは、感染症のリスクが少なく、一極集中型の都市のような価値は無くとも、そこでの暮らしは心豊かに暮らせます。比較し、競争する世界が無意味になり、それぞれのエリアで自分の存在価値を見つけ出そうと行動する人たちが増えてきているように感じます。
地域貢献的活動の中で、様々な人とつながり、心の豊かさを手に入れていくことも陽気ぐらしへの道でしょう。各地にある教会の存在価値が見直されていくかもしれません。そこにあるだけで、生きてくれているだけで、周囲の安心安定をもたらしてくれるという存在価値もあるものです。陽気ぐらしは、呪縛や競争のない、心の自由を得たところにあると思うのです。立ち止まらさせられている今は、大きく深呼吸をして、息苦しさを手放す時なのかもしれません。

Be:ありがとうございました。

R様より
みなさん、インタビュー記事をお読みいただきありがとうございました。コロナウイルスよりも熱中症対策の方が必要な様相の(当地では40度越えを記録する)暑い毎日です。相変わらず、状況は混とんとして、何を信じていいのかわからないような状況だと思います。
今は、休憩と長期的な目標を考え、準備する作戦タイムの時間だと感じます。行事ができないと、考えることがより身近なことになりますね。
今回は、私たち女性が国家的戦略の男性優位の社会の中で翻弄させられてきた歴史の気付きについて書くこととなりました。「女性活躍」を政府が打ち出してしばらくたちますが、長年の「男性は外で働き、女性は内をおさめるように」としてきた体質はそうそう変わることなく、ここのところの経済の落ち込みでさらに迷走しています。
お隣の台湾では、女性の総統が殺然とリーダーシップをとって難局を乗り越えています。日本は、様々な面で後進国です。教育の世界では、戦後教育のままかわらずに、言われたことを従順にできるまじめな人間を育ててきた仕組みを変えようと取り組みだしているところです。
 私たちは知らず知らずに社会的文化的な規範を疑うことなく受け入れてきてしまっていることがほとんどです。同調圧に流され、多くの人がよしとすることを受け入れてしまうのです。この先は、本当にそうだろうか?と真実を疑ってかかるような姿勢が必要です。それは、社会的な事ばかりではなく、身近な人間関係にも疑ってかかる意識が必要と思います。
人の本性は、非常時にわかるものです。本当に自分を大切にしてくれる人は誰なのか、本当に信頼できる仲間はどういう人たちなのか、思い込んできた信頼の関係、家族だから、信仰者だから、上司だから、部下だから、女だから、男だから、親だから、子だからと、信頼していた関係も一度、人としてどうなのかという目線に立って見つめ直す必要を感じます。
例えば、あなたに暴言を吐くような人に喜んでもらうために奮起したところで、しょせんがんばっても、この先も、ろくな反応は得られないと思うのです。その関係に依存していくことを手放すと楽です。いっそのこと、ダメレッテルでいた方が、人間自由でいられます。
私は、妻としても、母親としても不良なので、ポテサラおじさんが来たら、最高の皮肉で、容赦しないと思います(笑)身近な方とのお話し合いに、この婦人報を種にしていただければと思い書きました。

以上です。どうでしたか? 私は控えめに言って超絶感動しました。震えましたね。リーダーとはこういう方を言うのでしょう。
Rさんにはまた登場していただきますので、皆さん楽しみにしていてくださいね。


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